狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

My Testimony/僕の証<1-2/2>:無限の螺旋の次元上昇で得る純粋無垢の為の処世術「イエス・キリストと繋がる真の強さ」、純潔/True Strength with Christ, Pure

2019-01-31 10:17:14 | エッセイ・コラム
 ※ 本シリーズの記事は、昨年(2018年、平成30年)の内に投稿する予定であった為、本文中の「本年」とは2018年(平成30年)の事であり、訂正するには膨大な数に対応する為の手間と時間が必要となる為、敢えてそのままにしている事を御容赦願います。

 My Testimony & Witness
  僕の証<1>
    ~「しんどい」49歳の「ゆらぎ世代」に在る僕の失敗・トラブル続き
     「一瞬の此の世」に「居れない」事を甘受し「後の永遠の命」を重視
     「無限の螺旋」の「次元上昇」で得る「純粋無垢」の為の処世術「イエス・キリストと繋がる真の強さ」
     「純潔主義」
     Eternal Life in Heaven
     Level Rise in Infinite Spiral
     Chastity, Pure Purity
     The true strength which connect with Jesus Christ


 (「My Testimony/僕の証<1-1/2>」からの続き)……

 今まで、僕は何回か人生の中でターニング・ポイントが在った。5~6歳の時にカトリックの幼稚園通園、8歳になる手前での受洗、18歳での高校中退、22歳で町工場の小さな鉄工所に見習い、(25歳の時に阪神淡路大震災、)27歳での新築マンション購入、33歳8ヶ月での大怪我、36~39歳での医療系専門学校への通学(その間、入学後の「3年半」後に臨地実習でのつまづきと再度の実習を含む)、41歳の時に実父の昇天(とその3ヶ月後の東日本大震災と福島原発“爆破”)、そして6年前の43歳にしてやっと初めて、長期休暇の中で「聖書通読」と「悔い改め」、「もしもノート」(遺言書の意味も含め、より広義な非常時に際して必要な自分の情報等)記述、災害時の為の備蓄等の防災対策を行った。「プレパレーション」(“Preparation”)の意味は心構え、覚悟、準備、用意、安息日の前の備えの日、教会でのミサの前の祈り等であるが、最も大事な意味は、後の天に於ける永遠の命を受ける為の備えである、此の世での死の前の「悔い改め」である。汚い心のままでは天で神様の傍に「居れない」ので、昇天するまでに「悔い改め」て心を清純にしておく準備が必要である。社会、世間、会社、学校、此の世に「居れない」としても、後に神様の傍に「居れる」事が出来れば良いのである。此の世での生命は「一時的」である。神様の傍に在る天での命は「永遠」である。何ぼ世渡り上手で、要領良く、体裁良く、偽善的に、自己実現し、地位や名誉、成功を手に入れ此の世の生を謳歌しても、快楽に浸っても、反省せず心からの「悔い改め」をしないで心が汚いままで死を迎えると、後の永遠の命は得られない。

 
 



 新約聖書・マタイの福音書4章17節
   この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 The New Testament・The Gospel of Matthew 4:17
   From that time, Jesus began to preach, and to say, “Repent! For the Kingdom of Heaven is at hand.”

 
 





 マタイの福音書6章1~8節
  人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
   だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
  あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
  あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
   また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
  あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
  また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
  だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

 The Gospel of Matthew 6:1~8
  “Be careful that you don’t do your charitable giving before men, to be seen by them, or else you have no reward from your Father who is in heaven.
   Therefore, when you do merciful deeds, don’t sound a trumpet before yourself, as the hypocrites do in the synagogues and in the streets, that they may get glory from men. Most certainly I tell you, they have received their reward.
  But when you do merciful deeds, don’t let your left hand know what your right hand does,
  so that your merciful deeds may be in secret, then your Father who sees in secret will reward you openly.
   “When you pray, you shall not be as the hypocrites, for they love to stand and pray in the synagogues and in the corners of the streets, that they may be seen by men. Most certainly, I tell you, they have received their reward.
  But you, when you pray, enter into your inner room, and having shut your door, pray to your Father who is in secret; and your Father who sees in secret will reward you openly.
  In praying, don’t use vain repetitions as the Gentiles do; for they think that they will be heard for their much speaking.
  Therefore don’t be like them, for your Father knows what things you need before you ask him.


