Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

とんびにあぶらげ。

2009-01-30 | 徒然雑記

 冬も真っ盛りというのに、なぜかとんびに追いまわされるといういやな夢をみた。


 そういえば、とんびにあぶらげとはよく云うが、どうせあぶらげをかっさらっていくのならば食い散らかさず上品にぺろりと持って行っていただきたいものだと嘆息する。

 とんびは専らかなり高いところを飛び回る鳥で、あぶらげを食う人間どもとはけっこう離れて生きている。そんなとんびが「わざわざ」低いところまで降りてきてあぶらげを狙おうとするんだから、あぶらげってのはほんとうは余程美味しいものなのかもしれない、と思う。
いやいや、いくら理屈を並べたところであぶらげはあぶらげだ。おいなりさんを包むか、安い和定職の味噌汁にひときれふたきれ浮いているだけの、汎用性が高くてメインディッシュには到底なり得ないあれだ。精進料理には肉に見立てることもあるようだが、とんびにとってもかなり「肉っぽい」気がするのだろうか。
でも実際のところ、あぶらげを素で持ち歩く習慣は現代においてはないし、海岸でハンバーガーをさらわれるデート客のニュースをたまにテレビで見る程度だ。年間につきひとつの街でどれくらいのあぶらげがさらわれれば「とんびにあぶらげ」の言葉が生まれるまでになるのだろうか。


 と、あぶらげととんびについての考察を一通り終えたところで、ふたたび嘆息する。
人間の手の及ばないところからひゅるると降りてきて身軽にあぶらげをかっさらう後姿を見れば、いくらとんびに悪気がなくたって、「馬鹿にすんな!」と云いたくもなるだろう。たとえそれがヒレ肉じゃなくてメインディッシュにもならないあぶらげだったとしたって。
 だって、人はどんなに頑張ったって飛べなくて、けれど空にあこがれる気持ちを捨てきれずにいる。だからせめて、跡形もなく奪い取っていってほしいものだ。指先に残るあぶらげの残り香すらぜんぶまとめて。


 「飛べないよなあ。」
 会社の屋上に続く階段に座り目を閉じて、ある日の屋上から見下ろした街のすがたを思い浮かべる。
タイミング悪く鳴った携帯を床に叩きつけると、ころんころんとこれまた可笑しげに跳ねながら、階段下まで転げ落ちていった。
手持ち無沙汰になった私は壁を蹴りつけたが、膝に響いてばかばかしいくらいに痛かった。






こんな夢をみた【16】。 - 空飛ぶ広告媒体 -

2009-01-26 | 夢十六夜
 その日私は同僚のイトウと一緒に札幌出張に行くことになった。
現在継続中の案件で提案するいくつかの広告媒体のデモを見にいくためだ。
「東京まで郵送してくだされば」との依頼に対して「いや、なかなか送りにくい媒体なもので、不躾なのを承知で札幌までご足労いただきたい」との広告屋の回答だった。
根っからの寒がりな私はイトウになだめられつつもぶつくさと札幌へ向かうことになった。

 これまでメールと郵送でしかやりとりをしていなかったその広告屋は、強いて云えば地方の古めかしい総合病院のような佇まいだった。無機質な白い外壁に、ところどころ蜘蛛の巣が張った蛍光灯に照らされた小さな看板。東京の大手広告屋の風情に慣れ親しんでいた我々は、この会社の本業は別にあるのではないか、と疑ったほどだった。


 程なく我々が通された部屋は実験室のような部屋で、壁の片側には何故か中学校のグラウンドにあるような緑色のネットが垂れ下がっており、我々は、ダルマストーブをよけながら、脱いだコートをどこに掛けるべきかと辺りを見回した。
「今お持ちしますから、お荷物は『そのへん』にどうぞ」との言葉で、手で促された方角にある長机の上にコートやら荷物やらを並べて、ぽつんとふたり立ちっぱなしのまま部屋に取り残された。
イトウと私は顔を見合わせて、互いの目で「だいじょうぶかよ、ここ。」と云った。


