dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

トチアキタイヨウ+ホナガヨウコ+ゴセッキー+ふくお+マツウラシンペイ

2004-09-12 | ダンスとか
新宿・シアターPOO。
このライヴもずいぶん回を重ねてきて、ついにダンサーが増えた。ホナガヨウコはこの前のニブロールに出ていて、今度は金魚×10にも出る。パーカッションが二人なので、ただでさえ狭い舞台奥は完全に塞がれ、空間は異様に狭い。前に見た時と同じように、なぜか「モイスチャー・リンス」という単語を断片的に口にしながら、音とセッションしていく。動きはこの前よりずっとしなやかで、時折「エッ?」と目を疑うような瞬間があった。暴れ馬の如く荒々しい腕のストロークがいつの間にかそれを打つムチにすりかわり、弾力が抑止力にフォローされて、何事もなかったかのように凪ぎに戻る。足元も軽やかで、これはいいライヴになるのではないかと思った。客席に背を向けて、二人のパーカッショニストを指揮するようにして(DCPRG風に)、ミュージシャンたちとアイコンタクトをとりながらハチャメチャに踊るところが凄かった。激しく上下にブレる背中から、音楽としかいいようのないものが聞こえてくる。ミュージシャンたちもそれを見ながら駆け引きや取り引きを楽しんでいる。まさにダンスと音楽の境界が消える感じ。これで前を向いてくれたら完璧なのにと思っていると、前を向いたのだが、するともうミュージシャンたちもダンサーの動きを見ることはなくなってしまった。つまりミュージシャンたちにとって、ダンサーの体の動きを見るためには、体を直接見るのではなくて目を見るということが必要であるようだった。目にフォーカスを合わせて、周辺視野で体の動きをおぼろに受け止めているのに違いない。だから背中を向けられてしまうと、手がかりを失うので、もうコミュニケートすることを止めてしまう。ダンサーが背中で表現できるべきであることはもちろんだが、ダンサーと共演する以上、ミュージシャンが背中と交感できることもまた要求されていいだろうと思う。しかしそれと同時に、彼らがダンサーの体のディテールをいちいちトレースすることなく、周辺視野で大づかみにダンスを受け止める、その知覚のあり方にも強く興味を惹かれる。そこにはもしかしたら、「身体」だの「フォルム」だのというものはなく、ただ「ダンス」というものだけがあるのかもしれない。その領域では、ダンスと音楽の間の区別は本当に完全に消えるのかもしれない。終盤になって、「ちょっとダンスくさいのもやってみます」と言いつつ、ホナガと二人で振付けられた踊りを見せた。中空を眺めて、その顔の向きをユニゾンで動かしていったりする。「ダンスくさい」というのは要するにこのフォルムに満ちた振付のことを言っているのだし、そしてさっきの音楽と区別のつかないような非フォルム的なダンスは、「ダンスくさくない」ダンス、つまりよりナチュラルなダンスであると言いたいのだろう。それと振付と、いったいどっちが、ダンスと呼ばれているものの本質なのだろう。ダンスくさかろうがなかろうが、振付だろうがルールだろうが、何にせよ体の動きはあるスイッチが入りさえすればダンスになるし、入っていなければダンスにならない。そのスイッチを「生命」とかそんな曖昧な言い方でしか表現できないだろうか。しかしあの「ダンスくさくない」ダンスの方が、ほとんど何の振付も与えられておらず、むしろ動きのパターンを自らひねり出してきているという点において、振付のあるダンスよりもより根深いダンスだと思われる。「ナチュラル」。使いたくない言葉だ。なぜなら、それがダンスとして成立してしまった時点ですでに、フォルムや振付が事後的に生成してくるのだから。こういうダンスにおける「生命性」を、「ダンス自体 Tanz an sich」と名付けてみるのはどうだろう。そしてそれは決して、剥き出しの形では現象してこない。必ずフォルムを身にまとい、汚染された形で現象してくる。ミュージシャンはそこから目をそらすために、ダンサーの体ではなく、目を見る。どうだろう。ライヴ全体としては、もうちょっと恥ずかしがらずに、傲慢な感じでやってほしかった。セッションとセッションの合間にトチアキのMCが入るところがいわゆるダンスの公演とは違う。MCを「素」=地として、ダンスが図になる。ただし自分の体を楽器のように客観化して使うことに関してはホナガの方が長けていると思った。
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(トリのマーク) 『ワニキシは花を プシュカルは山を』

2004-09-12 | ダンスとか
向島百花園。
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藤原理恵子

2004-09-12 | ダンスとか
亀有・延年寺。
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