豊田市、気ままに、彼方此方散歩

豊田市在住の者として豊田市内の、あちこちを徒歩で、自転車で、端っこの所は勿論、自動車で、訪れて見たいです。

林宗寺へ

2007-10-30 19:10:17 | 散歩
林宗寺(藤岡町)へ
「所在地」林宗寺 Tel 0565-76-2643  愛知県豊田市藤岡飯野町辻戸904-1

豊田市から藤岡、小原方面に向かう道、飯野の交差点の手前左側、
およそ500m位の所にあります。
なお、道の右側には、秋葉神社があり、
林宗寺に接して、ちごの口「メモリアルパーク俚の杜」がある。

林宗寺の山門です。


林宗寺へ


林宗寺の本堂です。


林宗寺の鐘楼です。


飯野八兵衛の墓がありました。 


飯野八兵衛については、当ブログ「八兵衛さんの碑」をご覧ください。



向陽寺(藤岡町)のコウヨウザンを見に行きました。

2007-10-25 04:28:09 | 散歩
向陽寺(藤岡町)へ

所在地 豊田市藤岡町大字折平

藤岡町の「民俗資料館」を訪れたとき、向陽寺に「コウヨウザン」の
大木があることを知った。
ぜひ一度会いたいものだと思った。
自転車で行くのにはかなり遠いかなと思ったが折角ここまで来たのだ。
思い切って出かけた。

場所案内 前ページ「八柱神社へ」をご覧ください。
詳細はhttp://www.its-mo.com/をご覧ください。

向陽寺へ


向陽寺の山門から本堂が見える


向陽寺の本堂です。


境内には、目だって大きな「コウヨウザン」がありました。




豊田市指定文化財(天然記念物)
折平のコウヨウサン  指定 昭和49年2月10日
 この木の和名はコウヨウザンですが、漢字では広葉杉と書き、
スギ科の常緑針葉樹です。
樹齢は約180年、幹周3,3m、高さ18m、どっしり大地に生え、
幹は力強く高く伸びています。
広葉杉は中国の南部地方が原産地で江戸時代後期に日本に伝わったといわれます。
葉から5cmほどで先端は尖っていて、
枝には葉の根元が曲がり左右に広がって付いています。
この枝葉の様子が伝説の動物「鳳凰」の尾に似ていることから
ホウオウ杉とも呼ばれています。
                 豊田市教育委員会(立て看板より)

コウヨウザン 
各地に自生する落葉喬木で、幹高さ数丈に達し樹形ケヤキに似ている。
ー中略ー
春日はと共に淡緑色の雌雄花を出し、秋日大豆大の球状花を結び黒熟す。
果実の熟したものはすこぶる甘く生食に適す。(光和書房「全植物図鑑」による。)





八柱神社(藤岡町)へ行きました。

2007-10-22 04:51:12 | 散歩
八柱神社(藤岡町)へ
十二等級 八柱神社 旧指定村社
鎮座地西加茂郡藤岡町大字折平字姓敷329番地
祭神 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命 
天穂日命 天津彦根命 活津日命 熊野櫲樟日命 
市杵島姫命 満津姫命 四心姫命
由緒 元亀年中(1570-2)の勧請には
安政五年(1858)棟札に、創建は貞享三丙寅年(1686)と記す。
古来は八王子宮と称した。明治5年9月村社に列し
昭和15年7月7日社殿を改修、社務所を新築する。銅16年10月6日指定社となる。
境内社の山神社は天福元巳年(1233)2月7日
琴平社は天保10巳亥年(1839)3月10日と棟札に記す
          藤岡町観光協会


場所案内 下図をご覧ください。
図上に二箇所八柱神社が表記されていますが、左上の神社がそうです。



八柱神社へ 


本殿へ




八柱神社の舞台です。


境内には、目だって大きな「ムクノキ」がありました。






ムクノキ 
各地に自生する落葉喬木で、幹高さ数丈に達し樹形ケヤキに似ている。
中略
春日はと共に淡緑色の雌雄花を出し、秋日大豆大の球状花を結び黒熟す。
果実の熟したものはすこぶる甘く生食に適す。(光和書房「全植物図鑑」による。)



藤岡神社(豊田市藤岡町)参拝

2007-10-17 20:12:36 | 散歩
藤岡神社へ

場所は、本ページの「春埜山神社」に掲載の地図をご覧ください。

九等級 藤岡神社 旧指定村社
鎮座地 藤岡町大字北一色字山洞
祭神 正哉吾勝勝建日天忍穂耳命 天穂日命
   天津彦根命 他七名
由緒 明徳四年(1393)に猿投東宮の
   攝社御子の宮をこの地に遷宮し、東宮の神主、武田恒家供奉して八王子宮と称し、
   猿投山東方の総鎮守、小猿投と呼ばれた。明治五年八柱神社と改め村社、
   明治四十五年指定社となる。大正十二年藤岡神社と改称、昭和六十三年に神撰所、
   平成十二年に社務所新築した。
例祭日 十月第2土曜日
社殿等面積 64,77坪
特殊神事 飾献馬 棒の手 火縄銃 巫女舞
境内坪数 1306坪
氏子数 155戸
宮司 河合 淳      
            豊田市教育委員会(立て看板による)

