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ダンスとか。

ニブロール 『ロミオORジュリエット』

2008-01-18 | ダンスとか
三軒茶屋・世田谷パブリックシアター。
とにかく音が良い。良過ぎた。スピーカーの数が相当なものだし、あちこちから音が聞こえてきたりもして、興奮させられ通しでいると、脳が疲れるのか、舞台の方はいつも以上に冷静に見れてしまう。紗幕を使って、映像のレイヤーが出来ていたり、凄いのだけど、ダンスに限っていえばスピード感がまるでない。スピード感というのは、ニブロールの場合、移動速度のことではなくて、「矛盾」の強さの度合のことを指す。力のヴェクトルが衝突したり、体が引き裂かれそうになって震えたり、意味がねじれ返ったり、渦が加速して破裂寸前になったりするようなことが、『コーヒー』や『ノート』の中心にはあったのだけれども、この作品では平然とユニゾンが行われていたり、構成の原理は限りなくモダンダンスに近い。10年もやり続けるのは大変だが、見ている方だって10周年なわけで(ぼくはせいぜい8周年くらいだが)、すると過去の価値基準で計ろうとしてしまう自分に抵抗しなくてはいけなかったりして、なかなか難しいのではある。特に『さよなら』をきっかけに、個人的には矢内原美邦のソロダンスに途轍もない執着が芽生えてしまったのだけれども、今回は一人一人が矢内原のソロのようなダンスを踊っていて、その代わり、ダンサー同士の関わり方にはこれといったアイディアがないように思えた。つまり『コーヒー』や『ノート』(特に『コーヒー』)は、個々の身体を振付けるのではなくて、いわば舞台空間の中に一つの「社会」を作り出すところに主眼があって、そして振り返ってみれば、そんなことをやっている人は他に全然いなかったのではないか、それくらい斬新だったのではないか。そして今は、矢内原がソロで踊るような、きわめて精緻な振付を、複数のダンサーによってコピーしているわけだけれども、そういうことと、「社会」を作り出す(集団を振付ける)こととは、根本的に何の接点もない別のことなのではないかという気がする。いや何らかの接点はあるのかも知れないが、そこはそれで一つの独立した課題であるということを、真剣に考えた人はいまだかつて存在しないのではないかという気さえする。
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