Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

来世予報。

2006-01-06 | 徒然雑記
「マユさん、そろそろ人間飽きたでしょう?」
「あぁ、わかる?」

端から見たら、おかしな話だ。話が通じていることすらおかしい。
人間に飽きるもなにも、私は対人拒否している訳でもないし、新しい思索や哲学を開花させる気も毛頭ない。
しかしながら、なんとなく、本当に「なんとなく」としか云いようのない感触を持って、かねてから「私は今回で人間が終わりだろうな」という意識があった。かといって、コレでおしまい、ということではない。ケモノでもなく冷たい物質でもない、何かちょっとだけ高い位置から俯瞰して見るような感触がぼんやりと伴っている。だけど、それが何なのかは判らないし、何であるか知りたいとも思っていなかった。

「云ってもいいですか。マユさんの次になるもの。」
「いいよ。」
「マユさんは、木になります。」
「木ぃ?」

・・軽くショック。
だって、木に対する憧れなんて持っていないし、木に対する偏愛もない。それなのに、なっちゃうんだ。木に。

「でもね、芽とか苗から始めるんじゃないところがマユさんらしいんです。御神木に飽きた木がどこかにいて、別のものになろうとして抜けたところにスポッと収まるんです。そこがね、ほんとに、『らしい』の。」
そう云って彼女は笑った。
確かに、らしいと云えばそうかもしれない。私も笑った。

胡散臭い話であることは判っている。馬鹿げた茶番かもしれないことも。
だけど、「明日は雨が降るみたいだよ。」というのと「次は木になるみたいだよ。」というのでは、その胡散臭さに左程の違いがあろうか?雨は降らないかもしれないし、次に木になることはないかもしれない。だけど、結果の違いはその時点での自分自身を大きく左右するような出来事であろうか?

つまりは、同じだけの確かさ。不安定で、ふわふわしていて、そのくせこちらの気をふぃと引こうとするだけの魅力を持つ「予報」というものはすべからく。それを信じるとか信じないとかいう陳腐な言葉は、どちらに転ぶか判らない結果を受け止める際の自分の心構えを事前に行うための儀式として生まれた言葉にすぎない。だから私は信じるとも信じないとも云えない。何故ならどう転んでも当たり前で、心構えが不要であるから。

 私は次に木になるかもしれない。ならないかもしれない。
もし私が次に木になるとしたならば、暖かい土地がいい。できるならば、薪能や神事がきちんと行われるところがいい。

「もしそうだったら、特等席ですよ。素敵ですね。」
確かに、そうだ。