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豊田市、気ままに、彼方此方散歩

豊田市在住の者として豊田市内の、あちこちを徒歩で、自転車で、端っこの所は勿論、自動車で、訪れて見たいです。

猿投七滝を訪ねる

2006-06-19 06:28:00 | Weblog
猿投七滝

 猿投山西回り登山道に沿って流れる川、多分「篭川」の上流に点在する滝を猿投七滝と名付けている。「広沢天神」を過ぎ、暫らく上ると左手に「猿投七滝⑦入口」の標識に会う。此処をちょっと下った所に「広沢大滝」がある。
この滝が、猿投七滝の中で一番大きな滝だ。
この滝が一番大きいのだから、残りの滝の規模は推して量るべし。
なかには無理に名付けたかと思われるものもある。





登山道に戻り、暫らくして「菊花石」に出る。
是より遊歩道を進む。
階段ばかりの道だ。自転車は全然利用できない。押したり、持ち上げたりの連続だ。
乙女滝に至る。




団九郎の岩屋を訪ねて

2006-06-13 16:35:51 | Weblog
団九郎の岩屋を訪ねました。

猿投山西回り登山道を上って行く。
菊花石の表示板を見て、右方向に自動車の通行可能な道を進むと、
やがて、西宮方面と団九郎岩屋への分岐点至る。
案内に従って、左に折れて行くのだが、この入口には通行禁止の立て札が立っているが
、是は自動車に関する者であると解釈して、歩を進めた。
するとどうだ、確かに道は荒れている。しかし歩きにはどうということは無い。
しかし、驚くではないか。道にタイヤ跡が一杯だ。よくこんな荒れ道を自動車で、或いは
バイクで通れたものだと吃驚していまう。
おそらく、遊びとしてやっているのだろう。
この状態がずっと上の方まで続いている。
思うにこの道の荒れているのは自然のなせる業ばかりでなく、
大いに彼らオフロード族によって荒らされたのだと思った。
団九郎岩屋右方向 50mの案内板に従って右方向に細い道を下る。
此処にもバイクの轍が残っている。
そして、堰堤に突き当たった。
此処から、又道は登りとなり、足跡とタイヤの痕跡がある。
なおも上って行く。
とうに50mは来たと思うのに「団九郎の岩屋」は見つからない。
仕方なく、引き返すことにした。
やっと又堰堤まで下がって、周囲をよく観察すると、川を渡って行く、かすかに
踏みつけられた跡を見つけた。
それを辿る。
川から、わずか10mほどの所に「団九郎の岩屋」はあった。
何の表示板も、説明板も無く、茂みに覆われてなかなか見つけ難い。
案内板くらい設置して欲しいものだ。



団九郎の岩屋
 七滝の上流に「団九郎の岩屋」と呼ばれる石の洞窟があります。
団九郎は、江戸時代初期の盗賊で、岩屋を根城に尾張、鳴海、知立など
東海道筋に出没し、人々に恐れられていました。この話を聞いた武士・白井権八が
猿投山に乗り込み、一味を滅ぼしたという伝説があります。団九郎の岩屋は、
奥深く、夏も涼しい洞窟です。奥から団九郎が密談する声が聞こえるかもしれません。
団九郎に善人説もありますが、静まりかえった山中の洞窟は、
盗賊伝説のほうが似合うでしょう。(「豊田市ぶらてくガイド」による)

井上真冽翁頌徳之碑

2006-06-07 19:21:13 | Weblog
井上真冽翁頌徳之碑(豊田市井上町)

道案内

県道419号線を豊田市街地から猿投神社方面に進み、豊田北郵便局を過ぎ、
二つ目の信号交差点を右折し、約400mの所に猿投農林農林高等学校の入口がある。
此処を左折50mほどの所に案内板がある。この細い道の突き当たりにこの碑がある。



井上徳三郎の来歴

1867年(慶応 3) 名古屋(中区)に生まれる
1911年(大正元) 猿投町に130町歩の土地を買う
1912年(大正2)  井上農場を開く
1936年(昭和11) 地名を「井上」とする。69歳で没

1896年(明治29)に始めた両替商が大成功し、これを元手に土地を買い、農場を開いた。
当初は水の便の悪い土地の為大層苦労したそうだが、徐々に住む人も増え、1936年
(昭和11年)には地名を「井上」と改めるまでになった。
「徳は事業の基なり」の信条から,社会事業にも乗り出し、猿投農林高校の移転に伴う建設用地、猿投駅の用地等を寄付した。