 此の世で世間、周囲、人々からの褒め言葉、承認、表彰、名誉、地位を得て快適に「居れる」と、却って、後の天に於いて神様の傍に「居れる」事をはじめとした神様からの恵みを受ける事が出来ない。

 僕はそのターニング・ポイント毎に、捨て、集め、組み合わせ、整理し、データ・マイニングし、キュレーションしてアウフヘーベンし、次元が上昇しながら改革を行って来た。しかし、この度の事を含めて直近の6年間を見ても解る様に、また、再び元の木阿弥の如く、折角「悔い改め」をしたにも関わらず、心が悪化してしまった様に感じた。しかしこの事は、僕自身が人間としての「弱さ」故に起こる事であり、常に神様に祈り、聖書の御言葉を聴いて受け入れ、神様、イエス・キリストに繋がり、心の内に聖霊が宿って「居なければ」、その様に悪化、逆戻り、そして失敗の繰り返しをしてしまう事である様に思う。前述の様に、僕自身の「弱さ」を素直に認め、努力する事は勿論必要ではあるものの、自力で成し遂げる事、自己実現する事には限界が有る、自立する事は大事であるものの、やはり神様の力が常に必要である事、キリストに依存する事が大切である事を悟り、欠かさず救いを求め祈り、常にキリストに在り、神様に繋がる事で、「私が弱いときにこそ、私は強いからです」(コリント人への手紙 第二12章10節より)という様に成れる。聖霊が心に「居られる」事によって心に礎が築かれ、泰然自若、確乎不動の心となり、真の強さが得られ、心と精神は安定する。神様によって周囲・環境から煽られた心の波風が抑えられ、イエス様に繋がって安心感が得られ、心が安らぐ。

 僕自身を含めた人間の弱さや成長過程、悟りを得るまでの段階、自分探し、真の、元々の純粋な自分を探す旅を図と詩で表したものに、支那(中国)北宋時代の臨済宗・楊岐派の禅僧・廓庵作の「十牛図」が在る。次に掲げる。

 以下、ウィキペディア「十牛図」より 
 
 

 出典:ウィキペディア「十牛図」

 各図の解釈
  1.尋牛 - 仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況。人には仏性が本来備わっているが、人はそれを忘れ、分別の世界に陥って仏性から遠ざかる。
  2.見跡 - 経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない。
  3.見牛 - 行においてその牛を身上に実地に見た境位。
  4.得牛 - 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます。
  5.牧牛 - 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。慣れてくれば牛は素直に従うようにもなる。
  6.騎牛帰家 - 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない。
  7.忘牛存人 - 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる。
  8.人牛倶忘 - 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界。
  9.返本還源 - 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る。
  10.入鄽垂手 - 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。
 (ここまで、ウィキペディア「十牛図」より)

 この「十牛図」では、真の自己、生まれたての純粋無垢な自分自身を牛に例え、その牛(純粋な真の自己)を探し求める牧者である若者に例えられる自己。前記解釈の中の仏性は、クリスチャンとしての僕としては、原罪と共に人それぞれに此の世に生まれながらにして与えられている「良心」だけでは無く、神様の御心に適う様に生きたいという性質、イエス・キリストと共に歩みたいという性質、後の天で永遠に神様の傍に在りたいという性質に置き換えたい。






