Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

硝子の眼 Ⅹ。

2006-01-14 | 物質偏愛
 今日、わたしは誕生日というものを知った。
最近では珍しく、男と女が仲睦まじそうに食卓を囲んでおり、並んでいる皿やその中身はいつもよりも豪華に見える。常ならば私の前に置かれるはずの珈琲カップは、今日に限っては綺麗な色でぱちぱち弾けているシャンパンだ。

誕生日というものは、そのものが存在を始めた最初の日のことを云うらしい。それを毎年毎年飽きもせず祝うのが通例のようだ。ひとりひとりの人間が皆違った誕生日を持っているということなので、毎日どこかで誰かの誕生日の祝いが行われている訳で、それを想像するとなんとなく愉しい気分になる。

女が、男の誕生日プレゼントとして渡したものは、赤いビロウドの豊かなドレスを着た、私より少し背丈が大きいくらいの少女で、私と同じように冷たい温度をしたものだった。つい先刻まで愉しそうだった男の表情が一瞬で不機嫌そうに歪み、それを見て女が微笑んでいたものだから、部屋の中はおかしな空気になった。

そのとき、わたしはこの赤いドレスの少女のように、小さくて冷たい肌をした者が他にも居たことを知った。多分、もっともっと沢山、至るところに同じ仲間がいるのだろう。女が、わたしを指差し、そして同じように少女を指差し、同じ「ニンギョウ」という言葉を使って何かわたしたちのことを話していたことから、わたしたちのような者のことはみんな「人形」というのだと知った。

しかしわたしは前の家ではずっと「ミズキ」と呼ばれていたから、多分自分はミズキというのだと思うが、赤いドレスの彼女は多分ミズキというのではなくて、また別の呼び名があるのではないかと考えた。そしてこの男のように、わたしたちにも知らないだけで「誕生日」というものがあるのかもしれないと思った。

わたしは赤いドレスの少女に心の中で呼びかけてみた。しかし返事がないままあらぬ方を見ているので、わたしはこの少女をなんと呼んでいいか結局判らなかった。
後になって思ったことだが、もしかしたら赤いドレスの少女が同じようにわたしに向かって呼びかけていたかもしれず、お互いにそれに気付けないのだとしたら、人形というのはなんて不便なものだろう。人形は人形どうしで交流したり愉しんだりするようにできてはいないということだ。

わたしはこの日に色々なことを知ったけれど、きっかけになった赤いドレスの少女は、次の日にはもう居なかった。男が少女を気に入らなくて、女に突き返してしまったようだった。彼女はどこかで、「人形」じゃないなにか別の名前で呼んで貰えるのだろうか。


 わたしはミズキというのだけれど、男はそれを知らないから、わたしに向かっていつも「ナナ」と呼びかける。
人形というものは、本当に、なんて不便なものなのだ。



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