Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

暫しの帰省。

2004-12-28 | 徒然雑記
 明日より暫く、年末年始を久々に実家にて過ごして参ります。

年が明けましたら、気分一新でブログタイトルを変更しようかとも考えています。
ご希望フレーズ募集します。
私の想像力を超えるいいものが出てきたら採用させて頂くこともあるやも。
その節は、何かお礼をせねばいけないかしらね。

 
 八重梅の 咲くが如くに しあわせを
  
        重ね包みて 花とせましを



皆さま、よいお年をお迎えくださいませね。

書を描きたい。

2004-12-27 | 徒然雑記
 この季節になるといつも思う。
筆と墨を使って、上手に字が書けたらと。私は、毛筆がへたくそである。

平安の頃、文字のことを「手」と呼び、顔を見ることの叶わない相手との文の遣り取りから相手の心ばえや教養、性格を読み取るものとして大層重要視されていた。書は、その人柄を一身に背負ったかくも大事なものとして重要視されていたわけだ。
また、「葦手書き」という、字を変形させて絵と合体させる美しい文字アートもあった。

中学生の頃、私は字がへたくそだった。兎に角思考のスピードに追いつけるくらいに速く書くことを優先していて、読める程度のものではあるけれど、丸字という訳でもなくひたすら乱雑な字であった。
同じクラスに、いまひとつ仲良くなれない女の子がいた。別に美人でもなく、怜悧でもなく、思い遣りがあって優しいのでもなく、面白いことを云うのでもなく、そういう人だった。しかし、彼女の書く字は特に美しく、品がよかった。
私は彼女より賢かったし、彼女よりは自分のほうが多少なりと可愛いし、優しいだろうと思っていた。多分それは事実であったと今でも思う。だけれど、彼女の字の美しさだけで、私は「負けた」と思ったのだった。

それから、字の特訓が始まった。
小学生の頃に使った「漢字書き取り帳」を買ってきて、教科書にあるようにはねる、止める、払うを丁寧に、くっつけるところはきちんとくっつけて、決して字は崩さずに、思いつく字を順番に書いていた。授業のノートをとる速度は格段に落ち、その代わりに字は大きく、追いつく限り丁寧に書いた。それを高校最初の1年間続けた。
2年目になってから、ちょっとずつ字を速く書くようにしてみた。急げば、字は崩れる。不思議なことに、特訓前の自分の崩し字とは全く性格の異なる崩し字が生まれてきた。おまけに、苦手だった縦書きのほうが上手になり、横書きのほうがへたくそに見えるようにもなった。

美しく崩された字からは、教科書やPCのフォントでは決して生まれないリズムが生まれる。固定されない字の大きさのバランスや改行によって。また字のひとつひとつからは、性格が滲み出る。

コドモの頃の私は、その字が示すようにせっかちで、乱雑だったのだと思う。中学生になって美術に触れ、美術の道を目指したいと願うようになったからこそ、字の持つ機微や繊細さに気付いたのだと思う。そして美や文学を至上の心の餌として喰ってゆくようになってから、私の字はようやく一変した。決して模範的に美しい字ではないけれど、私の神経質さと自分勝手なリズムや心の起伏、薄暗い湿気のようなものをうまいこと反映した字になってしまったものだとは思う。

ペンや鉛筆では表現し得ないかすれや墨の衝動的な濃淡を表現することがもしできるのならば、照れくさくて、また儀礼的にうまく回避した心の声をそこに表現することも可能なのかもしれないと思うのだ。文字で表現できない更なる何かを。
だからいつか、筆と墨で文を描けるようになりたいのだ。

闇のパレット。

2004-12-26 | 徒然雑記
 美しい女性に出会った。
クリスマスで賑わう銀座も、一歩裏に入れば人通りはまばらだ。店の制服や作業着を着ている人と多くすれ違う裏通りに、その人はいた。
部分的に束ねられた、艶やかに流れる髪がひときわ目をひくその人は、チャコールグレーのツイードコートを着ていて、首元からは華やかな藤色の花柄スカーフがふうわりと空気を含んで咲いていた。淡い薔薇色の口紅と、しっとりとしたモーヴ色が瞼をシルキーな光とともに控えめに彩っていた。

ビルに囲まれた日陰の裏通りにあって、そこだけ光を得ているようであった。彼女の脇にはベージュのコートを着た男性が寄り添うように歩いていたのだが、彼女の光に隠れてしまって、最初はその男性が居ることも気付かないくらいの静けさであった。

