豊田市、気ままに、彼方此方散歩

豊田市在住の者として豊田市内の、あちこちを徒歩で、自転車で、端っこの所は勿論、自動車で、訪れて見たいです。

前田公園

2006-12-29 09:34:29 | 散歩
前田公園
平戸橋公園の北の端にある「さなげ古窯本多記念館」を出て、
枝垂れ用水に架かる小さな石の橋を渡ると長い階段となって前田公園となる。

此処に建つ前田公園の案内板


階段と紅葉


階段を上っていくと左に勘八稲荷大明神がある


此処から、本多記念館方面を見る


階段の終点にあるモニュメント


北側入り口から見た前田公園


園内はあまり、整備されているとはいえない。
遊具等の施設は皆無で、ただ、東西二つの石仏めぐりコースが設けられている。
あまり手入れのされていない自然の中に点在する石仏たちに出会うのもいいものです。
一度体験してみてください。

岩倉神社

2006-12-26 05:43:47 | 散歩
岩倉神社(中金町)
以前、此処中金町には「西中金」という名鉄の電車の駅があった。其れが今は無い。
古びた駅舎はまだ残っていたが、此処が、足助への発着基点であった
バスはもう廃止されて猿投方面からの小型バスに代わられている。
駅舎から、北へ線路敷きを横切ったすぐの所に岩倉神社はある。

岩倉神社


岩倉神社農村舞台


豊田市指定有形民族文化財
「岩倉神社舞台」
この舞台は、江戸時代後期、文化五年(1808)の建立で、間口8間、奥行き5間市内では一番大きな舞台です。また舞台の中央部に直径18尺の回転床いわゆる「廻し舞台」を備えていることが大きな特徴です。昭和30年代までは歌舞伎や芝居の工業が盛んに行われていました。
以降娯楽の多様化が進み使用頻度の減少ととともに、損傷が激しくなった為、平成13年廻り舞台を含めた大改修を行いました。平成3年に実施した、農村舞台の調査により、この舞台は農村舞台の遺構を伝える貴重な民族資料であるとして正式に平成13年、豊田市の有形民族文化財に指定されました。

豊田市教育委員会



如意寺

2006-12-22 13:27:50 | 散歩
如意寺(石野町)
グリーン道路力石ICを下りて、足助方面に向かう国道153号の右側にある。
この付近には、「石野交流館」「石野中学校」などがある。
境内には、豊田市の名木のイチョウがあり、その落葉が積もって
あたかも、絨毯を敷き詰めたようであった。

楽命山 如意寺
当寺は真宗大谷派の末寺最初満福寺と称し、文化元年(1264)武蔵の国
荒木村(現埼玉県行田市荒木)の源海上人(安藤駿河隆光諱光信によって創建された。
正中2年(1325)五製世教密坊了感の時衣城主中條氏の所縁にとよって
三河国青木原(現花本町)に移転した。其の頃本願寺三世覚如上人より
「如」の字を賜り万福寺を如意寺と改めた。
貞和元年〔1345)志多利郷(現石野町)に移りさらに
慶長十年(1605)十一世明慶坊道知の時現在地に移転し現在に至っている。
当寺には絹本着色親鸞上人絵伝(国指定)源海上人坐像、大般若経(市指定)他
多数の宝物が納められて居る(豊田市教育委員会)

国道から見る


本堂とイチョウの葉


如意寺山門



足助町ぶらりぶらり

2006-12-14 05:45:02 | 散歩
足助町界隈気ままに散歩

足助町の花ーサザンカー


サザンカ
足助町の花「サザンカ」(ツバキ科)Camellia sasanqua Thunmb.
秋からふゆんかけて咲くツバキ科の仲間ですが、ツバキと違って花弁が細長く、
一枚づつ分かれて散ります。原種は四国、九州、沖縄の山中に野生しています。
(木に添えられた解説文より)
 
太多賀あたりと寧比曽岳に端を発した川が合流して足助川となり、
一方作手に端を発した巴川は、羽布ダム、黒岩、平瀬、を経て、
安美京で田之土里川と呼ばれる川から神越川となって流れてくる川と合流する。
紅葉の名所香嵐渓は巴川です。
この川が、香嵐渓を過ぎ、国道を横切ってすぐ、足助川と合流して巴川の本流となる。
そして、渡合郡界橋を過ぎて矢作川に注ぎ込む。
このように足助は水と緑の豊富な町です。
足助町の町並みと足助川 

