広瀬から西中金へ(①広瀬城跡へ)
矢作川に架かる広梅橋を渡るとすぐ左手に梅村源次郎の頌徳碑がある。この傍らの急な階段を上り詰めたところが、広瀬城の跡であり、奥まったところに広瀬神社があってその横に「広瀬城址の碑がひっそりと建っている。下の図をご覧下さい。
(yahoo!japanの地図から2ヶ所加工しました。)
梅村源次郎頌徳碑です。
広瀬神社への鳥居です。
本来広瀬神社へはこの鳥居をくぐっていくのが正しいのでしょうが、
僕の場合裏道から入ったことになってしまった。
広瀬神社です。
農民舞台もありました。
広瀬城址の碑です。
広瀬城跡 伝承では興国5年(1344)矢作川を天然の要塞として当地の豪族児島高徳が築城したといわれる。11代目の三宅高清が織田方についたため永禄3年(1550)松平元康(家康)に攻められ落城した 愛知県 (説明板より)
矢作川に架かる広梅橋を渡るとすぐ左手に梅村源次郎の頌徳碑がある。この傍らの急な階段を上り詰めたところが、広瀬城の跡であり、奥まったところに広瀬神社があってその横に「広瀬城址の碑がひっそりと建っている。下の図をご覧下さい。
(yahoo!japanの地図から2ヶ所加工しました。)
梅村源次郎頌徳碑です。
広瀬神社への鳥居です。
本来広瀬神社へはこの鳥居をくぐっていくのが正しいのでしょうが、
僕の場合裏道から入ったことになってしまった。
広瀬神社です。
農民舞台もありました。
広瀬城址の碑です。
広瀬城跡 伝承では興国5年(1344)矢作川を天然の要塞として当地の豪族児島高徳が築城したといわれる。11代目の三宅高清が織田方についたため永禄3年(1550)松平元康(家康)に攻められ落城した 愛知県 (説明板より)