 すれ違いざま、彼女の持つある特別な物体に目が釘付けになった。
彼女は、白い杖を持っていた。
まるで日傘を持つように優雅に、鞄を提げるように自然に。

今思えば、彼女が常に目を閉じていたからこそ、そのアイシャドウの色があんなにも私の目に焼き付いたのだと。
そして一瞬のうちに、彼女は連れの男性と静かに語らいながら、すれ違っていってしまった。

彼女は、自分が美しいことを知っているのだろうか。
そして人目を引くほどに優雅な装いをしていることに気付いているのだろうか。

「・・・今日はクリスマスだから、お出掛けをしよう。雲も殆どないし、いい天気だ。
チャコールのコートが暗くなりすぎないように、藤色のスカーフを今日は選んでみたよ。だから、それに合わせて瞼には淡いワイン色とすみれ色の間の色にしてみようか。口元は少し明るめでシックな感じにしたら外出には丁度いいね。
 髪はアップにまとめてしまうかどうか悩んだんだ。だけど、上げてしまうと華やかになりすぎるし、全部下ろしてしまうと顔が暗くなってしまう。顔に髪がかからないように部分的に止めてしまって顔をすっきり明るく出して、残りはそのまま後ろに流してしまおうと思うんだけど、どうかな?」

男性が彼女に色を与えてゆく。季節に合わせて、場に合わせて、美しい彼女に色を添えてゆく。
目を閉じたままの彼女の顔に、服に、彼女が理解し得るかどうか判らない色あわせを説明しながら、丁寧に。彼女は全面の信頼をもって、身体と顔を彼に差し出す。まるで笑顔で首を預けるかのように。
日の当たるリビングに午前の陽が指す。光の中で闇を見詰めたまま、闇の中に住まいながら、身体の最も表層部に光と色とを纏う行為。破れない壁を叩き続けるその行為は、滑稽さを打ち砕くばかりの儀式めいた神聖さを伴う。

美が普遍的なものであるとするならば、且つ個人的なものであるとするならば、美を追求する滑稽さなどありはしない。
闇と光に分かたれた彼等に幻惑された私は、しばし淡い白昼夢をみた。

手元フェチの苦渋。

2004-12-24 | 物質偏愛
 寒い。寒い。くしゅ。
筑波山から吹き降ろす風での体感温度は2度から3度。静岡~東京と住処を徐々に北上させてきた私だけれど、ここ茨城は私にとっての最北端。経験知外の寒さにひよっこの私の足指にはもう霜焼けができている。

そして今日、とうとう買ってしまったのだよ、手袋。
何故にそんなに厭そう&悔しそうに云うかというと、今まで兎に角この手袋というやつを毛嫌いしていたからだ。ロンググローブとかシルクの手袋などは私のフェティッシュ心をくすぐるアイテムではあるけれど、脆弱なシルクの手袋を身に着けてゆく場なんて思いつかないし、ロンググローブをするからには、半袖かノースリーブを着ていなければならない。いずれも防寒という庶民的な必要性に対処する必要のない暮らしの方々がご利用になる代物である。故に、寒くて困っている私がそれを身に付けるわけにはどうにもいかない。
 
さて、何ゆえ手袋が嫌いかといえば、理由は簡単。
ウール手袋= 持っている物の感触が判らない。持っているものを取り落としそうになって不安。毛玉が厭。
レザー手袋= フィットしないので動いてもぞもぞする。指輪をどうしていいか判らない。

帯に短しなんとやら、である。
フェティッシャーにとっては、手元と足元は外せないところである。今そこで頷いている貴方、そうでしょう?
靴はその縫製とフォルムのみならず、靴底のメンテと磨きの手入れが最重要。手元は短く切り揃えた爪に、傷やムラ、剥げが決してないように常に爪紅は丁寧に。そして指輪をし、時計をはめる。
これがフェティッシャーとしての私の習慣であった。

今年から、これに手袋が加わることになった。フェチアイテムとしては、ウールを選択する訳にはゆかない。あくまでもレザーである。きらきら光沢があるのは気恥ずかしく、スエードのしっとり加減と手首のふわふわ、そして若干長めのシックな丈とを良しとして購入を決心した。心が決まるまでおよそ30分ばかりあれこれと試着を繰り返しつつ右往左往して、まるで挙動不審だったことは反省しきりであるが、きっと眉間に皺を寄せて真剣に選んでいる姿には店員も声を掛けられまい。