 出典:「pngtree」

 人は皆、赤ちゃんの時、幼児期の頃は、心は純粋で無垢である。しかし成長と共に、要領、建前、迎合、付和雷同、隷属、利権関係等といった処世術を身に付けてしまい、心が手垢で汚れて曇ってしまい、偽善的に渡世する事となっている。失敗やつまずき、非日常的な事故に遭う等のきっかけが無い限り、歯止め無く暴走し、本筋から逸脱し、向かうべき方向である神様が立てた計画である運命から逸れてしまい、人間自身の欲望のままに生きている。
 しかし成長と共に、人は次元が上昇する。幼児期や子供の頃は「0人称」であり、自分に主体性を持たず、両親や学校の先生の言う通りに、他人に素直に生きている。但し僕が世間一般を眺めてみると、空気の全体主義に迎合し、他人の顔色を判断基準に於いている多くの人達は、この「0人称」の粋を超えていない様に思える。それは、渡世術の為に建前として合わせているだけの者もいるであろう。
 「0人称」からレベルが上昇したのが、「1人称」である。主体性を持って、自分で捉え、自分で考え、自分で判断し、自分が行動する、精神的に「自立」した者の事を言う。「0人称」の様な、他者に精神面で「依存」するのでは無い。そして、「0人称」は「他者実現」であるが、「1人称」は「自己実現」である。他人の力に頼るのでは無く、自分が努力して、独力によって成し遂げるものである。
 「0人称」よりも成長してレベルの高い「1人称」。しかし、その「1人称」よりも更に、人として成長して次元が上昇した高いレベルが、精神科医である泉谷閑示氏の著作「『普通がいい』という病」(講談社出版)から借りた言葉として「超越的0人称」が存在する。この「超越的0人称」とは、自分を無くし、自分の欲望を無くし、自分の意志をも取り去ってしまい、天の神様に「全き依存」をする事である。そして、自分で「自己実現」するのでは無く、全能の神様によって成し遂げられる「神実現」が為される事である。「超越的0人称」は、神様への「全き依存」、神様の立てられた御計画である運命に従う事、神様から与えられた務め、宿命、使命を行う事である。「1人称」の時の、自分勝手な欲望・希望を基にした目標を自分勝手に立てたとしても、それが神様の立てられた御計画である運命・使命と正反対の方向であれば、「絶望」となるだけである。
 神様からの命令である「運命」に従うならば、此の世に「居れない」かもしれないが、後の天で神様の傍に「居れる」。自分の「欲望」のままに生きるならば、此の世で快楽に浸り「居れる」かもしれないが、後の天で神様の傍に「居れない」。此の世の生命は「一瞬」、後の天での命は「永遠」である。


 「十牛図」では、「本当の自分」を見失った「0人称」の若者が旅に出て、「本当の自分」を発見し、自分自身がその「本当の自分」と一体化して心が純化する「1人称」となる。そして、人里離れた山奥で仙人の様な隠遁生活(引きこもり)をし、世事、世俗から逃れて隠れ、自然に委ねて自然と一体化する。更に、「超越的0人称」となって、心が「空」、「無」となり、そして「あるがまま」の自然となる。そして第十図では、山奥から降りて来た半裸で腹の出た布袋さんの様な仙人、老人の方が、若者と出会い、その老人が若者に教え諭している様な姿が描かれている。泉谷氏によると、この布袋さんの様な老人の事を昔の若者、つまり第一図から描かれている若者だと考えても考えなくとも良いとし、同時に、この「十牛図」が「無限の螺旋」となっているという。要するに、結局、第十図の若者は第一図からの若者であり、第十図で布袋さんの様な老人が自分自身である若者に諭していると捉える事が出来る。つまずく等をして流されずに今一度立ち止まり、世間一般のレールから外れた時、「自分探し」を行ったりするが、その時に自分を見つめ直し、内省・内観し、黙想の中で自分の内側と対話し、「悔い改め」を始める。この様な事が、「十牛図」の第十図に示されているのではないだろうか。

 




出典(経由):2015年3月4日更新・NAVERまとめ「ジョーク?笑えない・・・NHK【おかあさんといっしょ】一緒ではない格差!」
(原典:2009年10月4日更新・最高峰への進学指導PrePass「アウフヘーベン」

