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ダンスとか。

『呪怨 パンデミック』('06、清水崇監督)

2007-09-08 | ダンスとか
池袋・シネマサンシャイン。
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Dance Theatre LUDENS 『Moments '07』

2007-09-08 | ダンスとか
横浜赤レンガ倉庫1号館3階ホール。
去年1月の初演は見ていないのだけど、8月にplan Bで見た岩淵多喜子ソロがこの作品からの抜粋とのことだったので、期待して見た。大量の白い空缶が散らばっている舞台へ、梶原暁子が出てきて、ところどころ拾い上げて床に立てて回る。しばらくすると太田ゆかりが現われ、それを蹴り倒していく。梶原と太田の間のゲームになり、エスカレートするのだが、おもむろに岩淵が入ってきて缶を袋に回収していくと、梶原と太田が駆け引きを演じる空間が見る見るうちに縮小して、最後は缶が一つだけになる。この過程が何だか薄ら寒くなるほど面白かった。最初は何で空缶でしかもそれがNHKみたいに白いんだ、なんてことばかり気になってしまうのだが、体の動きと事態の推移を追っているうち、抽象的な構造だけが浮き上がって見えてくるアルゴリズムとしての振付。特に、人間じゃなく缶を(人間の行為を媒介としつつ)見せているみたいなところが軽くショックだった。この後も五人の集団が(半ば即興的に?)アルゴリズミックに離合集散するような場面が続いたので、ちょっと緊張し始めてしまったのだけど、どの場面も今一つ明晰さに欠け、中盤に岩淵ソロを挟んで以降、どんどん統一感(ポリシー)が稀薄になっていってしまった。過度に(安易なまでに)わかりやすい箇所を除くと、ずっと移行部みたいな、何が始まるのかなと待ちながら流し見してしまうような場面が、最後までコラージュ式に続いた。しかし岩淵ソロの部分はやはり面白い。関節の仕組みや部位の構成のありようが、床の平面との対比によってある「複雑さ」として現われてくる。生物としての機能性に照らせばいかにも理に適っていて、またそれだけに平凡なものでもあるヒトの体は、抽象的な幾何学に照らしてみるとすごく特殊な方向に偏って出来ている。例えば空間そのものには「前」や「後」というものがないが、身体には「前」や「後」がある。生きるためにそうなっていて少しもニュートラルじゃない。そんなことを考えた。冒頭部とこの岩淵ソロは、抽象と身体の関係をいわば普遍主義的に扱っていて、岩淵のモダニストとしての資質が怖いくらいに伝わってくる。しかしこの普遍主義というのは、身体への内在(観念的な超越性の拒否)ということの、半面のみを表現していると思う。もう半面は、どの身体も実際には個別的な現実の中で社会的・政治的な関係の平面の中に埋め込まれているということだ(白い空缶はNHKにしかない)。CRUSTACEAの椙本雅子と、水と油の藤田桃子が出ていた。
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