世の中の人々は、重量感のある指輪をしているとき、手袋をどのようにするのだろうか。
私は、指輪を他所で外してしまうと失くしてしまいそうで怖くて、手を洗う折でも外せない。ましてや手袋をはめたり脱いだりするのは室内で落ち着いて椅子に座った状態などではなく、屋外で立ちっぱなしか歩きながらだ。そんな状態で指輪を外して、うっかり落として側溝になぞはまってしまったら泣くに泣けない。故に私は手袋をするときにも指輪をしたままになる。ならばいっそ指輪をしない、という解決法は存在しない。手袋を脱いだときに淋しくて心許ないからだ。

帰り道での手袋は、左手の人差し指と薬指が不自然な指輪の形をトレースしていた。
誰か、素敵な手元の彩り方を私に教えてはくれまいか。
この冬を越すために。



暗闇クリスマス。

2004-12-20 | 徒然雑記
 クリスマスですね。皆さま。
ご準備のあるかたないかた、ご予定はそろそろお決まりのことでしょうか。
因みに私は25日の土曜日まで無粋にも終日授業でございます。どうでもいいか。
とはいえ、師走の初日から25日まで、休日返上授業地獄だったもので、満足に更新もできずに僅かばかりの読者の方々にはご迷惑をお掛けしたことを謝罪。

数年前からだろうか、「我が家飾り」が流行りはじめた。正式名称は判らないが、ご自身の一戸建ての外観をキラキラゴージャスに飾り立てるあれである。東京や神奈川あたりから火がついて、今年は千葉の一部で大盛り上がりを見せているらしい。
ほぅ、では我が家の近くも希望が持てるか知らん、と思って、人の運転で界隈を巡回して貰った。

・・・真っ暗である。ひたすらの闇である。
美しくライトアップされているのは、国土地理院の見慣れた大パラボラ。嗚呼、不思議と優雅なり。

繁華街もなし、新興住宅街は小規模でまばら、郊外は農家の立派な門構えと瓦屋根。
これでは、飾り立てる場所も見てくれる観客も、確かに限定されるに違いない。
東京に住んでいた頃は、毎年リースなり人形なり、何らかの飾りをマンションのドアの外に掛けていた。今年もそうしようかなと思ったが、街中に堂々と「スリ、引ったくり、車上荒らし、空き巣に注意!」とあっては、おちおちドアの外を飾っている場合ではない。飾る以前に、二重三重ロックにするとか、センサーを付けるとか警報機を持ち歩くとか、もっと他にすべきことがありそうな気がする。それに、朝になって折角の飾りがもし無くなっていたとしたらそれなりにショックであるに違いないし。危険極まりない。やめよう。

クリスマスまで残すところ10日というところで(イベント賞味期限をぎりぎり過ぎたあたりで)意を決して買出しに行った。部屋の中できらきら光ってくれるツリーとオーナメントである。
暫く、というより15年以上もツリーなるものを飾っていなかっただけのことはあって、子供の頃に見たようなものからは著しく進歩し、かつ安価になっていて驚いた。そして助かった。
友人に聞いたところ、今流行りだという白(クリア)のグラスファイバーが前面をそれなりに覆っているうえ、三色にチカチカと色変わりするダイオードまでご丁寧についている。昔のようにコードが別でないのでツリー自体を、そしてとりどりのオーナメントを邪魔せず、粋である。

起床してから家を出るまでの間、そして帰宅してから床につくまでの間、ひたすらきらきらさせている。
夜間にはどうしても、閉じた瞼の裏にきらきらがちらつき、まるで火事を彷彿とさせて気になって眠れない。うっかり眠ってしまったら大変な夢でも見そうなので、しぶしぶ消して寝ている。

ご近所が真っ暗になる頃、私の部屋の窓からはきらきらした明るい光が漏れている。
ほんとうは、真っ暗なご近所全体を彩ってしまいたいけれど、それもできないから、窓のカーテンをほんの少しだけ開けている。

見えるかな。

東大寺(金剛力士[仁王]像)vol.2

2004-12-14 | 仏欲万歳
 さて、仁王像の役割と通例が判ったところで、今日は東大寺南大門に住まう彼らの相貌、印象に移る。本来、この主観的部分を徒然雑記の肝としているので、本編が二部に分かれてしまうことをどうぞご容赦願いたい。