道から藤岡神社の鳥居が見える。


舞台の向こうに本殿が見える。


本殿です。












金剛寺の「しだれ桜」を見に行きました。

2007-10-16 18:55:14 | 散歩
金剛寺へ
Tel 0565-76-2929  住所  愛知県豊田市北一色町川原278
位置については前ページ「春埜山神社」をご覧ください。

春埜山神社から金剛寺へ向かう。
ここを訪れる目的は、藤岡町観光協会発行の「歴史・文化財マップ」上で
次のような一文に接したからだ。
「しだれ桜とも呼ばれている樹齢300年の桜です。
昭和49年2月藤岡町の銘木に指定されました。
3月下旬から4月上旬にかけて美しい花を咲かせます。」
大いに期待して訪れました。

金剛寺への入口です。


本堂へ。左に見えるのが「しだれ桜」です。


金剛寺本堂です。




しだれ桜です。








道沿いの立て看板には下記のような説明がありました。
この桜は一説には当寺法地開山「霊源陽澤大和尚」のお手植えと言われている。
霊源陽澤和尚は瀬戸市赤津の雲興寺23世であり、
享保19年(1734)に当寺の住職となった。
平成6年(1994)樹木医により樹盛回復が行われ、テレビや新聞等にも紹介され、
毎年多くの人が花見に訪れる。
開花は三月下旬から四月下旬の間十日間程であり、咲く様は楚々として風情がある。
昭和49年2月(1914)藤岡町の天然記念物に指定される。
樹齢は約三百年ほどである。

また、木の下の説明は次のようになっている。
豊田市天然記念物(文化財)
 指定日  昭和49年2月
 ひがん桜(ばら科)
 樹齢   約三百年
春の彼岸の終わりころ淡紅色の花が開く。
若葉の枝葉地上に近く垂れ下がり、そよ風になびく風情は格別の趣がある。
別名「しだれ桜」とも呼ぶ。     豊田市教育委員会




春埜山神社(豊田市藤岡町)

2007-10-15 09:13:38 | 散歩
春埜山神社を参拝

豊田市藤岡町内を自転車で巡っていました。
飯野の交差点付近のコンビニで弁当とビールを購入し、
ゆっくりと彼方此方を眺めながら
コスモス、サルスベリ、独活、イタドリなどの花が真っ盛り
しかし、暑い、暑い。
拭いても拭いても額から汗が
眼鏡が曇る

下図の向陽寺を目指して自転車を進める。


詳しくは「http://www.its-mo.com/」からお調べください。

最初に立ち寄ったのが、春埜山神社です。
鳥居の下、階段に座って、ビールを飲みながら昼食
自転車も飲酒運転は駄目
でも、350mlで時間を置いたから大丈夫だろうかな?

春埜神社です。











豊田市藤岡民俗資料館を訪ねました。

2007-10-14 04:39:38 | 散歩
豊田市藤岡民俗資料館

豊田市藤岡民俗資料館は飯野の交差点すぐ近くの小高い丘の上にある。
この丘には、保育園、豊田市飯野交流館がある。

豊田市藤岡民俗資料館です。


民俗資料館「飯野」
===文化財はみんなの宝===
この民俗資料館は、永い歴史の中で祖先が残した尊い遺産を後世に伝えるため昭和56年開館した。近年、生活様式の変化などから失われつつある古い文化と伝統を正しく知るため収集保存、展示して文化に対する意識を高めることを目的としています
縄文の時代より始まる数々の資料、藤岡の歴史とロマンを感じてください。
この民俗資料館のきた隣には藤岡の産業の夜明けを告げた石粉水車が復元されています。
また中世に焼かれた古瀬戸窯「笹窯」の復元もあります。
               藤岡町観光協会(立て看板より)

笹窯です。




横の立て看板には次のように紹介してありました。
「笹窯」(復元)
笹窯は十五世紀、室町時代に築かれた窯で、豊田市御作町西川地内に存在したものを
昭和47・七災集団防災移転住宅用地造成に伴い発掘調査されその実測をもとに三分の二の規模にして、昭和59年に縮小復元した穴窯です。発掘調査により笹窯から天白茶碗、片口、小鉢、茶壷、四耳壷等の陶片が出土しました。

水車です。




藤岡の水車
藤岡には昔から多くの水車がまわっていた。犬伏川や飯野川などには574基の水車があって米搗きや陶土の生産に一日中活躍していた。特に陶土(石粉)の生産にはトロミルが使われていたが、電力が普及して、昭和31年頃から水の力で動かす水車はその姿を消してしまった。ここにある水車は、藤岡地区最後のもので多くの方々の好意で大岩町にあったものをここに移し、市の貴重な遺産として永く保存するものです。
  水車一式寄贈  大岩 中根源一氏
  復元施工    三河建設株式会社
昭和57年度地方振興補助事業補助金による    豊田市教育委員会

