Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

わたしの知っているリビア。

2011-10-24 | 異国憧憬
わたしはあの国を知ってる。いや、知ってた。日本のメディアが説明する内容とはそれは全く別の国だった。

 わたしがリビアに行ったのは、2001年と2003年だった、と思う。
2001年に行ったときは、日本で既に伝染っていたと思われるインフルエンザが発症して、現地でえらいめにあった。年末だったからもうそれなりに寒いし、熱は39度超えるしで。
英語のできる現地人を連れて病院にいったら、観光ビザの旅行者にすぎないのに、無料で診察してくれて(連れの現地人も払ってないみたいだった)、解熱剤もくれた。帰りに薬局によって、市販の薬をかなり安い価格で、連れが購入してくれた。「医療費はどうしたらいいのか。保険とか?」と訊くと、「この国を見るためにわざわざ遠くから来てくれた人から、どうして金をとる理由があるんだい。この国はそういうバカげたことしないよ。」と連れは笑った。そしてわたしの体に毛布を3重くらいに掛けて、部屋を出てった。

 2003年に行ったときは、トリポリの旧市街老朽化のための復旧工事をしていた。今回、空爆にあって復旧がダイナシになったあそこだ。旧市街の入り口には、それはそれは白くて長い髭が絵になる老人が、募金を募っていた。帰国間近で現地通貨が余っていた私は、10ディナール(850円くらい)を手渡した。老人は、手元のつづりチケットみたいのを10枚ちぎって、わたしに渡した。
身振り手振りで話をきくと、集金したお金と、もぎったチケットの枚数を照会して、くすねることができないようになっているシステムだということだ。日本の募金(※あくまでも一部だが)よりもずっと信頼がおける気がした。いまでも、その募金チケットの半券はわたしの手元にある。

 カフェでまったりしていたとき、広場がザワつきはじめた。カダフィ大佐の車列が通るらしい。どうせなら見てみたいが、どれだけの時間待たなければいけないのか、と思っていたら、10分もせずにやってきた。交通規制は、彼の車が通るほんの5分か10分前。日本とは大違いの警備の薄さというか、豪胆さに驚いた。
警護の車も決して多くなく、カダフィ大佐本人は、窓を大きく開け放って、市民からの挨拶に応えていた。市民は、熱狂的にヒーローを迎えるというのでもなく、日本人が皇室に対してするみたいな、丁寧に敬う感じというのでもなく、むしろもっと親しげに、うまくいえないが、スポーツとか政治とかの地元密着型のアイドル(?)を迎えるみたいな、イェーイという明るい歓迎に包まれていた。独裁とはいえ直接民主制だからなのか、リーダーと国民の距離がやけに近しいなあ、と思った記憶がある。


 あの、あったかい国の風景はもう、ない。
ホームレスが居なくて(国が家をくれるから)、酔っ払いがいなくて(酒は禁止だから)、外国には珍しく、お散歩し放題だったあの国はなくなってしまった。

 今後のリビアがわたしが好きだったあの頃の治安と経済力を取り戻せるには、ものすごく沢山の障壁がある。
千葉県ほどの人口しかないあの広大な国が、もっと小さく分裂することも大いにありうる。
地図をみなくても歩けるトリポリのスークを、背後に気を使うこともなくフラフラと、もういちど歩きたい。


【参考】
-- カダフィの真実を知ってほしい  リビア 新世界秩序 NATO http://www.youtube.com/watch?v=aggieI4YAVw&feature