 東大寺の仁王の突出する点は、とにかくその大きさ。それを収める箱である南大門が一層大きいわけで、門を通過する我々をほぼ真上の至近距離から見下ろす迫力といったらどうだ。
造形という点では、興福寺のそれ(写真)のほうが優れていると思うのだが、それは等身より少し小柄なサイズであるからできること。それを巨大に拡大すれば東大寺の仁王が持つパワーを有するかといえばそう簡単ではない。

そのサイズと我々が見上げる距離、角度を計算して人体のパースが意図的に歪められているのである。要するに、頭でっかちで胴長短足なのである。ほぼ角度のない、真下に近いところから見上げる場合、正しいバランスで作ると8m先の頭部は小さくなる。上半身も遠く、真横から見るよりは華奢に見えるはずだ。しかしそれではどどんとした迫力が失われてしまう。ゆえに頭は大きく、顔のパーツも派手に大きくなる。胴の長さに至っては、作成中にも試行錯誤を経たらしく、へその位置が最初に予定したよりも下のほうに(胴がより長くなるように)修正されているのである。見上げられることで威厳を増し、片手をかざし、あるいはくわっと口をあけて見得を切り続ける最強の守護神は、大胆かつ繊細な計算し尽されたバランスの上に今も立ち続けている。

 仁王像が現存している寺においては、中門や南大門とともに本来の役割を担うかたちで居ることが多く、その姿はかなり当初のあり方に近いと考えられる。しかしそれから数百年を経ている現在では、廃仏毀釈や仏堂の消失、あるいは仏像の寺から寺への移動(流浪?)などによって、仏像たちが本来のお堂に居なかったり、本来の組み合わせと異なった状態で配置されていることも多くある。(阿弥陀三尊が揃っていてもサイズのバランスがおかしかったり、時には脇侍の組み合わせが違っていたり)。また、仏像が「美術品」ではなかった時代と現在とでは、照明の種類や当て方が異なっているであろうし、より見よい状態にする為にかつてよりも低い位置に置かれていることもあるだろう。
 
 少しばかり知識のある人が見た場合には、バランスがおかしい=本来の組み合わせではない、人体のパースが不自然=本来はもっと高い位置にあったはず、等等々、現在の「場」と仏像本体との関係性や拝観者との位置関係などから些細な情報を得、そこからその仏像が昔々に置かれていたであろう当時の「場」を推測することもある程度は可能だ。お堂にあるからといってそこが彼らに本来意図された場であるとは限らず、そのことはあまり重要視されているとも思えない。

 そこで、それぞれの仏像が本来持っていた空間構成、場というものが正しくはどのようなものであったか、それがどれだけ現在に不完全な形で残っているにせよ、それを想像する手掛かりのようなものを見る人々に提供することができれば望ましいのに、と思ったりする。それはミニチュアであれ、ジオラマであれ、デジタル3Dのようなものでも構わない。現在は失われ、二度と戻らない彼らの場を追体験するひとつの仕組みとして、仏像単体の細部や建造物の構造などの詳細に終始する模型ではなく、また平城宮のような実物大の復元でもない、仮想空間体験&情報提供システムがあったら素敵だろうなぁ。


東大寺(金剛力士[仁王]像)

2004-12-12 | 仏欲万歳
 日本で最も有名な仏像ランキングベストテンには恐らく食い込むであろうかと想像される東大寺の仁王像を今日まで放っておいてしまった。
日本史の教科書もしくは資料集、そして修学旅行などで実物もしくは写真を見たことがない人というのは殆ど居ないのではないかな。記憶を掘り返すことができるだろうか。

以下にそのありようを述べるので、なんとか映像を脳裏に再構成して頂きたい。
東大寺の参道を歩いて最初に迎えてくれる、ちょっと色はげの目立つ巨大な門が南大門。この中に仁王のおふたりがおいでになる。門の石段を登り、さぁ敷居を跨がんとするときに、背中に突き刺さる視線を感じる。呼ばれるように振り返ると向かって右に吽形が、左に阿形がどどんとこちらを睨み付けているという位置関係だ。

さて、ここで日本で最も有名である東大寺の仁王が、通例ではなく例外的な配置をしていることに触れておく。
1)通常は、参道を歩いてくる参詣者と目が合うように、二体の仁王は正面向きである
2)通常は、右が阿形、左が吽形である
3)通常は、こんなにどでかくない