 前述した様に、僕が折角「悔い改め」をしたにも関わらず元の木阿弥の如くに見えるのは、僕自身がその「無限の螺旋」の状態に在る事が言える様に思う。「0人称」から「1人称」、神様への依存である「超越的0人称」へと次元が上昇して終わるのでは無く、その「無限の螺旋」状態の中で人間の弱さ故の失敗、トラブル、つまずきの繰り返しを経ながら、更に「成熟」しながらアウフヘーベンしレベルを上げて行く。
 ところで、0~3歳期は「敏感期」であるらしい。この時期の育て方、教育方法や指導方法の内容によって、子供のその後の成長が大きく異なって来るという。自分自身を肯定できる「自尊心」を養う為に、この「敏感期」が重要であるという。その為の教育法として、「モンテッソーリ教育」というものが有り、神様から「恵み」として与えられているタラント、個性、特徴、特質、特性を活かす為に、その部分に特に注目し、力を入れて特化して繰り返させ、充実させようとするものである。また、それによって「集中力」を養う事にも繋がる。「無限の螺旋」の中で、再び幼児期の様な「純粋無垢」な心が復活する。
 キリスト者として、結婚するまでセックス(性交渉)をしない「純潔主義」である者が多いが、若い時、未婚時にそれを誓い守るだけでは無く、年を重ねた後に再び「第二の純潔(セカンダリー・バージニティ)」を宣言、或いは告白、カミングアウトするクリスチャン達がおられる。その事も、「無限のスパイラル」の中での再度の「純粋無垢」な心の復活と「敏感期」に入る事と同じであるのではないだろうか。
 「無限の螺旋」の中で、その都度、前向きになるばかりでは無く、流されずに立ち止まり、振り返り、自己の内側を見直す事によって、「悔い改め」をし、「純粋無垢」な心が出来る。しかし、決して理想郷ではない現実、世間、社会、此の世を渡って行く上では、過去の悔い改める前のレッテル、悪口、バッシング、いじめ、ハラスメント、騙し、詐欺、挑発、煽り(あおり)立て、煽て(おだて)、誘惑、唆し、妬み、やっかみ、邪魔、揚げ足取り、足の引っ張り等と、攻撃を受ける。そして、「純粋無垢」となった心は「敏感期」であり、とても傷付き易い。僕自身、長期休暇の中、隠遁生活を行っていた中で、「敏感期」に入っていたのではないだろうか。そして前述した様に、「強迫性神経症」や「HSP」の症状が出ていたのではないだろうか。
 その為、「無限の螺旋」の中で「成熟」しながら、処世術という「アダプター」を身に付ける必要が有る。しかしそれは、前述した様な心が曇って汚い状態での偽善的な渡世術では無く、神様への信仰と祈り、聖書の御言葉を受け入れる事により、「イエス・キリストと繋がった強さ」で心が覆われる事である。古代ユダヤの王ダビデが「私は、あなたに身を避けます」(詩篇16章1節より)、「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら」(詩篇18章2節より)と創造主である唯一の神様に祈り続けた事は、正に、ダビデの「純粋無垢」な心を持ってした処世術、周囲のストーカー的な敵から心身を守る為の盾であり殻である「アダプター」そのものであった。


 
 



 旧約聖書・詩篇16章1~2節
  神よ。私をお守りください。
  私は、あなたに身を避けます。
  私は、主に申し上げました。
  「あなたこそ、私の主。
  私の幸いは、あなたのほかにはありません。」

 The Old Testament・The Book of Psalms 16:1~2
  Preserve me, God,
  for I take refuge in you.
  My soul, you have said to Yahweh,
  “You are my Lord.
  Apart from you I have no good thing.”

 
 



 詩篇18章2~3節
  主はわが巌、わがとりで、わが救い主、
  身を避けるわが岩、わが神。
  わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
  ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、
  私は、敵から救われる。

The Book of Psalms 18:2~3
  Yahweh is my rock, my fortress, and my deliverer;
  my God, my rock, in whom I take refuge;
  my shield, and the horn of my salvation, my high tower.
  I call on Yahweh, who is worthy to be praised;
  and I am saved from my enemies.


 「0人称」は自分自身と神様を疑い他人を信じる「他信」であり、「他己実現」を行ってもらう無神論者。その上をいく「1人称」は、他人と神様を疑い自分を信じる「自信」であり、「自己実現」を行う無神論者。そしてより成長し成熟した「超越的0人称」は、それらや世間、社会、此の世を超えた、超自然的、全宇宙的、絶対者、創造主である唯一の神様に対する唯一の信仰を持ち、全き信頼感を神様に寄せる「神信」であり、「神実現」を祈り願う、イエス・キリストと繋がるキリスト者の事である。
 日本の「武士道」の「敢為堅忍」とセットとなった「勇」は「真の強さ」であり、「一瞬の感情」に任せた暴力は卑怯であり「真の弱さ」を示すものである。「真の強さ」とは、イエス・キリストと繋がる事で得られる心の安定、心の静寂、落ち着いた心、動揺の無い心の事である。

 
 



 ヤコブの手紙1章19~22節
   愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
  人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
  ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
  また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

 The Epistle of James 1:19~22
   So, then, my beloved brothers, let every man be swift to hear, slow to speak, and slow to anger;
  for the anger of man doesn’t produce the righteousness of God.
  Therefore, putting away all filthiness and overflowing of wickedness, receive with humility the implanted word, which is able to save your souls.
  But be doers of the word, and not only hearers, deluding your own selves.


