Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

硝子の眼 XI。

2006-01-31 | 物質偏愛
 僕の選択は正しかったのだろうか。

先日、育ちの良さを覆い隠すことができない柔らかい風情をしたあの若者がやってきた。憔悴してうっすらと隈を浮かべながら、痛々しい笑顔を持って彼は僕に挨拶をした。そして、決して僕をなおざりにするのではない滑らかさで、テーブルの上に視線を向けた。
「あぁ、ミズキ・・いや彼女はあそこにいるのですね。見たところ、元気そうですね。よかった。」
振り向いた彼は僕に泣きそうな笑顔を向けた。
「えぇ。」
その笑顔は、それ以外の返事が思い浮かばない程のまさに慟哭であった。

どうかしましたか、と尋ねるほど気安い仲ではないし、知らん振りできるほどの演技力も僕にはない。辛うじて、「何か暖かいものを。紅茶と珈琲とどちらがお好みですか。」と笑顔で声をかけてみた。その時の僕の笑顔は彼のように柔らかくはなかっただろうし、不吉な予兆を感じ取って酷く怯えて引きつったものであっただろう。

紅茶を挟んで、彼は最初僕の顔色を窺うように、そして徐々に俯いてしまいには独り言のように半ば自嘲気味にぽつぽつと話し始めた。
最近、不眠が続いていること、就職も決まって卒業を控えていて近々独り暮らしを始めること、友達と遊んでいても今ひとつ愉しめないような気がすること。脈絡もなく彼は空に向かって言葉を投げた。

今の僕にはその気持ちがよく判る。全ては「ミズキ」を手放してしまったからだと。そして彼は忍びきれずに「ミズキ」の居る僕の部屋に足を運んだ。
僕は戦慄した。もしも僕がとび色の瞳をした彼女を手放したなら、目前の彼はその時の僕だ。色彩のある世界の甘美さを知った僕からそれが失われたとしたとき、僕の世界が再び白一色のそれに戻れるなんてあり得べくもない。彼は身をもってその恐怖を、その墜落を僕に見せつけた。


「・・いいですよ。」
僕のものではない僕の声が聞こえて、はっとした。
それは砂漠の向こうから聞こえてくるような、どこまでも冷たい声だった。

彼に同情したのではない。彼に見せられた自分の未来と現在の彼の憔悴した姿が僕の中で混濁したにすぎない。彼は、確かにいつかの僕だ。僕が僕を無意識に護ろうとしたとしても、それは強ち間違いではない。

 彼は泪を流して首を震わせながら顔を覆った。
僕の申し出を拒絶する勇気を放棄してしまった彼には明日の僕の姿が見えている。
僕は魂の抜けたようになって、呆然と白いテーブルの上の彼女を見遣った。彼女は相変わらずの冷たい瞳で、僕のほうをまっすぐにただ見ていた。彼がこんなにも泣いていて、僕がこんなにも腑抜けになっているのに。彼の嗚咽がミズキと呼ばれる彼女には聞こえているのだろうか。


先程までの彼のように蒼白になった棒立ちの僕が、彼女のとび色の瞳に映っているのが見える。



硝子の眼。
硝子の眼 Ⅱ。
硝子の眼 Ⅲ。
硝子の眼 Ⅳ。
硝子の眼 Ⅴ。
硝子の眼 Ⅵ。
硝子の眼 Ⅶ。
硝子の眼 Ⅷ。
硝子の眼 Ⅸ。
硝子の眼 Ⅹ。