東大寺の場合は、1)対面(向かい合わせ)配置、2)阿吽左右逆 3)とにかくでかい(8m以上)。
他にも対面配置や阿吽の左右逆の例が皆無である訳ではないが、東大寺よりも古い作例は現時点では見られていない。

仁王の役割を考えれば、通常正面に向いて配置されている意味は明らかである。仁王は所謂社寺のガードマン。邪な心を打ち砕く為に視線で参詣者の心を脅し、浄化する役目を負っている。んればこそ、参詣道を睨みつけ、歩いてくる参詣者をぎろりとひと睨みしている訳なのだ。通常、左右の仁王の目は参詣道の中央に寄っており、二体の視線が交差する位置が必ず存在する。その位置こそ、参詣者が視線を感じてふっと顔を上げてしまう場所なのである。

東大寺の仁王が対面配置である明らかな理由は残念ながら照明されていないが、恐らく「でかすぎたから」ではないかと推測される。もし正面向きにしたら、どうなるか。
正面向きにするには、仁王が位置する門の、仁王の前面の壁をとっぱらってしまわないと、参詣者に仁王を見せることができない。なれば、あの巨大な南大門の左右の壁を、それぞれ高さ9メートル、幅4~5メートルもぶち抜くことができるだろうか。そして、それだけ大きく開いてしまう空間に吹き込む雨風から仁王を守る為の屋根を深く下ろしてくることは可能だろうか。
・・いかにも、強度と耐久性に不安がつきまとう。
恐らくそれ故であろう、仁王は対面配置となって、参詣者が門を今まさに潜らんとする敷居のふもとで視線が交差するのである。背中に突き刺さるように厳しく見送られる圧迫感と威圧感は対面配置ならではのもの。

 鹿がたくさん居てちょっとばかり邪魔臭いけれど、次に訪れるときにはきっと、左右の仁王の視線がぶつかる一点で、双方の仁王に挨拶してきて頂きたい。
因みに、私は右の吽形が好みだ。

(※仁王のディティールについては、次号に持ち越すことにする。)

プラネタリウムと砂漠の夜。

2004-12-10 | 異国憧憬
 授業のあと、いい具合に暖かくなってきたので、ちょこっとチャリを走らせてプラネタリウムに行ってきた。
プラネタリウム。なんてノスタルジックな響き。リンク集などもあって、よくよく見ると全国各地にまだ結構な数で残ってはいるのだけれど、勝手な印象では絶滅危惧種?のようなものだと思っていた。
でも、ある意味、プラネタリウムは広大な宇宙への夢を与えてくれるその特殊なパワーのようなものを失いかけている。バーチャルな空間や3Dのアーカイブなどの台頭によって。
それ故か、私を含めた今回の客は、たったふたりだけだった。

 それでも、たったふたりの客を前にして、プラネタリウムはいつも通りの熱心さで、お兄さんとお姉さんの掛け合い(馴れ合い?)台詞で進んでいった。中央より少し後ろの列に陣取り、上着を毛布のように首から掛けてくつろぎ度も満点、リクライニングシートを倒すと同時にドームは真っ暗になる。

オリオン座の「巨人の脇の下」ベテルギウス、「巨人の左足」リゲル。低い空に一際白く明るいエジプトの洪水星、おおいぬ座のシリウス。「涙を流す瞳」鹿に変えられた主人を探す子犬座のプロキオン。
星が見にくい東京に慣れてしまって夜空を見上げることが減り、星たちのそれぞれが名前を持っていたことを忘れていた。子供の頃、一生懸命覚えたというのに。 

 記憶に蘇ったのはサハラ砂漠
リビア国土の9割を占めるサハラの奥のそのまた奥へ、旧式ランドクルーザーを駆ってゆく。道もなければ明かりもない。建物もなければ人も居ない。ひたすら、闇の中へ。厳しい自然のふところへ。

夜になり、月が昇る。
月明かりだけで、砂地に影が落ちる。光は淡く冷たく、柔らかい。
ここまで連れてきてくれた運転手である砂漠の民とともに、砂地でチャイを沸かして飲みながら、車のボンネットやポリタンク、果てはサンダルまで、音の出るものなんでも叩いて歌い、そして踊る。疲れきるまで。
私たちのくるくる廻る影が、砂地に伸びていた。

