冷たい風の下、コートの胸元を左手できゅっと合わせた、ひとりの外国人と擦れ違った。
擦れ違いざまの一瞬、ビジネスマンと思しきとても背の高い彼は、竦めていた首をすいと上げて三越のエントランスに飾られているクリスマスツリーを見上げて僅かに微笑んだ。静かなその微笑みは、宗教や文化を異にする日本人には決してできないであろう柔らかさに満ちていた。その眼に映るツリーの向こうに浮かぶのは、信仰か、あるいは家族のだれか、それとも。
赤の他人の心を揺り動かすことができるほどの個人的な微笑み。ほんの一瞬の出来事であったにも拘らず、わたしは確かに少しだけ幸せな気持ちになった。
自分自身のことでなく、大切な誰かのことでなく、愛らしく見えるなにかのことでなく。
それ以外のなにかを見、思うことによってこれほどに柔らかな笑みを湛えることを、人はそう頻繁にはきっとできない。その人の人生の根幹や思想などの諸問題に密接に関わるなにかがその笑みをもたらすものであろうが、それほどに自身と密接ななにかが、自分そのものやそれを取り囲む人間、および大多数共通に「愛らしい」と認識させるもの(子犬のころころした感じや、赤子など)以外であるという条件がきっと難しいのだ。
わたしは必ず、美術と(特に、自分の心を激しく揺さぶる作品と)出逢ったとき、あるいはそれを思い出して語るとき、きっとツリーを見上げた彼と同じような顔をしている。なぜなら、そのさなかの何ものにも替えがたい悦びと情動、安堵は、ほかの何によってもたらされるものとも異なって強烈だからだ。その確信は、彼が見たのと同じツリーを見てふっと頬を緩ませることができないわたしの心を和らげた。
人はそれぞれ、きっと個人的な微笑みを少なくともひとつずつは持っている。
それらはてんでばらばらに点滅するから、全くツリーの様相を呈さないだろうけれど。