豊田市、気ままに、彼方此方散歩

豊田市在住の者として豊田市内の、あちこちを徒歩で、自転車で、端っこの所は勿論、自動車で、訪れて見たいです。

平成25年4月28日にサイクリング(その5)

2014-08-22 15:12:03 | 散歩

平成25年4月28日にサイクリング(その5)
 自宅(8時30分出発)→松平→根引峠→花沢町→大沼→
 安美京→足助→自宅のコースでサイクリング。
 この間で出会えた神社・仏閣を紹介していきます。

⑥洞樹院

  所在地  豊田市大沼町越田和17

詳しくは下記のHPをご覧下さい。

http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/jap.b29/googlepoint11.html

 桐樹院には12時40分の到着。

洞樹院の山門です。


   写真の下方に写っている碑には「大沼城主菩提寺」とあります。

大沼城址と洞樹院の説明板です。

 
 写真からの書き写しができず申し訳ありません。

本堂です。

鐘楼です。

⑦大沼城跡
 説明板です。

次のようにか書かれています。
所在地 下山村大字東大沼字八沢
遺構  本曲輪 土塁 堀きり
規模  総面積 約7200㎡
    東西  約140m 南北 約170m
 大沼城は、文明年間(戦国初期)に木村東見入道安信が築いた
とされている山城で、足助の真弓山城(足助城)や、近くの田代城などと
共に、足助七城のひとつに数えられていました。
遺構は、本曲輪と10か所の曲輪のほか、土器、堀切、井戸跡など
が、堀切を境としてかぎの手状に分布しています。
 初代城主木村安信は信仰あつく城の西麓に入宝山神宮寺を建てた後、
天文二年(1533)に死去しました。
天正二年四月(1574)元亀二年(1571)とする説もある)大沼城は
甲斐の武田軍によって攻め落とされ、信玄も討ち死にしました。
そして天正三年(1575)には、信玄の養子松平親清(大沼城主松平乗元
の二男)が大沼城主となりました。親清は入宝山神宮寺を
矢沢山洞樹院と改めて菩提寺としました。
親清の没後、天正二年(1583)嫡子近正が跡を継ぎ、徳川家康旗下で
軍功をたてました。そして天正一八年(1590)家康の関東移封後上州
三の倉(群馬県)に五千石を賜わって三河を離れました。
大沼城はその頃廃城になったと考えられています。
     平成四年十二月二六日 下山村教育委員会

大沼城跡です。

二の丸跡です。

三の丸跡です。

 


平成25年4月28日にサイクリング(その4)

2014-08-01 20:21:38 | 散歩

平成25年4月28日にサイクリング(その4)
 自宅(8時30分出発)→松平→根引峠→花沢町→大沼→
 安美京→足助→自宅のコースでサイクリング。
 この間で出会えた神社・仏閣を紹介していきます。

⑤長照寺

  所在地 〒444-3231 豊田市下山田代横畑2 

地図をご覧ください。

                                                                           この地図は「とよたマップ」より

                                    この地図は「Google地図」より

 12時10分の到着。

長照寺の山門です。

本堂です。

本堂の右側です。

蓮如上人御尊像がありました。

その横に説明板がありました。

次のように書かれています。

蓮如上人御尊像のいわれ
 此の蓮如上人54歳の時(1468)のお姿です。
当時三河の布教の為岡崎に滞在しておられた上人に、
田代村に安藤清右エ門という人が親しくお仕えし、
この山間部の布教に熱心に協力いたしました。
京都にお帰りになる時自ら木像を彫り、生身の蓮如と
思って仕えこの地方の門徒の布教をせよと仰せになり。
祐清という法名をもらい自分の家をお寺にして活躍し、
田代協会として布教の拠点となりました。之が長照寺であり、
御自作の御木像は本堂のお厨子に安置されています。
平成十四年安藤山長照寺第十八代住職 細川祐奎