 「すみません、お待たせして。」
息の切れた声に振り向くと、担当の男性が大きなダンボールを抱えて、ドアを腰で支えるようにして部屋に入ってきた。その箱を小さな実験机の上に置くと、「じゃ、早速ですがお見せしていいですか。」と問うた。「ええ、お願いします。」と答えると同時に、男性はにっと笑ってダンボールの蓋を開けた。その途端、箱の中から灰色がかった薄青いものが沢山舞い上がってきて、部屋に舞い散った。

 クラッカーでいたずらをされた気分できょとんとしていると、男性は「どうぞ近くでご覧下さい」と私の背を押して壁にかかったネットのほうへ誘った。ネットには薄青い蝶がたくさん、羽をゆっくりと開いたり畳んだりして止まっていた。うち一匹の羽を男性が指できちんと開くと、その羽には広告を依頼したロゴとコンセプトメッセージが転写されていた。ようやく私はそこで事態を把握した。

「蝶は羽を畳んで止まるといいますが、なぜ羽の内側に広告を?」私は訊いた。
「それは懸案事項のひとつでした。外側のほうが確実に人の目には触れやすい。けれど、天敵にとっても目立つことになるので、長いこと広告生命を維持させることができにくいのです。だから、天敵に目の触れにくい内側に転写し、且つ止まっている際に比較的羽を開く習性を持つ種の蝶を選ぶことで最大効果を得られるようにと考えました。」眉間に軽く皺を寄せて、男性は答えた。

「この蝶は普通のものと同じくらい生きられるんですか?」イトウが訊いた。
「はい。転写は燐粉自体に行っていますし、重い塗料は使用していません。ですから飛ぶことに対するストレスは殆どないはずです。」今度は誇らしげに男性は答えた。
 
「この蝶を、例えばドームやイベント会場などの閉ざされた空間で解放することで、狙うべきターゲットにインパクトのある伝達が可能です。その場合は、羽の目立つ側にプリントすることもできます。一方で、広く空に向けて放つのは蝶が人の多いところを避けるせいで効果を減退させます。また、広告面積上、詳細な情報を含む長いメッセージは向きません。むしろブランド広告に適していますね。」
ううむとイトウと私は黙って頷いた。



「本当ならひとつサンプルでお持ち帰り頂きたかったのですが、飛行機ですからね・・・」と男性はひどく残念そうに首を何度も捻りながら、退出する我々を見送った。







不愉快な生存報告

2009-01-25 | 徒然雑記
「人の気も知らないで・・」がどうやら最近の口癖だ。
そもそも独り言を言わない性質だしテレビにツッコミを入れることもまずないので、自分が聞かせる相手もないままに何かしらの言葉を呟くということ自体が我ながら興味深い。

 特に誰か特定の人物を脳裡に思い浮かべながら呟いているわけではない。しかしなぜか、ひょんなきっかけで口に出したこのフレーズの気分とリズム感が妙に気に入ってしまったために、近頃は呪文のように、時には心の中だけで呟いている。

 ブログの更新が滞っていたことには複数の理由(言い訳)がある。
現実的に仕事が忙しくて、執筆する時間の余裕がなかったこと、それよりもネタを思いつくだけの脳みその余裕がなかったことが最も大きい。加えて、種々のストレスの閾値付近をふわふわと漂い続けていたせいで、ものを思うとか感じるとかいう機能を半ば意図的に凍結させていたことによる。意思がぼんやりしてケモノに近くなる休日の寝起きなんかに、うっかり「ああ今日もこうして目覚めてしまった」だなんて涙を流しては、慌てて脳みそを叩き起こして自分を乾かす。

 こんなにも、容赦なく仕事が忙しいことが自身を保たせてくれるものだと実感したことはない。仕事の中に自己の存在を確認できているうちは、迷子にならなくて済むだろう。人が迷子にならずに生きるために必要なものは、愛とかカネとか幸せとか色々あるものの、それにもまして自己の確認が最前提であることを、昨今のリストラ三昧のニュースや自身の感慨に照らして実感する。


人の気なんか知ることもなく、時間は毎日着々と進んでいく。
人の気なんか知ることもなく、ゴマンという生活が営まれ、壊れていく。
社会は不平等と言う点において平等だから、諦めて生きていける。