月に1日しかない「ノー残業デイ」であるのをよいことに、そして今日は20時まで開館しているのを天啓として、早速『ルドンとその周辺 夢見る世紀末』展に行った。
オディロン・ルドンは印象派の画家たちと同世代だが、その作風やテーマは大いに異なっている。初期~中期は「黒の画家」と呼ばれるように、光の効果を追求したモノクロの幻想的な版画を数多く制作した。わたしの大好きなユイスマンスの小説「さかしま」の文庫版の表紙になっているので、機会があれば見てみてほしい。
黒いルドンはわたしの大好物だが、なぜか「Color」という単語を聞くと、パブロフ反応でルドンを想起する。不思議なことだと自分でも思う。だって、色彩が美しく豊かな画家なんて、ほかにもいっぱいいるはずだから。
この展覧会は、「グラン・ブーケ」と呼ばれるたいそう大きなブーケの絵を収蔵した記念としても機能している。「グラン・ブーケ」は、ルドンが描いた最大級のパステル画でありながら、110年間フランスの城館に秘蔵されていた本邦初公開の作品。見ずばなるまい。
私がルドンを最初に知ったのは、そして、ルドンの唯一の印象として残ったのは、「眼」だった。中学生くらいの頃だったかと思う。
気球のようにふわふわと飛んでいきそうな眼、真っ暗闇からこちらをビシっと厳しく見やる細い眼、何気ない窓の外に妖怪のように現れる巨大な眼球。美しい女性の、勿体無いとつい思ってしまうくらいにきっぱりと閉じられた眼。やけに温和な笑みを湛えるキュクロプス。
ルドンは眼をなにかのよすがにしているひとだ、と思った。
眼が無限の方角へ向かい、人間の知を促進させる。眼が中空に現れ、愚かな我々が知らない”何か”を突きつける。痩せた頬骨の隙間から観客をじっと見詰めるもの言いたげな哀しいまなざしが、何気ない「はずの」日常に向ける疑問という闇をねじこんでくる。
生物学や科学が進み、ダーウィンが進化論を唱え、人智がイケイケだった時代の空気の真ん中に、ルドンは黒い色をした目玉をぽちゃんと投げ込む。目玉は溶けることなく、ギロギロと周囲を眺めながら、周囲の空気に黒や灰色のもやを細々と発信し続ける。
水の表に垂らされた墨の一滴がまるで生き物のように水面を動き回るのについ魅入ってしまうのと同じく、ルドンの黒は思春期の私の心にじわじわと染みをつくり、もはや洗っても落ちないものになった。
一方、色彩ゆたかなパステルは、私を夢見心地にさせる。縦が約2.5メートルもあるグラン・ブーケを支える大きな花瓶は、立体感を無視するようにぺったりと塗られた美しい青色だ。青の洞窟とは多分こんな色なんだろうな、と思わせる色で、それがガラスなのか、陶器なのかも判然としない。ただ、とことん碧い器が溢れんばかりのブーケを支えている。太陽ならぬ天井に届きそうなひまわりを頂点として、黄色やオレンジの花を基調に統率なく生けられた花。孔雀の羽のような色味の花。花。
右手前にはオレンジ色した大輪の花がいまにも、首の重さに耐えかねてぽろりともげている。それによって生じた振動で、ひとつ、またひとつと花が零れ落ちてゆく。空に近いほうでは、光を反射するラメのように白く小さく散りばめられた花がひとつ、またひとつと蕾を開かせてゆく。
規則なく次々とこぼれてはまた、咲いていく。大きな大きな色彩の点滅。
ランダムな色をした生命が生まれ、開き、輝きつつも毀れていく。そしてまた生まれる。
ああ、まるでそれは地球のようではないか。