豊田市、気ままに、彼方此方散歩

豊田市在住の者として豊田市内の、あちこちを徒歩で、自転車で、端っこの所は勿論、自動車で、訪れて見たいです。

豊田市緑化センター(西山公園)の散策

2007-03-28 04:58:20 | 散歩
豊田市緑化センター(西山公園)散策
付近には、豊田地域医療センター、豊田市浄水場、豊田高専などがあります。
交通の激しい道路に面して入口はあります。 

 
センター内の案内図です。 


入るとすぐ花時計が目に入ります。そして左手にある建物が「緑の相談室兼事務所です。 




では、センター内をご案内しましょう。
四季の花園です。テーブルと椅子が置かれ、丁度この時はご婦人二人が休んでおられました。


 
道案内を兼ねたモニュメントです。


日英グリーン同盟友好記念碑です。 


日英グリーン同盟の説明がありました。 
豊田市は1998年英国ダービーシャー県ダービー特別市・南ダービーシャー市と姉妹提携を結びました。
1902年の日英同盟締結100周年を記念し、今後100年間の友好関係と両国の若者が「環境」について想い語り合うことを目的とした「日英グリーン同盟2000」に豊田市も参加し、ここにイングリッシュオークの植樹をします。   平成14年11月16日  豊田市長 鈴木公平

菖蒲園では、除草作業が行われていました。 


バラ園です。季節的にまだまだ早く、芽がやっと出たところでした。


歩道沿いにユキヤナギが満開でした。 


風景①奥のビルは豊田地域医療センターです。

 

風景②写真に小さく男女高校生がふたり 


風景③池のほとりに休憩所がありました。 


風景④


風景⑤緑の相談室と四季の花園が見えます。


人工の小さな滝がありました。


小川の流れは池にそそいで


こんなものもありました。
天皇皇后両陛下行幸啓記念碑です。



池と休憩所です。


洋式庭園です。









豊田市上挙母界隈ぶらりぶらり

2007-03-23 14:27:18 | 散歩
上挙母駅界隈(愛知県豊田市)

御殿の大松です。 

 
立て看板の説明文 
御殿の大松
この松は挙母城御殿坂の巨木の松で遠方から眺められ、旅人の目安として重要な役目を果たし、また城下の名物として親しまれた大松でしたが、松食い虫に侵され現在は二代目の松が植えられて、往時の挙母城下のシンボルとなっています。   
    七州城城下町まちづくり協議会

産物会所跡(渡辺家) 


立て看板には次のような説明があります。 
産物会所跡(渡辺家)
この建物は天明2年(1782年)挙母城下町の大手門前、中之町通り(本町通り)に藩営の産物会所が造られ、購買販売組合と言う。信州や尾州は飯田街道を岡崎街道や大浜街道、知立街道を経て馬による物資の運搬がされ、この会所へ集積し夫々に物資が流通し、城下の賑わいがあった。
         七州城城下町まちづくる協議会
挙母藩御高札跡(岡田家)です。 


写真の立て看板には次のように書いてあります。
挙母藩御高札跡(岡田家)
天明2年(1782)挙母城が完成し大手門前に町並みが整備され大手門前に藩立の掲示板が立てられました。幕府や藩主の御法度の条々が掲げられ、領民や旅人が読んで読み上げる広報版が立てられました。 (七州城下まちづくり協議会)

水音寺です。 


水音寺の由来 
樹木観音 水音寺の由来
当寺観音様はこの地方では最古のもので今から700年の昔、延喜年間の秋、金谷城主、中條備前守秀長公の守り本尊にて、山城国宣寺より伝来、一名三年橋観音とも伝えられる。公は建武の戦に(西暦1334年)南朝に味方功を立てる。永正3年洪水のため堂舎の流失により現在の挙母神社の東、曲尺手旧東町地内に移築されここに水音寺として発足す。安永8年(西暦1779年)挙母城主、七州台に移転と共に、当寺も、現在地に移転となる。この観音様は三河国32番所の札所である。当三河33所観音巡礼は昔時の文献に依れば今を去ること320年前即ち寛文年間から始められたと記されております。往時の姿を私達信者として今日に至っていることは慶ばしき限りでございます。
昭和54年4月吉日(平成10年8月之書替) 本堂再建記念保存記

