Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

灰色への回顧。

2008-06-30 | 徒然雑記
「幸せの中にいると、不安定な日々が懐かしくなるものだね」
友からそんな短いメールがきた。至極当然のように共感を求める文面に笑う。


不安定な日々は、悩みの渦中にあることの現れであり、かつ未来への足掛かりを得ていないことに起因していた。友が不安定であった同じ時期に、同じ程度の不安定さを恐らく私は共有していた。ともに20代も後半になりながら、私たちはこの笑えないモラトリアムを鬱々と笑って過ごしていた。

 あるいは、その時期は私たちにとって最後の青春だったのかもしれないと思う。昼夜を逆転させるのも自由、研究室で朝まで「将来はどうしていきたいか」について聞いているほうが照れてしまいかねない本気の議論を交わすことも自由。東京に慣れてしまった私にとって、夜になれば種々の虫の音や稲穂が揺れる音がそこかしこに聞こえるあの土地は、桃源郷とは対極にある陰鬱さながら、現実世界とは時間も空間も隔絶されたかのような、まさに仮の棲まいであった。

 都に戻った今にして思えば、あの転居が古い友人から「都落ち」と称されたように、過去を切り、次も判らず、身ひとつで篭るには丁度よい庵だったのかもしれない。都にはともがらを除いて遺してきたものはないから、仮に都に戻れなかったとしても、そのままどこかへおさらばできる。そんな暮らしはまるで夢のように実体さだかならぬものであり、不安定でないはずがない。

 そして、その陰鬱とした暮らしに実体を与えるのは、その土地を去ったあとの自分たちの生きざま以外にないということに当時の私たちは気付いていた。もはや過去となった「いま」はその時間の中だけでは完結する強さを持たず、未来の我々に向かってより強い実体の提供を求めていたように思う。
「いま」に生きる私たちはそのときどうすることもできず、まるで他人事のように実感の沸かない自分たちの明日に賭けた。ぼんやりと弱く互いを照らし、同じ時間や風景を共有しつつ、いまそこに自分が居るらしいことを繰り返し確かめた。


 あのとき実感の沸かなかった「明日」のなかを生きている友の「不安定な日々が懐かしくなる」という言葉。「いま」の実体を「いま」の中で充足できることの不思議さと、新たなる不確実さに揺らめく心が今の私には手にとるようにわかる。


ビルの立ち並ぶ窓の外には、木々のさざめきも稲穂の揺らぎも見えない。





いずれ忘れてしまうから。(2)

2008-06-26 | 徒然雑記
 私はその昔、なにをしたかったのだっけ。

「僕の夢はなんでしたっけ。」
就職活動に悩んでいる大学生を目の前にして、はて自分に夢なぞあったかな、と思う。

小学生の頃、生きているのが面倒だった。その頃、芸術というものに出逢い、絵をみているときとピアノを弾いているときだけは幸せだ、と感じるようになった。ピアノの音の向こうには、美しい絵の向こうには情念の渦巻くファンタジアがあって、その純度の高い濃縮された世界に私は逃げた。

その後、自分で絵を描こうとしてみたものの、自分の情念のそのままを絵画化することができないことに気付き、フラストレーションが蓄積されることになった。
理由は、自分の技術不足もさりながら、絵に対して不適切な用途を期待していたことにある。
まずそこに想いがあり、想いを絵にする。途中経過の絵を目にすることで自身の内に新たな想いが付加され、それを筆に落とし、その結果を見てまた新たな想いに囚われ、再びの筆を加える。その繰り返しを経て、毎度筆を置くべきタイミングを計ることができず、絵はいつも黒々と脈絡のないものとなった。
そして、なにかを映し出すという意味で絵を描くことの不可能を知り、描かれた絵は何らかの想いや現象の象徴でこそあれ、写しではないのだということをまた知った。

私は、絵具の代わりに、言葉を用いて絵を描くようになった。絵という凍った画面の中には写しきれない時間や葛藤や不整合さを包含させるには、文字のほうが相応しかった(多分それは個人的な素養であり、人によっては絵のほうがしっくりすることもあろう)。

