Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

ご報告。

2005-09-25 | 徒然雑記
さて、今月は大変ご無沙汰&不精をいたしておりました。

それというのも、身辺がなにやら慌しく、ゆっくりと現世を離れて思索に耽る時間を確保することができず、時間はあっても現世の諸々に頭が縛り付けられてしまって、いざ記事を書こうにもつまらんものしか書けそうになく、断念することたびたびでした。

そんな悶々たる日々の末、結果的には4ヶ月かかりましたが、無事就職内々定をいただくことができましたのでご報告申し上げます。
実際に契約することができた暁には、会社のホームページに顔写真が載ってしなうことになりそうなのですが、契約もまだなので、いま暫く公表は差し控えますが、「観光系民間シンクタンク」の筆頭だと思いますので、ご興味がおありの方は今までのヒントを頼りに検索をしてみてください。

以下、夢いっぱいで大学に入学してからの11年間を思い起こした余談です。
中学生の頃からの憧れであった美術史の道に進むために大学に進学し、美術史はどうも古式ゆかしい学問なため、現代社会にプロットしにくいことに気付いて博物館学に転向しようとして大学院入試失敗。トコロテンのように無理やり社会に搾り出されたのはいいのだけれど、折りしもの不況と就職難で就職浪人を味わい、暫くの間生きるためだけの稼ぎを続けておりました。

偶然にも拾ってくれたのが旅行会社だったから、ということで本来さっぱり興味のなかった分野の会社に就職。2年半が過ぎ、自分の裁量で仕事ができるようになってきた頃に、現在所属している大学院の専攻が創設されることを知りました。ふらりと誘われるように受験してみたところ、合格してしまったので慌てて会社を退職し、今に至るわけなのです。


 美術の道を全うしていたら。
 大学生時代に希望した大学院に進んでいたら。
 あの頃に希望していた企業に入っていたら。

全く異なる道を今頃歩いていたかもしれず、そして決して観光研究者なんぞになるはずはなく。
美術や文化財に関する知識、および博物館というものの意義、旅行業界という現場の視点。それらを踏まえた上での観光研究っていうものは、逆にそんじょそこらの人には負けないぜ。

いや、負けてたまるか。


らくがき。

2005-09-24 | 徒然雑記

らくがきツールがあったので、暇つぶしにマウスだけで観音を描いてみた。
下書きもできないうえ、思うように動かないので惨憺たる有様だ。
観音像も可哀想に。


つくばエクスプレスが運ぶもの。

2005-09-21 | 徒然雑記
 8月24日、秋葉原と茨城県つくば市を結ぶ通勤ラインつくばエクスプレスが開通した。本来ならもう5年以上前に完成する予定だったらしいが、土地の買収などが遅れ遅れて今に至り、その恩恵に預かる期間は至極短くなった。
 この夢のような列車が開通するまでは、東京都内へは時間も読めない渋滞必須の高速バスで往復しなければならず、たった50kmの距離を移動するだけでハイストレスだった。つくば科学万博expo85(参考URL)でお馴染みのつくば市に、今の今まで「駅」がなかったことを知る人は多くない。

 つくばエクスプレス(以後「TX」)は、日本が世界に誇る電気街とオタクの街秋葉原から、東京大学柏キャンパスを経由し、つくばに至る。最高速度は時速130kmで、快速は秋葉原からつくばまで45分という速さだが、下り線のほぼ半分が守谷止まりであるため、つくば在住の我々からは「これじゃぁ守谷エクスプレス(MX?)じゃん」という不満がないこともないのが正直なところ。

この路線には、つくばと柏という学術都市と秋葉原とを繋いで、点として存在する研究機関を線として繋ぐと同時に都内へもその一端を進出させる、という意図がある。そんなうまいことができるようになるには暫くの時間を必要とするだろうが、秋葉原の駅周辺にも企業や研究所の分署がぽつぽつとできているらしいし、つくばは東京のベッドタウンにもなりうる距離になったということで駅近辺のマンション建設ラッシュが猛スピードで進んでいる。大失敗したつくば市都市計画の穴を埋めるにはこの機会をおいて他にないだろうので、閑散とした廃墟感を醸し出す緑豊かなつくば市が、にぎわいや界隈を持つ「街」として機能し、日々の生活の息遣いが聞こえる街に生まれ変わってくれれば、それが最高の結果だと思う。