常夜灯です。 


常夜灯修復記
この町は挙母城主内藤学文公がたび重なる水害のため安永10年4月道場山(童子山)へ引城の普請にかかった時生まれました。すでに東南町はこの地に移り住んで居を構えていましたが城移転に伴って本町も移り、城下町と定め整備され今のまちの形ができました。住民は追手門前通りのこの地に安全で平安な祈りの形として常夜灯を建立しました。すべてを灰にする火災は今も昔もその恐ろしさは変りません。以来200余年先人が願いそして祈り続けた心を大切にしたいと、今325名からの浄財をいただき新たな心をこめて修復しました。
平成3年3月吉日
常夜灯修復委員長  鈴村義照
樹木区長      神谷和夫
町づくり協議会会長 神谷昭芳 

八柱神社です。 




福満寺(0565-31-8082 愛知県豊田市金谷町5丁目86 )です。

 


福満寺の漱水です。 


福満寺の鐘楼です。 


三光寺(0565-32-2029 愛知県豊田市金谷町5丁目63 )です。











百々貯木場跡(愛知県豊田市)

2007-03-19 08:03:08 | 散歩
百々貯木場跡(愛知県豊田市)
(〒471-0008豊田市百々町1-10)
市指定文化財(建造物)
着工は1916年、竣工したのは1917年だそうだ。筏を組んで木材の輸送をし、その保管するための施設として使用されていた。この貯木場に隣接するように、製材所があった。現在もその跡地が保存されている。又、川岸には「百善土場」と呼ばれていた土場跡もあったようだが、上流にダムができたため川の水位が下がり、木材輸送はできなくなった。貯木場としての終了は1930年だそうだ。現在はカキツバタ等が植えられていた。それらが咲いた時は多分素敵なものになるだろうと想像したが、今は葉の枯れた寂しい光景だった。




 




製材所跡です。


百善土場跡です。


矢作川に面する入口です。


入口からの矢作川の上流です。


同下流です。


灰宝神社(越戸町)

2007-03-16 11:06:41 | Weblog

灰宝神社(愛知県豊田市越戸町)
灰宝神社と天満宮は並ぶようにして建っている。




灰宝神社 
灰宝神社は全越戸の守護神でその創建は約1300年前の慶雲3年といわれる歴史ある神社です。今から1000年余り前善政の模範といわれた醍醐天皇の時代(901~922)の延喜5年(905)に天皇の勅命で藤原時平他2名によって法律書が作成されました。その本の中に国として祭る神社を登録し全国で2861社が式内社として定められました。豊田市内では八社ある。このうちの一社が地元の灰宝神社です。灰宝神社の祭神は波邇夜須毘売神(はにやすひめのかみ)です。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉冉尊(いざなみのみこと)が大八島つまり日本の国土を生んだ後、風雨草木山野五穀火の神等々の神を生み国土経営の基礎が進んだ後に生まれた神様です。またの名を埴安姫尊ともいわれ波邇夜須は埴粘(はにやす)のことであり、粘土であり大地でもある粘土をこね形を造り焼いて土器を作った陶芸の神様です。其の昔良質の粘土を求めて越戸港より陶工達がどんどん上陸し越人となりこの地方の開拓にあたった事の関連は興味深いものがあります。このように歴史と由緒の神社が私達の地域にあることは誇りでもあり、伝統ある神社の大祭を大切にしていきたいろ切望するものです。氏子総代
(立て看板による)

灰宝神社の社叢林は豊田市の名木に指定されています。 




天満宮(越戸)

2007-03-15 07:28:06 | 散歩
天満宮です。
(愛知県豊田市越戸町松葉 )
足助町に向かう国道153号線沿いにあります。ここは自動車の往来が激しくその上道幅も狭く危険な所で、もう30年位?前にになるかと思いますが、越戸保育園の園児らがトラックの犠牲になったところでもあります。天満宮、そして並ぶようにして建立されている灰宝神社の御加護は無かったんでしょうね。