館内にはこんな物が展示してありました。























藤岡棒の手碑

2007-10-09 05:24:36 | 散歩
この碑はは飯野の交差点すぐ近くの小高い丘の上にある。
これに向き合うように、豊田市飯野交流館がある。



碑の下に書かれた碑誌には次のようにある。
藤岡の棒の手は古式ゆかしく豪華な演技を今に伝えるものであり、その存続をねがって保存会
が昭和32年に結成され、翌年3月には愛知県の無形文化財に指定されて、栄光の
格位を得たのである。爾来ときは隆運にに流れて30年を迎えたのを祈念しさらに発展を
祈ってここに碑を建立した。
碑背には来し方斯道に精進し免許・目録を授かった205人の名を記しその業績を讃えた。
   昭和63年10月吉日   藤岡棒の手保存会

旧山内家住宅

2007-10-08 10:46:26 | 散歩
旧山内家住宅の紹介

この住宅は飯野の交差点すぐ近くの小高い丘の上にある。
そして、藤岡村大字木瀬旧山内保宅を移築したものである。
立て看板には下のような説明があった。

愛知県指定有形文化財(昭和54年12月26日指定
    旧山内家住宅

建造年代は十八世紀前半の1730年(約270年前)といわれています。
御作の磨崖仏と同年代(吉宗野時代)で西三河地方(東・西加茂郡)における
庶民住居形式の代表的民家です。
広間三間取形式前の広間の一室形で、古代のたて穴形式の名残りを、上屋・下屋構成に
残していて、構造は鳥居形式の基本系を示す架構造となっています。
このような民家は心のふる里であり、文字のない歴史の書物といわれ、先祖の生活を
知る上で参考となる大切な文化財です。

移築保存  藤岡村大字木瀬旧山内保宅であったが新住宅建設のため藤岡村が資料館
(古民家)として保存するため解体移築復元したものである。







古民家
①形式 鳥居建
②種別 農家
③規模 66,2平方メートル
この家は昭和46年に移築復元によるもので、三河地方で、
一室型の平面をもち鳥居建形式となった小型の農家である。
県下で現存する鳥居建形式での最古の形式をもつものであって、単純な架構に土間と
板張りによる広間形式をもつものである。一般庶民の農家形式として代表しうる民家です。
                 豊田市教育委員会     






八兵衛さんの碑

2007-10-06 11:17:37 | 散歩
八兵衛さんの碑

八兵衛さんを称える碑は豊田市飯野町と豊田市四郷町にある。

豊田市飯野町の碑


八兵衛さんは、享保11年(1726年)7月3日、三州飯野村に生まれた。母親が不動さんに念じて生まれたので、人々はその申し子と言った。重い病気から九死に一生を得た後の彼は突然容貌は勿論性格まで破邪顕正のきびしさに変わった。その頃当地は連年不作がつづきひどい飢饉だった。けれども挙母藩は少しも容赦せず、百姓の飯米まできびしく取り上げたので、このうえは全員飢餓の外はないと八兵衛は決然奮起した。彼は庄屋の善三郎始め迫、舞木、四郷の同志を糾合し、集まった百姓1241人の中より305人を引き連れて、宝暦2年(1752)12月2日未明、大挙江戸藩邸へ向かった。江戸におけ彼の行動は凄まじかった。恐れをなした江戸の重役たちは租税を引き下げその上お助け米まで出して殆ど彼の要求の大部分を容れた。かくて百姓共は救われたが、掟はきびしく6名は翌宝暦3年4月22日挙母の刑場で斬首せられた。
最期の彼は百姓達の自覚と団結を期待しつつ泰然自若、従容と死についた。この時27才まさに巨星落ちるの感があった。犠牲は愛の極致というが、没我の愛は最高の美である。飯野の人々は今なお、彼の恩義を忘れず毎年4月1日墓碑の前で彼の追善と鎮魂を祈って止まない敬虔な行為もまた現代の美談というべきである。
  昭和59年12月1日    長居紀章  撰
                飯野区   建之    (立て看板による)


豊田市四郷町の碑


碑面には次のように記してある。

四郷村宝暦義民之碑
時は江戸時代中頃の宝暦2年(1752)挙母城主内藤丹波守政治政下で、城館築城並びに藩財政収策の重圧が領内村々にかかり苦渋の極に置かれた。挙母領の村々の代表者飯野村八兵衛はじめ、多くの村人が江戸屋敷に向かい、城主に直々に訴え出た。嘆願は、税貢租軽減として実現をみた。
当時、直訴は大罪で代表者のうち、6名は挙母城刑場の露と消えた。
我が郷土の四郷村は挙母城下北部の中心で多くの人々がこの訴えに加わり村全体の苦難を一身に受けた代表の小栗右衛門、山田林右衛門の両名は尊い犠牲となった。時は移り、二百五十年過ぎた平成の世まで恩徳は忘れられず永遠に功績を刻むものである。
    平成17年5月吉日