八柱神社(本徳町)と猪捕獲ワナと観音寺

2006-05-23 07:43:51 | Weblog
天気の良いのに触発されて、サイクリングに出る。
中京大学豊田キャンパス方面に向う。
どう間違えたか、地名表示を見ると本徳町とある。
最初に見つけたのが、八柱神社だ。
この八柱神社と名のある神社は各地に沢山ある。
それぞれの村で本宮から招魂して祀り、村の安全と幸福を祈願しているようだ。

八柱神社(本徳町)



猪捕獲ワナ

八柱神社から、緑濃い山のほうに向っていく途中に、イノシシを捕まえるための装置が設置してあった。こんな所に、というのが正直な気持ちであった。
最近あちこちに、イノシシが多く出没して、農家の人たちが大変迷惑をされているとの話は良く聞いていたがこんな所まで、現れるのかと驚いた。



観音寺(乙部町)



写真の左手の立て看板には次のような説明がある。

市指定文化財 聖観音菩薩立像
観音寺の創建は寺伝に寄れば奈良時代以前とされており、持統天皇の
眼病平癒を感謝して作られた観音菩薩立像をまつたことによります。
聖観音菩薩立像は像高130cm 肩幅27cmで
市内にあっては比較的大きな部類です。
寄木造りで眼は玉眼写実的な作りでかっては色彩豊かな像でした。
製作年代は鎌倉時代末期から室町時代にかけてのものと思われます。
                       豊田市教育委員会



藤岡町の名木と棒の手碑

2006-05-20 08:51:43 | Weblog
藤岡町の名木

豊田加茂(豊田市、藤岡町、小原村、足助町、下山村、旭町、稲武町)の7市町村は、平成17年4月1日に合併し、新「豊田市」が誕生いたしました。
従って、現在は豊田市藤岡です。



この名木は藤岡町御作の八柱神社の境内にあります。
そばに立っている表示板には次のようにあります。
藤岡町天然記念物(文化財)
指定日 昭和49年2月
ケヤキ(ニレ科)樹齢約400年
開花は早春に新芽とともに生じる。材質は硬く、木目が美しい。
日本の代表的広葉樹のひとつ(藤岡町教育委員会)


棒の手碑




この碑の下部の説明書きには次のようにあります。

碑文
御作の棒の手ははじめ江戸後期の享和2年垣平作衛門が加茂郡尾形氏より検藤流を学びこの地に門下百余名を指南して盛事を開いたが幕末の世情変転の中に断絶した。
明治13年山内新平ほか数名は棒の手再興を志し見当流三河宗家・八草の粕谷菊平に指示して免許目録を授かりこれを広めいまに伝えたのである。
見当流は尾張の本田遊撫を流祖とし勇壮闊達な演技を伝承するもので鎮守八柱神社に奉納のほか川通合属に加わり永く猿投神社に奉納を続けたのである。

光明寺の樹叢林

2006-05-19 09:59:47 | Weblog
光明寺と豊田の名木
光明時は豊田市は花本町にある浄土真宗のお寺です。
豊田市の名木第163号として、指定されていますが、寺域全体の植生を指定しているようで、「光明寺の樹叢林」と名付けています。
エノキ、クスノキ、カシワ、モミジ、シラカシ、ムクロジ、モミなどの混生林を指しています。






児ノ口神社の名木No.136号

2006-05-07 05:19:33 | Weblog
豊田市の名木No.136号
陣中公園の一角に児ノ口神社(豊田市久保町)がある。
何処までが公園でどこから神社境内か判然としないが、児ノ口神社の境内に
豊田市の名木136号はある。
名木は見るからに痛々しい姿である。
付近には大きな伐根がいくつも残されており、
この木も近未来にこんな運命を辿るのかと考えると悲しくなる。

  

児ノ口神社




三水湖

2006-05-01 08:28:05 | Weblog
三水湖を訪ねる
「三水湖」という名称は多分地名ではない。
此処に「三水湖」という喫茶食事のできる店がある。
矢作川と勘八町の奥から流れくる小河川に挟まれた半島状の突き出た所に立地している。
だから「三水湖」と呼ぶに相応しい。
この傍らに、写真の天満宮がある。R153の脇にあるため車の往来が激しく、
落ち着いた環境にあるとは言えない。