大鷲院
所在地 豊田市足助町内 地図をご覧ください。
地図は此処をクリック
道沿いにあった「大衆院」の説明板です。
次のように書かれています。
扶桑山 大鷲院
当山は、扶桑山大鷲院と号し、当初天台宗の古刹であったが、大永年間(1521~1526)
に心渓桂賢和尚が曹洞宗に改宗し、八代を経過した文禄二年五月山崩れのため諸堂
皆滅し断絶するに至った。
その後十年を経た慶長七年二月、現開山心翁英学大和尚によって再興された。御開山は
徳高く、衆望厚く、自然に信者が雲集し、たちまちにして諸堂ができあがったといわれる。
二世香山永薫和尚また傑物にしてよく教化につとめ、寺門の発展を計り、以後歴代
住職にその人を得て今日に至った。
ここには、次のように書かれています。
大鷲院への道、奥に山門
山門です。
山門の説明板です。
此処には次のように書かれています。
山門
四年の歳月を費し明治一六年に全てが欅で再建された。
正面の扁額「正法」は明治維新の偉傑山岡鉄舟(1836~1888)
の筆による。楼上には一六羅漢花鳥図が配されている。 (足助町文化財保護委員会)
山門をくぐって大鷲院へ。
大鷲院の森は豊田市の名木に指定されています。
石垣です。この上に本堂があります。
石垣の説明板です。
大石垣の由来
文化一三年(1816)、この地方に大暴風雨がきて、農作物は全滅し、大飢饉となり、
餓死する者が出るほどでした。大運夷船和尚は、この惨状を見るにしのびず、欠壊した参道の
修理と大石垣を築造して、難民を救済することとしました。まず寺の保有米を放出し
檀家・信者の有力者を説いて米の寄進を受け、人夫賃を米で支給しました。
4300余人が救われたといいます。
作業を指揮した石工の親方は、テコの原理を工夫するため、夜な夜な線香で枕を
こじることを続け、ついに細線香で枕を自由自在に動かすことが出来るようになり、
大きな石を動かすことが出来たという話も伝えられています。(足助町観光協会)
本堂です。
本堂の説明板です。
鐘楼です。
所在地 豊田市足助町内 地図をご覧ください。
地図は此処をクリック
道沿いにあった「大衆院」の説明板です。
次のように書かれています。
扶桑山 大鷲院
当山は、扶桑山大鷲院と号し、当初天台宗の古刹であったが、大永年間(1521~1526)
に心渓桂賢和尚が曹洞宗に改宗し、八代を経過した文禄二年五月山崩れのため諸堂
皆滅し断絶するに至った。
その後十年を経た慶長七年二月、現開山心翁英学大和尚によって再興された。御開山は
徳高く、衆望厚く、自然に信者が雲集し、たちまちにして諸堂ができあがったといわれる。
二世香山永薫和尚また傑物にしてよく教化につとめ、寺門の発展を計り、以後歴代
住職にその人を得て今日に至った。
ここには、次のように書かれています。
大鷲院への道、奥に山門
山門です。
山門の説明板です。
此処には次のように書かれています。
山門
四年の歳月を費し明治一六年に全てが欅で再建された。
正面の扁額「正法」は明治維新の偉傑山岡鉄舟(1836~1888)
の筆による。楼上には一六羅漢花鳥図が配されている。 (足助町文化財保護委員会)
山門をくぐって大鷲院へ。
大鷲院の森は豊田市の名木に指定されています。
石垣です。この上に本堂があります。
石垣の説明板です。
大石垣の由来
文化一三年(1816)、この地方に大暴風雨がきて、農作物は全滅し、大飢饉となり、
餓死する者が出るほどでした。大運夷船和尚は、この惨状を見るにしのびず、欠壊した参道の
修理と大石垣を築造して、難民を救済することとしました。まず寺の保有米を放出し
檀家・信者の有力者を説いて米の寄進を受け、人夫賃を米で支給しました。
4300余人が救われたといいます。
作業を指揮した石工の親方は、テコの原理を工夫するため、夜な夜な線香で枕を
こじることを続け、ついに細線香で枕を自由自在に動かすことが出来るようになり、
大きな石を動かすことが出来たという話も伝えられています。(足助町観光協会)
本堂です。
本堂の説明板です。
鐘楼です。