自分が生きるのを面倒だと思わずに済むためのそれらの行為の延長線上にあるのは夢ではなく、自分が生きていくためのよすがに近いものであった。言葉はきっと私自身の心を周囲のさまざまな現象に繋げ、私の心を翌日に繋げ、私の存在を他者へ繋げてくれるものであると、そんな甘い想いを子供時分の私は抱いた。

それからというもの、言葉は私が生きるうえで失くせないお守り札のようになった。まるで信仰と呼べるほどに、今の私は言葉を失うことが怖ろしい。




 このたび、初めて新聞に氏名と所属を明らかにして記事を寄稿した。

 恥ずかしいので、基本的に友人知人にも内緒にしていたのだが、掲載日の朝から「読んだよ!これを契機に名前をもっと売って自分の身を助けろよ」という元同僚からのメールや、いつもいつも無理を云って困らせている調査会社の担当から「読んじゃいましたよ~。記念に切り抜いときます」という電話がきた。こそこそやっていても、四大新聞でないにしても、見る人には見付かってしまうものなのだなあと冷や汗をかいた。


 新聞に寄稿することの恐ろしさは、半永続的に残ってしまうことだ。
 コラムや散文なら気恥ずかしいだけで済むことだが、データに基づく分析は正確性を問われるだけになおさら恐ろしい。

現象や世相や行動原理を考える分野において、私見と分析との境界の見極めは非常に危ういところにある。100ほどある仮説のなかでまだ1か2しか文字に起こす自信のない私が、いつかその比率を高めてゆけるだろうか。





機械はおもちゃでなければ。

2008-06-17 | 物質偏愛
 新しいオモチャの時計がやってきた。
都市的な軽いデザインのなかに、その大きさと重さによって逃れられない拘束感を孕んでいる。それを諧謔的だと感じるのは、私の主観なのだろうけれど。

「時計に対して重要視するものは、機能・美しさ・哲学」。常々私はそう云っている。それが、どんなにキッチュなオモチャの時計に対してであっても変わらない価値基準だ。いやむしろ、時計は多分すべからくオモチャであるからこそ、そこに哲学やら美やらの介在する余地があるのだ。


1) 機能
 機能という言葉の意味は、受け手にとって様々に異なるだろう。時刻が正確であること、多機能であること、時刻が見やすいこと、着脱が楽なこと、腕にフィットすること、衣服に合わせやすいこと、など数限りない。私が求めるのはそれらのうち自分が重要視する何かであり、時計自身が体現してくれている何かだ。
例えば、私が時計を選ぶ際に、「時刻が見やすい」というのは必要条件だ。とはいえ、それを充たしてさえいればよし、という訳にはいかない。できれば、時刻もなるたけ正確なほうがいい。デザインも好みに近いほうがいい。大きさが手に馴染むほうがいい。信頼性のおける機械がいい。その時計自身がそもそもどうありたいかによって、備わる機能は異なる。私は、その時計にとってそうあるべき要素を充分に満たしている時計が、よい時計だと思う。
サテンベルトのジュエリーウォッチは壊れやすくあるべきだし、スポーツウォッチはチープ&軽量な質感であるべきで、マニュファクチュアルな時計は各々で誰かの真似であってはいけないというようなことだ。

2) 美しさ
 美しさについては、主観を大いに含むものであるから、こういうものがよいとは言い切れない。それを見る日や天気、心持ちによって、何を美しいと思うかは簡単に変化するためだ。つるんとしたなにもないエナメルの文字盤に2本の針だけがあるシンプルさが美しい時計もあれば、クロノやスモールセコンドがびっしり詰まったせせこましい盤面が美しいものもある。
要は、色と材質とバランスとが、機能に相応しく調和してなお、髪一筋ほどの尖りがそこにあればよいのだ。

3) 哲学
 時計には、時計自身がこうありたいと願うかたち、その時計を身につける人にこうあってほしいと願うかたちがある。時刻を示す数値がランダムに配置され、順繰りに刻が訪れるのではなく、ねじれながらまるで螺旋のような時刻を刻んでゆく時計。ワークタイムの目盛りを短く、それ以外を長くすることによって、「自由な時間を有意義にいっぱい使おう」というメッセージを込めた時計。12時間の文字フォントが少しずつ色の濃いグラデーションになり、時間を濃密に重ねてゆくことが示された時計(明日のはじまりはまた真っ白からスタートだ)。
誰もが知っていて、誰もがそれに飲まれている「時」というもの。目に見えないのに密接な「時」とは何なのか、どうあって欲しいのか。それを投げかけてくれる時計は文句なくすばらしい。