 
足助町人口について 
  平成7年 年少人口   1628
       生産年齢人口 6197
       老年人口   2490
       総人口   10315
       人口減少率(前回比)3,6%
  平成12年 総人口 9960 人口減少率(前回比) 3,4%
  平成17年 総人口 9606 人口減少率(前回比) 3,6%

豊田市より国道153号を足助方面に向かう。
道路標識「豊田市足助町」と表示されているあたりだったと思うが、
道路沿い高いところにこんもりした社寺有林と思しきものが目に入る。
増慶寺だ。 






「追分」の交差点に至る。右に行けば岡崎方面。
左に行けば月原、藤岡方面に行ける。
真っ直ぐ行く。
このあたりから道沿いに家並が続き、左は山が、右には巴川が流れる。
山と川に挟まれた狭い土地に家が建っている。
主要道路は一本しかないため観光時季には大変な混雑となり、長い長い車の渋滞となる。
岩舟寺を過ぎて、最初の信号を左折すれば、
足助神明社だ。 



右に折れて、橋を渡って左折すると「岩神(やがみ)の湯」「足助警察署」「足助病院」
「足助高校」を見ながら、香嵐渓に出ることができる。
国道の橋から見た香嵐渓 



足助のメイン通り商店街 






通称「マンリン小路」と呼ばれる「足助山 宗恩寺道 







中馬街道の中でもマンリン小路は黒い板壁と白い漆喰の土蔵が続く。
この土蔵の中に「マンリン書店」と土蔵を改装した「蔵の中ギャラリー」がある。
ギャラリーに入館し、作品を鑑賞するには、喫茶料500円が必要だ。
数的には少ないが、特色ある作品の数々と雰囲気、コーヒーの味には、
入館してみる価値は大いにある。

次に訪れたのは宗恩寺だ。 






中馬の町並みを見下ろす高台に位置するこの寺は足助八景の一つ「宗恩寺の晩鐘」
としてきれいな音色を町中に響き渡らせています。(足助町文化財保護委員会)

そして、普光寺へ 




普光寺
郷土の俳人板倉塞馬(1788~1867)の菩提寺です。
塞馬は俳諧や寺子屋の師匠のほかに、この地に炭焼きを普及した人としても崇められ
境内に句碑と共に「加茂黒炭」の祖としての顕彰碑があります。
  雨ののちよい月夜かな桜かな
(足助町文化財保護委員会)





足助八幡宮

2006-12-10 05:18:56 | Weblog
足助八幡宮へ

足助八幡宮は国道沿いにあって、大変分かりがいい。
この真向かいに、香嵐渓の入り口がある。
秋の紅葉、春の桜、カタクリの花などを求めて大勢の観光客でにぎ合うところだ。
反面、国道は多くの車のために、渋滞し観光と関係のない普通の人々は大層迷惑しているそうだ。


 
足助八幡宮の大杉 


足助八幡宮 
天武天皇の白鳳二年(1673)創建と伝える古い神社で神宮寺のあった名残の鐘楼もあり多くの文化財を保存している。
八幡神社本殿 国指定重文 明治40年5月27日) 
文化元年(1466)11月の再建で桧皮葺三間社流造りである。
妻飾・象鼻手挟等室町時代の特色をよく示しており、特に向拝の蝦紅梁の手法は
すこぶる奇異で珍しいといわれている。
地方では規模も大きく、稀に見る神社である。
扁額 鉄砲的打図板額 県指定 昭和32.9.6 
慶長17年(1612)三河国岩神村(足助町内)の澤田四郎衛門尉が
奉納したものである。八幡宮の社前で、日の丸の扇を的にして老翁が射撃する図が
大和絵の手法で描かれている。鉄砲を描いた古絵馬(扁額)は全国でも他に三枚しか
現存していないめずらしいものである。
   足助町文化財保護委員会


野口雨情ゆかりの地(続き)

2006-12-04 08:37:55 | 散歩
野口雨情ゆかりの地(続き)

国道153号線から外れて「しゃくやく街道」をしばらく行き、再び国道に戻って、足助方面
に進むと、左側に「郷社 野神社」と書かれた石柱が目に入る。
此処は「野口町」なのになぜか「野神社」と表記されている。
読み違いではないかと訝った。読み返しても確かに「口」の字はない。
其れも「野」と「神」の間は詰まっている。欠け落ちているとすれば、空間があるはずだ。
参拝していくこととした。
神域は高木にかこまれて、いかにも森厳な雰囲気に包まれており、
自然に、「カラスなぜなくの・・・」と口ずさんでいた。
そしてこの中で一際大きな「コウヨウザン」が「豊田の名木20号」に指定されている。

