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ダンスとか。

水上アートバス「ダンスパフォーマンス!」/白井剛

2006-06-17 | ダンスとか
浅草~日の出桟橋・水上バス。
二年ぶりの恒例企画、往路は最初から最後まで追いかけながら見る。まず白井は一階船室の席に腰かけて、他の乗客にすっかり溶け込んでいた。紺のブレザーに白いシャツ、破れたジーンズで、長めの髪で顔を覆い、その上から銀色のサングラスをかけている。この微妙過ぎる(微妙にリアル過ぎる)「ヘンな人」の姿で、銀色のヘリウム風船を取り出してそれを弄びながら二階デッキへ上がり、客席通路を行き来して、ところどころで震えたり床を這ったり、船の後部に脚をかけて遠くを見つめ、三点倒立をしたりしたのだが、終始不思議なほど存在感が稀薄で、辺りの空気はほとんど動かない。白井のあまりにも普通な外見と、あまりにもつかみ所のないパフォーマンスのためか、乗客の視線は一度そっちへ動いてもすぐに戻ってしまい、ますますパフォーマンスは孤立してくる。白井らしいセンシティヴな(感受性豊かな)動きではある。しかし例えばこれが伊藤キムであれば、まずとにかく他人を刺激して、そのリアクションから遊戯的な関係に入るのだろうが、白井にはそういう「芸人」のメンタリティがほとんどない(終盤近く、白井は通りかかった子供の背中をこっそり指で突付いて、そうしたら子供は振り返って立ち止まり、しばらく白井の方を見ていた。何かもっと期待しているようだったが、それ切り何もなかったので、やがて子供は行ってしまった)。何かのネタを演じるのではない仕方で、日常の感覚を強く、増幅しようとするスタンスの難しさ、ジレンマを感じるが、観客と関わろうとしていながら関われていない踊りはやはり見ていて辛い。あからさまに関わる気がない踊りなら別だが、内向性と外向性のバランスをなかなかつかめずにいる感じがこのパフォーマンスの「弱さ」だったように思う。そしてそういう弱さは反転して、乗客の方に無用な「強さ」(権力)を与えてしまいもする。その場にいることが申し訳ないような、そんな気持ちにさせられてしまう。往路に限り観光ガイドがテープではなく、女性が通路に立ってマイクで行っていて、彼女は目の前で逆立ちしたりする白井を見て一人で何度も吹き出し、その度にアナウンスが中断して、それで乗客の間にも何か特別なことが起こっているという和らいだ雰囲気が生まれたのだが、少なくともぼくには何が可笑しいのか理解できなかった。むしろ彼女の笑いは、白井の「弱さ」によって強制されてしまう自分の「強さ」、いわば立場としての暴力性を打ち消すために、白井のパフォーマンスに観客の注意を促して両者の関係を救済しようとする努力であるように聞こえ、いたたまれなかった。帰路はあえて客席の一箇所に座ったまま、何も知らない乗客のようにしてみる。ずっと人と話していたので、見ることのできた時間のうちさらに部分的にしか見ていないが、これだけ距離をおいて眺めると、時折り目を向けた時に白井がやっている行為はほとんど暇をもてあまして退屈した幼児の振る舞いに近い。しかし白井はどう見ても幼児ではない。かといって芸人っぽくもない。常識の枠から外れてはいるが、どうにもコミュニケートできそうになく、関係が切れているから、何となく不安になる。この不安感を「スリル」に変えることができるのは、遊戯の精神(遊び心)だろうと思う。
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