きいろいおはな。

2008-06-16 | 物質偏愛
 ロンドンに住んでいる知人から、本をいただいた。


「植物図鑑か、それに類する図譜のようなものを買ってきてください。
 できれば、根っこまで描いてあるやつが望ましいのです。」

と、諸外国に旅する親しい人にはよく頼む。

「図鑑はどうにも見つけられなくて、この一冊だけ」といって、お花の本をくれた。本はヨーロッパのものにありがちな、正方形に近くて分厚いソフトカバーだった。表紙は、赤いケシだかポピーだかの接写写真で、前者ならかなりよろしくないし、後者でもあまり可愛くない。

しかし、表紙を開くとその中は素敵な世界があった。
各々の絵は小さいながらにきちんと植物図譜のなりをしていて、愛らしい。欠点をいえば、1ページに1植物が描かれているので、サイズの想像がつかないというところか。さすがに煙草の箱をスケールで一緒に描くほどのパンク精神はないものと思われる。

なにより素晴らしいのは、「きいろいおはな」「青いおはな」「紫のおはな」と、色別に植物の区分けがされていることだ。
「バラ目バラ科、サクラ属の山桜」というより、「薄桃色のヤマザクラ」のほうがずっと桜らしい。正確性という意味では、ロジックで劣るかもしれないとはいえ、なにより花の本質はその色と形であろうはずなので、図譜の索引が花弁の色になっていることには至極賛成だ。

恐らく、人にとって薔薇と桜と苺が同じ仲間であることなどよりも、薔薇には香料としても、観賞用としても人の心を魅了する何か大きな秘密があることや、苺がお祝いの日を彩るケーキに添えられるものとしてほんとうに相応しいことや、桜がどうしてか生や死と密接であるように思えてしまうことなどのほうが大切で、花の本質はそういうところにある。

お花の図譜は、そういうことを平らかにして伝えてくれるものが好きだ。
根っこを描いているものが好きなのは、地下の根の形状がまた、花や葉の持つ形状のロジックを補完してくれるから。

因みに今回の図譜には、個人的コダワリ事項の根っこはないものの、代わりに土がついている。適した土を描き分けている訳ではないとはいえ、土のリアル感もなかなかいい。つい、ケラやミミズを探してみたくなる。




いずれ忘れてしまうから。

2008-06-11 | 徒然雑記
 
 仕事をしている上での感慨というものは、いずれ忘れてしまう。

はじめて名刺を貰ったときの気持ち、
はじめて上司に「ありがとう」と云われたときの気持ち、
はじめて私より後に入社した人が会社を去っていくときの気持ち、
はじめて大きなミスをしてしまったときの気持ち、
はじめて一人で出張に行くときの気持ち。

毎日の大部分を費やす仕事だから、いつかはじめてだったことはかなりの頻度で繰り返されることになり、そのうちになんだか当たり前のことのひとつになってゆく。それが学習であり適応であり、進歩であるのだから、当然のことなのだけれども。

 はじめてのことが起こったとき、仮にその仕事でもう暫く食い繋いで行こうと思っていたとしたなら、そしてそれなりに一定以上の思いを掛けていたとしたなら、何かしら不思議な感慨が沸き起こる。「ここまできたんだなあ」とか、「結局まだだめなんだなあ」とか、そういうもの。それは日々の単調さや辛さを緩和させるために、心が故意に生み出している感想かもしれないなと時折思う。節目のない日々はきっとかなりぼんやりとして、味気ないものに違いない。


 先週、はじめて講演というものをした。
 研究発表やらMCやらで、人前で話すことに経験がないわけではないが、対価を貰って喋るというのは初めての経験であった。

やはり、自身の研究内容を発表するのと金を貰って話すのとは全く根本から異なる。研究発表の際には、聴衆がやや同業のプロであることが多く、共通言語が保障されているので前段が不要だ。自分が話したい点、つまりポイントだけを語ったとしても、その重要性や面白さを共有して貰えるという信頼が成り立っている関係だ(ある意味、内容に粗があるとてきめんにばれてしまうということもある)。

