恩真寺
所在地 愛知県豊田市山中町曝田100 電話 0565-42-1371
恩真寺への案内板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/dd/4350da60a51946d26d23536084eb0294.jpg//)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/58/74e5f9c28fab0f1825c2761429bb2bfc.jpg//)
上の写真地点から下の地点に至るまでは、鬱蒼とした樹林の中の細道で、それも上り勾配の坂道
ばかりで薄暗く、自転車は引いて歩くしかなかった。
案内地図です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/e7/bde679f77149a6349ef5a5bbbdb7d5de.jpg//)
恩真寺への途中に鈴木正三座禅石がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/c9/34391e0dff8eba3ee8e1e52ab90b3564.jpg//)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/84/1c6fff30622b33d8adfc7f0ca505ff2a.jpg//)
恩真寺です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/df/78c779758a8228599c1c10879cfc4ed8.jpg//)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/9e/f3e9724f18b22882c3049aec626d445e.jpg//)
市指定文化財の説明板がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/81/a265af53a6c875edc6a75a6b4fe31a6e.jpg//)
次のように書かれています。
市指定有形文化財
梵鐘 一口
木造鈴木正三和尚坐像 一躯 恩真寺
恩真寺は則定の旗本、鈴木九太夫重三、のちの名、鈴木正三に
よって建立された寺院です。
正三は近世仏教史上、文学史上に偉大な足跡を残した人物で、
恩真寺には数多くの遺品が残されています。
梵鐘は寛永二十一年 、正三和尚の願いにより鋳造されたものです。
坐像は正保二年二月に刻まれたもので、正三和尚の生前の姿をあらわした
像です。胎内には和尚百回忌にあたって分納したと思われる真骨が
納められています。
豊田市教育委員会
鈴木正三の墓地です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/ed/33f1f1064768cb39bdcab59f087c14ea.jpg//)
墓地の説明板です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/4b/612c28a115ff4193f29ad5659393b810.jpg//)
説明板には次のように書かれています。
鈴木正三墓地
鈴木正三は天正七年(1579)足助庄則定
の徳川氏に仕えた旗本・鈴木重次の下に生ま
れ四十二歳で武士の身分を捨てて出家して
七十歳で江戸に出るまで恩真寺を活動の拠点とし
ました。庶民に独特の実践的な仏教を説き「盲
安杖」、万民徳用」、「麓草分」「因果物語」など
多数の著書を残しました、
明暦元年(1655)六月二五日、七七歳で江
戸駿河台鈴木町の弟・重之の邸において亡くなり
ました。江戸天徳院で荼毘にふされ?重俊
庵、了心庵(江戸)と恩真寺に分骨されて埋葬さ
れました。
正三の木造は恩真寺をはじめ長泉寺(八王子
市)、心月院(足助町)、能仁寺(大分市)、報慈寺
(彦根市)に伝えられています。
豊田市教育委員会
豊田市の名木がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/fa/d733ce29039276467d93e7cf1f721f9f.jpg//)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/82/ec25f6c9e3cd79ee46a6c2e00195062f.jpg//)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/ff/94b73872d3ca2ab708c00fa5e0910e0e.jpg//)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/ab/40a417ebecb5b7de2a26d6c3011ac7c4.jpg//)
所在地 愛知県豊田市山中町曝田100 電話 0565-42-1371
恩真寺への案内板
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上の写真地点から下の地点に至るまでは、鬱蒼とした樹林の中の細道で、それも上り勾配の坂道
ばかりで薄暗く、自転車は引いて歩くしかなかった。
案内地図です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/e7/bde679f77149a6349ef5a5bbbdb7d5de.jpg//)
恩真寺への途中に鈴木正三座禅石がありました。
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恩真寺です。
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市指定文化財の説明板がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/81/a265af53a6c875edc6a75a6b4fe31a6e.jpg//)
次のように書かれています。
市指定有形文化財
梵鐘 一口
木造鈴木正三和尚坐像 一躯 恩真寺
恩真寺は則定の旗本、鈴木九太夫重三、のちの名、鈴木正三に
よって建立された寺院です。
正三は近世仏教史上、文学史上に偉大な足跡を残した人物で、
恩真寺には数多くの遺品が残されています。
梵鐘は寛永二十一年 、正三和尚の願いにより鋳造されたものです。
坐像は正保二年二月に刻まれたもので、正三和尚の生前の姿をあらわした
像です。胎内には和尚百回忌にあたって分納したと思われる真骨が
納められています。
豊田市教育委員会
鈴木正三の墓地です。
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墓地の説明板です。
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説明板には次のように書かれています。
鈴木正三墓地
鈴木正三は天正七年(1579)足助庄則定
の徳川氏に仕えた旗本・鈴木重次の下に生ま
れ四十二歳で武士の身分を捨てて出家して
七十歳で江戸に出るまで恩真寺を活動の拠点とし
ました。庶民に独特の実践的な仏教を説き「盲
安杖」、万民徳用」、「麓草分」「因果物語」など
多数の著書を残しました、
明暦元年(1655)六月二五日、七七歳で江
戸駿河台鈴木町の弟・重之の邸において亡くなり
ました。江戸天徳院で荼毘にふされ?重俊
庵、了心庵(江戸)と恩真寺に分骨されて埋葬さ
れました。
正三の木造は恩真寺をはじめ長泉寺(八王子
市)、心月院(足助町)、能仁寺(大分市)、報慈寺
(彦根市)に伝えられています。
豊田市教育委員会
豊田市の名木がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/fa/d733ce29039276467d93e7cf1f721f9f.jpg//)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/ab/40a417ebecb5b7de2a26d6c3011ac7c4.jpg//)