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  ・2019/01/31付:『My Testimony/僕の証<2-1/2>:僕の成熟過程「試練の時期」の「敏感期」と「アセンション」に伴う「強迫性神経症」と「HSP」、エビデンス無き精神科医療、予防医療で作られる「医原病」』
  ・2019/01/31付:『My Testimony/僕の証<2-2/2>:僕の成熟過程「試練の時期」の「敏感期」と「アセンション」に伴う「強迫性神経症」と「HSP」、世間の精神面での「空気感染」、「毒」でしかない薬とワクチン』
  ・本ブログ ブックマーク:「My Testimony & Witness/僕の証 2018」 ・・・本ページ右サイド

  ・2013/02/10付:「『生命倫理』について・・・(5)『運命』を素直に受け入れ、大きく委ねる」
  ・2013/04/13付:「俗事における『無用性』は一時的なもの・・・信仰によって生き、永遠を求める」
  ・2014/06/08付:「お金・事業より優る『思想』、それをも上回る独立した名も無き小さな一個人の勇ましく高尚な真面目なる『生涯』・・・『後世への最大遺物・デンマルク国の話』を読んで」
  ・2014/06/29付:「『「普通がいい」という病・「自分を取りもどす」10講』を読んで・・・絶対的基準・規範も持たずにお互いの顔色・反応を確かめて『普通』と認め合っているに過ぎない世間の人達」
  ・2015/11/22付:「医療従事者はヒマな者が多い・・・仕事を作る為のマッチポンプ式ビジネス『予防医療』による『医原病』」
  ・2016/04/10付:「独立自尊の精神で孤往独邁の覚悟・・・妥協せず精神面での勝利、『自分を取り戻す』」
  ・2017/05/05付:「『ひきこもり』は良い事である・・・精神的修練と自立、心の成熟、自己点検、内省、瞑想、普通であろうとする間違い、アイデンティティにこそ値打ち、自分と公義とのバランス、そして根本規範」
  ・2017/07/22付:「『陰徳』により人からの評価・承認を得られずとも後の永遠と創造主の守護を得る・・・過去を想起し、自分を知り、現在・未来と運命・役割を考える」
  ・2017/07/23付:「高校中退後の30年間、友達・つながりが全く無かったが、こうして今ちゃんと生きている・・・世間・マスコミの論拠崩壊、独立自尊の精神、マイペース、へそ曲がり、リラックス、そして行雲流水、成るように成る」
  ・2017/08/11付:「『カラスの恩返し?』、ペンギンの様に飛躍せず、天の孔雀ならぬ天の邪鬼な、酉年生まれの私・・・『けっして覗かないでください』と、大した才能も無く、日々物書き」
  ・2018/01/09付:「十日戎に見る日本人・・・地上での幸福のみを願う自分の欲望を神とした祈り、渇く水を追い求める人々、敬虔な信者は自分の事を願わず神に感謝し神を賛美、人それぞれのタラントに応じた務め」
  ・2018/03/19付:「僕の先月の追記:I am“out-low”, servant, and no ability神様の恵みで益とされるPeople are made as good by the grace of God」
  ・本ブログ・カテゴリー:「予防医療の危険性と生命倫理」 ・・・本ページ右サイド

 引用文献
  ・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
  ・新改訳新約聖書(1965年版)(発行:日本聖書刊行会)
  ・World English Bible(eBible.org)

  ・ウィキペディア:「証 (キリスト教)」

 参考文献
  ・「『普通がいい』という病 『自分を取りもどす』10講」(著者:泉谷閑示氏、出版社:講談社、出版日:2006/10/20)
  ・2018/11創刊号・DHCのクスリ:「女の一生に、漢方の力を」
  ・2018/11/04付・神戸新聞朝刊:「編集委員インタビュー 遊び反復 自己肯定感を育む 芦屋大付属幼稚園園長 安藝雅美さん(52)に聞く 『モンテッソーリ教育法』が目指すところは? 能力開花、心にゆとりも」
  ・ウィキペディア:「十牛図」
  ・ウィキペディア:「純潔運動」

 関連文献
  ・「『私』を生きるための言葉 日本語と個人主義」(著者:泉谷閑示氏、出版社:研究社、出版日:2009/3/25)




「『普通がいい』という病 『自分を取りもどす』10講」
「『普通がいい』という病
『自分を取りもどす』10講」
「『私』を生きるための言葉 日本語と個人主義」
「『私』を生きるための言葉 日本語と個人主義」


 関連動画↓ (画像のクリック、及び下の文章のクリックにて、当動画YouTubeサイトにリンク)

YouTube: 十牛図 Feel the Earth Rotate (宇宙のささやき)  →YouTube
 出典:2015/10/01公開・YouTube 「やつかひとし」チャンネル:「十牛図 Feel the Earth Rotate (宇宙のささやき)」

 「 My Testimony/僕の証<1> 」<1/2> ~ <2/2> ↓
  【1】 【2】


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