これが講演となると、聴衆の所属分野や依頼されたテーマ、講演時間に応じて内容をいちいち組み立てなければならない。更に、喋ることで対価を得るということから考えれば、責任を負うべきは喋る内容どうこうではなく、聴衆の満足度だ。満足度を高めるためには、聴衆の人数やホールサイズ・機材、音響などの環境設定の把握も欠かせない。

研究発表大会が、研究者が発表するためのハレの場で整え尽くされた「ホーム」であるとするなら、講演会場は講演者にとって「アウェー」に近いということを、実践の結果知ることになった。アウェーの会場で居心地よく振舞うためには、会場に自身の色を振り撒くパフォーマンスが不可欠であるということも。


 
 会社の名前と自分の名前を背負って、対価を得て言葉を連ねる。その言葉は自分のものでもあり、また自分のものではないという緊張感を、私はいつまでも同じ重さで覚えていられるのであろうか。
研究者として、またひとつ次のステージに進んだ気がする。

 


 ・・・かなり恐ろしいが、課題修正のため、当日の録画DVDを送って貰うこととしよう。
    ああ見たくない。





ダム記。

2008-06-05 | 異国憧憬
 人工物を見て、自然の風景を見るのと至極近しい感覚を抱いたのはとても久しぶりか、あるいは初めてかもしれない。
もう先月の話だが、黒部ダムと高瀬ダムを見てきた。

 黒部ダムは堤高の他、堤体積もアーチ式の中では国内第一位のダムである。ウイングのついた美しいアーチは、巨大でありながら繊細な機能美を感じさせる。5月の中旬、遠くの峰々は昨夜降ったばかりという新鮮な雪を戴き、雨上がりの陽光を眩しく反射させていた。テレビでも写真でも幾度となく目にした黒部ダムではあるが、写真はそのスケールを伝えることができないということを、身を持って知った。「物足りないのでは?」と思われるくらいに近くに見えた展望台は思いのほか高いところにあるし、近くまで降りてしまったら自分がダムの一部に取り込まれるかたちとなって、ダムの形状すらわからなくなる(富士登山の途中に、見慣れたあの富士山の形が消えてしまうようなものだ)。

 山をえぐってトンネルを掘り、自然の川を堰き止めて作られた巨大なダム湖。それは人間の力で自然を加工することに他ならない。それなのに、ダムとダム湖、およびその背景の山々には対立や相反性が全く感じられず、雄大な風景を構成する要素として互いの存在があるようであった。

 ついでというわけではないが、事前情報もないまま高瀬ダムへと足を伸ばした。
ロックフィルダムでは日本第1位の高さを誇る高瀬ダム。高瀬川の最上流にあり、東京電力の管理用道路を使用しなければ辿り着くことができない。よって、このダムに行くには、麓にある高瀬川テプコ館の見学ツアーに参加するか、公認タクシー、もしくは徒歩という選択しかない。ダムへの愛も知識もない人であっても、わけもなくマニアな気分にさせられること請け合いのダムである。

 この「ロックフィル」の規模が、想像を超えていた。毎日何往復も溜まった土砂を運び続けるという色とりどりのダンプカーの車列がつづら折りの道路を登っていく。ジグザグ隊列のダンプは見上げればミニカーのようにしか見えず、その理由は積み上げられたひとつひとつの岩の異様な大きさゆえだ。二人がかりで両手を広げてようやく届くかと思われる岩の幅。それが170m以上の高さになるとどうなるか、その絵が想像できる人はそれほど多くいないと思う。

 作業員以外の観光客がいない朝の高瀬ダムは、人とダンプカーの働く音を除いてはほんとうに静かで、迫りくる山に囲まれていた。毎日溜まる土砂とのいたちごっこにさも当然という態度で対応する人間と、そんなこと知らないよというマイペースな山の群れ。

自然と人との和やかなルーティンワークが今日もそこで営まれている。
ダムの底になにがあったかなんてもはや忘れてしまったかのように。