この地に野口雨情の先祖の墓が祀られているとの説明板があった。


 
この地は蛍の育成にも力を入れているらしい。
神社の左手に小川が流れそしてそこに何やら造作がなされていた。



しゃくやく姫の塚

2006-12-02 08:24:49 | 散歩
偶然しゃくやく姫の塚を見つけました。

足助に向かう国道153号線の右手にあまり目立たないが、看板らしきものが一つぽつんと
さびしそうに立っているのが目に付いた。
これから少し行った所に、野口雨情ゆかりの碑があり、
たしか、この細道は「シャクヤク道」と名付けられていたような気がする。



写真で見られるように本当に小さな塚だ。
戦いに敗れた小藩の姫を心有る村人たちが、
ひっそり葬り、長く記憶に留めたいとする、やさしい心根が思われた。
今は、シャクヤクと言っても全く小さな貧弱なもので、切なくうら寂しい。

後方に写っているたて看板には次のような説明がある。
しゃくやく姫の塚 
時は1570年代余はまさに戦国時代に入った頃のことである。
足助城の一つに「黍生城」(きびうじょう)という城があった。(現在の足助町近岡)
この城に女の子が生まれ、五月もお城はしゃくやくが咲き乱れていたので、
しゃくやく姫と名付けられた。
しかし、ある日のこと、甲斐(山梨県)の武田の軍勢が攻めて来た。
城はたちまち猛火に包まれ、姫は城を追われて、飯田街道を西へ、
野口の地まで逃げてきた。
敵の追手はなおも厳しく、女の足ではとてもかなわない「もはやこれまで」と
畑の中の井戸に身を投げて最期を遂げてしまった。

いつの頃からかこの井戸は埋められて塚となった。その後毎年五月になるとこの塚には
見事なシャクヤクが咲き村人たちは姫をいとしんでいる。
          しゃくやく塚保存会  小池鉦松

野口雨情ゆかりの地

2006-12-01 20:38:10 | 散歩
野口雨情ゆかりの地を訪ねる。

足助に向かう国道153号線の右手にあまり目立たないが、自然石に近いものが三個あって其の傍に説明板らしきものが立っているのが見える。
何かなと思い近づいてみた。



その説明板に、次のように書いてあった。  
野口雨情先祖ゆかりの地
   愛知県豊田市野口町
先祖は楠七郎橘正孝 二世の孫子より出づ 南朝の末期 足助重範の裔族を頼り
三河国加茂郡野口町に隠棲し地名を以て称す

野口自治区は花、ホタル、歴史の町であり、野口雨情の先祖で楠木正季とつながる
由緒ある名家の里に 雨情の心情をたたえ伝えるものである。
2004年11月 吉日建之



野口雨情の心情碑



童謡「七つの子」碑



フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば
野口雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は詩人、童謡・民謡作詞家。本名は野口英吉。茨城県多賀郡磯原村(現・北茨城市)出身。廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として生まれる。
東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、坪内逍遥に学ぶが、1年余りで中退、詩作を始める。1905年(明治38年)処女民謡詩集『枯草』を自費出版。1907年(明治40年)三木露風、相馬御風らと共に早稲田詩社を結成するが、その後暫く詩作から遠ざかる。
1943年(昭和18年)軽い脳出血で倒れて後は療養に専念。
1945年(昭和20年)疎開先の宇都宮市近郊で死去。
代表作は『七つの子』『赤い靴』『青い目の人形』『しゃぼん玉』『こがね虫』
『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など、枚挙にいとまがない。
他に『波浮の港』『船頭小唄』など。
とあるが、何処にも足助町野口町と記された箇所も無く、ただ「楠木正季」の人名が
一致しているだけで、これも不明と記載されている。

波浮の港   中山 晋平作曲

(1) 磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
  波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
  明日(アス)の日和(ヒヨリ)は
  ヤレホンニサ なぎるやら

(2) 船もせかれりゃ 出船の仕度(シタク)
  島の娘たちゃ 御神火(ゴジンカ)ぐらし
  なじょな心で
  ヤレホンニサ 祈るやら

(3) 島で暮らすにゃ 乏(トボ)しゅうてならぬ
  伊豆の伊東とは 郵便だより
  下田港(シモダミナト)とは
  ヤレホンニサ 風だより

(4) 風は潮風 御神火おろし
  島の娘たちゃ 出船の時にゃ
  船のとも綱
  ヤレホンニサ 泣いて解く