日が出るよりも前に月は沈み、徐々に私たちは闇に溶けてゆく。

度近眼の私の目に、こんなにたくさんの星が見えるだなんて、只事じゃない。
プラネタリウムを凌ぐ、地平線ぎりぎりまで続く星空。空に散りばめられているのではなくて、空を隙間なく侵食するかのように埋め尽くす星明かり。明るい星を選んで星座に繋げてみる試みなんてことごとく失敗するほどの星空。
柔らかい砂のベッドに寝転んで、朝日が昇るのを悔しく思いながらいつまでも眺めた。空までの距離も判らなくなり、地面の感触も判らなくなり、時間を悠久のゆったりさに錯覚する。ただ、広い中空に自分が浮かんで溶けて漂い、願わくはこのままこの輝かしい闇に消えてなくなってくれと望む程の充足。

 あぁ、サハラに還りたい。
地球上でもっとも美しく、もっとも厳しいあの光景の中へ。


トリ(鶏)といえば若冲。

2004-12-09 | 芸術礼賛
 そろそろ、暮れも押し迫ってきましたね。(まだか?)

この時期、年末ならではの独特の慌しさが個人的には苦手だ。お歳暮、賀状の準備をしている間に世間はクリスマスだって騒ぎたて、とはいえ騒ぎに取り残されるのも癪だから、暇を見つけて銀座のイルミネーションやツリーを眺め遣りつつお散歩をしたりもせねばならない。年末のアメ横は、一度もみくちゃにされてぼろ雑巾のようになった経験があるので、別にもう行かなくても宜しい。あと、年末年始は銀行が閉まるから、少しばかりの手持ち現金の準備をしないとえらいことになるし。
そんなこんなで、文字通り駆け足で年が暮れてゆく。

今年は少しばかり余裕を持って、賀状の準備をしている。来年はとり年らしい。トリ、特にニワトリと云えば、伊藤若冲である。ニワトリの下絵を描くにあたって色々なものを参照してはみたが、目的を忘れて若冲の絵図に見とれる始末。お陰で下絵描きは昨夜、深夜まで及んだ。

 色絵、墨絵ともに、数多くの鶏を若冲はまるで実験のように描いている。
色絵のものは色鮮やかでとさかはすっくと威厳を持って立ち、背中の羽や尾羽を少し逆立ててさえいるさまは、まるで観る者を威嚇せんばかりの筆勢。ここで食用の鶏を想像してはいけない。観賞用、もしくは闘鶏用のそれが、絵から滲み出る存在感と生命力には相応しい。間違っても、ちょいと捕まってくいっと首を捻られてしまうような輩とは同じでないのだ。

 墨絵のものは、打って変わって、触ればふわふわとした羽毛がこちらの指先を温かく包んでくれそうなまぁるい柔らかさに満ち満ちている。デッサンを試すように様々なアングルで、六曲の屏風それぞれの板にちょこんと鶏が「居る」。愛想のない墨を、高度な技術を用いてあでやかに変貌させる術に若冲は長けていた。ぼかしやたらし込みの技法によって柔らかい羽毛が重なる部分を輪郭線を用いずに表現する。そして最も長く硬く、男性的な生命感を体現する尾羽には、水を殆ど含まない濃墨で筆先の勢いやかすれを残しながら一息で描きあげている。一方、筆をまったく置かずに真っ白な生地を生かすのはほわほわの胸の羽。早春の淡い光を受け、影さえささない白い羽毛が密集しているさまが見れ取れるわけだ。

 若冲の天才ぶりはデッサン力と技法の習熟だけではない。
百犬図」や「動植彩絵」に見られるように、美的というよりは実験的、図鑑的要素を多く含む、あくまで個人的・主観的な何らかの観念に拠って描かれており、その彼ならではの観念が容赦なく我々の胸に突き刺さるのである。折々に絵画から発せられる、「これ、凄いでしょう」「これ、綺麗でしょう?」といった媚や計算がない彼の個人的欲求と満足が、狂的な微笑みが至るところから垣間見えるのだ。
そして、私はそれだからこそ彼がどうしようもなく好きだ。

 私の描いた鶏は、どことなく痩せていて神経質そうな、ちょっとだけ貧乏臭い感じに仕上がった。
若冲の塗り絵なんかも販売されているらしい。絵がどのように描かれているのかを知るには画期的な手段である。500円でお釣りがくるので、やってみると新たな発見があるかもしれない。