天満宮です。 


天満宮の社叢林です。 




社叢林は豊田市の名木162号に指定されています。
写真右上の立て看板には次のように書いてある。
スギ、ヒノキ、sベマキ、ナラ、クロガネモチ、アラカシ等の叢生とあります。


霊岩寺本堂前で拝せず。

2007-03-12 09:52:37 | 散歩
霊岩寺
(Tel 0565-32-1455 愛知県豊田市平芝町6丁目3 )
名鉄梅坪駅のホームに立って西側を眺めると見える位置にある。
霊岩寺の山門です。 


写真右上の立て看板には次のように書いてある。
檀家の方以外の拝観禁止
これにより、拝観できず、遠くから手を合わせて拝す。こんな経験は初めてだ。

ここにも同じ文面の立て札が!! 


八柱神社(四郷町)を参詣

2007-03-08 07:55:24 | 散歩
八柱神社(豊田市四郷)
「日本棋院豊田加茂支部」の裏、こんもりとした森の中にある。
また、すぐ近くには「JA猿投店」「猿投コミニュティ」がある。
八柱神社の鳥居です。 


八柱神社本殿です。 


境内に忠魂碑がありました。 



写真左下の碑文には次のように書かれていました。
 昭和6年(1931)9月、満州国奉天市(現中国瀋陽市)郊外柳条湖の南満州鉄道爆破事件から満州事変が勃発し、その後、日中戦争、太平洋戦争へと戦火は拡大していった。
この戦争に、当時の猿投村より、859名の方が召集されされ極寒の満蒙、広漠果てしない中国大陸をはじめ北太平洋、東南アジア、インド洋を転戦されひたすら祖国の興隆と同朋の安泰を念じながら奮戦されたが悲しいかな234柱の方が武運つたなく散華された。惜しみても余りある痛恨の極みである。この碑はこれらの霊に対し衷心より感謝の誠を捧げ、永遠に鎮まり賜えと祈念するために建立されたものである。
現在平和にして幸せな社会はこうした尊い犠牲によってもたららされたことを深く認識し、ここに子々孫々に至るまで、手を携えて、平和への努力を続けることを誓うものである。この碑は昭和13年、前田栄次郎氏を以って旧猿投村役場地内に建立され、この度の豊田市猿投コミュニティセンター増築に伴い遺族会と協議し四郷区出身戦没者の英名を録し、この地に移築した。
               平成5年(1993)5月  四郷区慰霊碑建設委員会


口明塚古墳

2007-03-04 04:57:01 | 散歩
口明塚古墳
 豊田市御船町口明塚1311の山中に現存する。古墳は猿投山麓の一支丘の洪積台地の標高74m付近にあり、御船川により解析された沖積台地を望んでいる。
(郷土資料館所蔵 研究集録より)
名鉄線(現在は廃線となっているが鉄路は現存している)の北側の林の中にある。
豊田市内から、ここに行くには、笹戸温泉方面に向かい、矢作橋に架かる平戸橋を渡らず直進し、名鉄の踏み切り跡を過ぎて、最初の点滅信号を右折し、写真の「MIFUNE]を目指して進んでください。
会社の右端の林の中に入口があります。



「MIFUNE」の工場敷地内南側に入口があります。


古墳開口部と内部です。一升瓶が置かれているのが印象的。




石室
口明塚古墳は西に向かって開口する一室形態の横穴式石室で、玄室長(玄門を除き)右側3,9m 左側3,88m 奥壁幅1,42m 中央部幅1,85m 玄門内側1,65m 高さ奥壁部2,33m 中央部2,26mである。奥壁は横幅1m 立ち幅1,5m と横0,5m 立ち幅1,45m の二枚の大きな花崗岩を鏡石として使用して、更にこの石、天井石との間には大小の石を埋め込み間隙の調整をしている。(郷土資料館所蔵 研究集録より)

先に紹介しました、「お舟石」「滝1号古墳」「シラヒゲソウ自生地」など付近に集中して存在していますので是非見学されるといいと思います。