TXには既に2度乗ってみた。1度目は区間快速(2番目に速いもの)、2度目は快速。快速はつくばと守谷を13分で結び、確かに速かった。
グローバルデザインがひとつの売りである車両は、実際は判らないが感覚的には広々としている。難点は椅子が硬くて座りにくいことと、窓のスクリーンのストッパー位置が判りにくいこと。新幹線のように長時間乗るものではないので椅子が硬いのは困らないが、スクリーンに試行錯誤している人々を毎回見かけたので、あれは失敗だろう。面白いのは、向かい合わせに座る4人掛けの椅子の通路側席には、肘掛からテーブルが出ることだ。モバイルPC用らしく、試験的に無線LANも繋がっているらしいが、飛行機のようでちょっと愉しかった。愉しむポイントは皆同じらしく、無邪気かつ無用にテーブルを出したり引っ込めたりしているご婦人方を数回目にし、微笑ましかった。

通勤と無関係な時間に乗車したこともあり、且つまだ開通して間もないこともあり、電車自体を愉しみに、TXに乗ることだけを目的として乗車している人々がとても多かった。都内のあらゆる路線とは異なる、移動手段ではない純粋なアミューズメントとしての電車。速さに驚き、景色を楽しみ、ご老人にはまだ早いのでないかいと思う年代の方にまで進んで席を譲りまくる人々。笑顔と談笑の群れ。
こんなにもわくわくが満ち溢れている車内を私は知らなかった。新幹線でさえ小旅行の人よりもビジネスマンのほうが多い時代だ。電車の中で他人に話し掛けられることが殆どない時代だ。前世紀にワープしたかのような不思議と心地よい錯覚を堪能した。

きっと、まだ電車が都内に走り始めたころ、このような風景が至るところにあったに違いない。都内の地下鉄からそれがすぐに失われたように、TXの車内からも近いうちに失われる。
ひとときだけの、移動遊園地の夢のような。

興福寺(龍燈鬼・天燈鬼)。

2005-09-20 | 仏欲万歳
 興福寺の仏像紹介第一号は、鬼になった。仏像界において、おおっぴらに笑いが許されているエリアが邪鬼の持ち分だと思っているが、彼らの中で一際出世したのが灯篭を掲げ持つという仕事を与えられている天燈鬼と龍燈鬼、そして役行者のお供として仕える前鬼・後鬼であろう。

 彼らはもと西金堂安置。恐らく誰かしらの脇侍として存在し、大きな燈篭を天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した鎌倉期彫刻の傑作とされる。龍燈鬼は運慶の三男である康弁作の国宝で、天燈鬼も同人か周辺の仏師の作と思われる。作例は多くない。

 天燈鬼は阿形で口を大きく開け、セリフを当てるなら「アンギャー」という感じ。手で支える「燈籠」の重さに堪えているようにも見える。彩色は朱が主となっているが、その殆どは剥げ落ちて木目が現れている。目は3つあり、衣服のひらひらとした裳裾の風情がえいっと力を込めて風や重さに耐えているさまをよく表している。
体重を支える左足の膝は伸ばしきっておらず微妙な曲げ加減で力とバランスを蓄え、遊び足の右足のしゅっと力の伸びるベクトルと、それと殆ど平行に拳を握って伸ばされる右手との調和をよく保っている。有り得ない頭の大きさをはじめ、灯篭を抱えた左半身が縮こまるのに反してばさっとマントを開くように開け広げられた右半身。その極端な身体バランスが寸分も狂わずに美しく纏まっているのは、小像といえども相当な技量のなせる技と感心させられることこの上ない。

 龍燈鬼は燈籠が気になるのだろうか、角の上でバランスを取っている頭上の燈籠をちょっとばかり情けない形相で睨んでいる。セリフはさしずめ「ム~~」とでも当てておこう。眉毛は銅板、眼と牙は水晶、龍の背鰭は皮製で彩色は青が基調。所謂「青鬼」だ。
こちらは天燈鬼とは対蹠的に、真っ直ぐ上方への直線軸に貫かれている。頭上の燈篭を見上げる視線に、内なる力のバランスを保とうとするかのように右手首をぎゅっと掴む大ぶりな左手。そして等しく肩幅に広げられて大地を固める足。衣も天燈鬼とは異なり、風に舞うことすらないだろうふんどしをきゅっと締めているのだが、その締めかたがどうにも可愛らしく見えてしまうのは何故だろう。まぁ、ふんどしはさておき、肩の高さにも左右のブレがなく、美しいほどぴっちりと真っ直ぐに天に向けて燈篭を捧げる一個の生きた直線、とでも表現できようか。


 上記におおまかな像容を示したつもりではいるのだが、天燈鬼は「動」、龍燈鬼は「静」を示していると一般では言われている。阿吽の対比から見ても、そのような意図を持って制作されたと見てまず間違いはなかろうと思う。しかし個人的には龍燈鬼のほうにより多くの動きと思惑、セリフを感じ取ることができる気がしていて、好きだ。「飼いたい仏像ナンバーワン」を挙げるとしたら、他の追随を許さずぶっちぎりの一位になること間違いなし、である。
 
 そういえば、「鬼のパンツはいいパンツ」という唄があったような気がするが、どの鬼が履いているものであろうか。龍燈鬼のふんどしもなかなかなものだと思うのだが。

こんな夢を見た。【千鳥唐草】

2005-09-06 | 夢十六夜
潮の香りがする。
私は何をしにここに来たのだっけ。そうだ、友人たちと合宿を兼ねた旅行にきていたのだ。だけど、何の合宿だったっけ、忘れてしまった。

今日は自由行動の日のようだ。適当に散歩をしてみることにした。高校の同級生Aが私と一緒についてきた。海沿いにおんぼろの天守閣があるから、それに登ってみようとのことだ。勿論土足のまま上がり込むのだが、管理も手入れもされていない城の中は真っ暗で、湿気とカビと古い木材の匂いが充満している風通しの悪い廊下を、手探りで進んでいく。適当な破れ目から上がりこんで、一階の廊下を15メートルばかり進んだところで行き止まり、左に向かってまるで梯子段のような急な階段が真っ暗な闇に続いていた。頭に蜘蛛の巣をまとわりつかせながら、私が先頭にたってその階段を登ってゆく。

本当なら怖がりの私だから、真っ暗なうえに安全性も覚束ないこんな場所を積極的に探検する趣味は持ち合わせていない。だけど、確かに私は「この場所を知っていた」。友人を道案内する気分で、階段を登り、明確な意思を持って三階へと向かった、ような気がする。

三階には、恐らく金襴のふすまでそれぞれ隔たれていたと思われる大広間がみっつ繋がっていた。それぞれの部屋は十畳くらいで、ふすまは既に跡形もなく、畳は残っているものの色あせてススキのような色になっているうえ、風雨を凌ぐ雨戸や壁が崩れ落ちているためにしっとりと水を含み、体重をかけるとじわっと足裏に染みる水が気持ち悪かった。今日は快晴だが、数日前に激しい雨が降ったに違いない。
それぞれの間のゆかの高さは同じだけれど、突き当たりの間には床(とこ)があって、僅かに螺鈿細工のきらめきが残るテーブルのようなものがあった。床にはひとつの軸が下がっていた。この城内で見かけた家財のようなものは、そのふたつだけだった。

この奥の間のテーブルを挟んで友人Aと私は斜めに向かい合うように座った。互いが洋装をしていることに違和感を感じた、ように思ったのは気のせいか。
言葉はあまり交わさなかったけれど、二人にとってここが懐かしい場所であり、ようやく帰ってこれた場所であることに違いはなかった。窓の柵や戸だったものは全てなく、海風に揃って傾いた赤松が並ぶのと、その向こう、恐らく崖のようになっている向こうに広がる海と白波がきらきらと、本当にきらきらと目を射抜いて、泣きそうになった。

床にかかる軸は、金糸を混ぜた、生成り色をベースに3センチくらいの赤い尾をした千鳥が並び、間を唐草紋様が少しばかり埋める織物だった。織物の一部分、丁度着物の袖の長さ程度を切り取って、タペストリを和風解釈したのだろうか、軸にしているものだった。細工が特に凝っているわけでもなし、軸装が豪華な訳でもなし、それでも奥の間の床に描けるということは、誰か私や関係する人々にとって大切な人から頂いたものであるに相違ない。だって、先に海を眺めた折にこらえたはずの涙が、この軸を見た途端にもう我慢できずに溢れてしまったのだから。そして、心の中で「お久しぶりです」と呟いてしまったのであるから。


 
 目を覚ましたとき、こんなにも「こちらに帰ってきてしまった」ことを嘆いたことはない。ふたたび、あの場所に戻りたくて、こんなにもあっさりと放り出されてしまったことが悔しくて淋しくて、私は仰向けに寝たまま、涙をとうとうと流した。
そして残念なことに、私は記憶にある限りこんな場所に行ったことがない。だけれど何となく、南のほうの土地だという感覚が残っている。
更に加えるなら、4年近くも音沙汰なかった友人Aから、この夢の数日後に電話を貰った。