Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

ワードローブ(Part-7)。 - 華やかなグレイ -

2007-10-29 | 物質偏愛
 上の写真は、「私が男だったらよかったのに」ともっとも強く思わせるスーツのディテール、「お台場仕立て」だ。
海に突き出た台場を上から見たように、内ポケット部分にまで表地が突き出ていることから、「お台場仕立て」と呼ばれる。昔の紳士服は裏地が弱く、内ポケットを使用する人にとっては耐久性がいまいちで、裏地を時々張り替えたりポケットを修繕する必要があった。そこで、耐久性を高めるためのひと手間かけた仕立てとして、この「お台場仕立て」が生まれた。縫製技術が向上した現代でも、お台場仕立ては高級紳士服およびオーダーメイドの代名詞らしい。

 だが、女性のスーツに内ポケットはまず付けない。だから、お台場仕立ての必要もない。
たとえ内ポケットを付けたところで、広げて平らになる部分ではないから、表から見たときにおそらく生地がもたついて、美しいラインにはならないだろう。左右非対称になること請け合いだ。ああ残念。


 さて、グレイのスーツが出来上がってきた。
生地のたるんとした感じと色が相まって、恐らくこれまで作った3着のうちでもっとも着心地の良い1着になったような気がする。パターンの寸法が同じでも、生地によってこうも仕上がりのラインが異なるものかと改めて感心した。
「中庸」ではなく「華やか」なアソビ心たっぷりのグレイに仕上がったことで、ひとまず目標達成と云いたい。まかり間違っても、就職活動中の女性には決して着こなすことのできないスーツになった。
今回の目算と結果を見たうえでの感想を以下個別に記載。

【生地】
グレイに白と藤色のオルタネイトストライプだったのだが、思いのほか藤色が華やかだった。藤色部分のみ多少の光沢がある糸であることは事前に把握していたが、それがこんなにも主張するとは意外であった。「グレイのスーツ」ではあるものの、「紫のスーツ」と云っても誰も否定はしないと思う。なお、毎回思うのだが、ストライプを細かいところまで綺麗に合わせてくるものだと感嘆。
生地から仕上がりを想定する作業は苦手ではないつもりでいたが、まだまだ読みが甘いらしい。日々勉強。

【フロントカット】
はじめてフロントカットに丸みを持たせたが、この生地ならば正解。この点では自分を褒めてもいい。
ハンドステッチという柔らかい意匠と紫の持つアンオフィシャルな華やかさには、丸さが似合う。
とはいえ、女性ものは着丈(カーブ終着点までの距離)が短いうえ、フロントの最も下のボタンの下から傾斜がはじまるので、男性のそれのように大きな(130Rのような)カーブを描くことは不可能だ。ちょっと残念。

【総ステッチ】 
襟、前立て、背中心、袖(後側)、肩に入っている生地と同色のステッチ。
有料で試してみたが、綺麗な手作業で非常に気に入った。襟のキワがきちっと納まることが気分よい。総ステッチとはゆかずとも、基本箇所のステッチは今後自身のデフォルトにすることもやぶさかではないと思う。

【裏地】
灰がかった藤色(2色織)の裏地を、背から袖裏まで同色で用いた。柔らかくも主張のある、よい色だ。
センターベントで裏地が見える機会が増えることが予想されるが、決して嫌味にならない色のはずだ。

【袖口ボタン&ボタンホール】
4つボタンは間隔を狭くしてくっつくくらいに・・と云ったのだが、その指示の解釈が甘かった。1.5~2ミリの間隔が開いていることは、私にとって「くっついている」とは云わない。今後、指示方法を検討。
ボタンホール4つとも&フラワーホールの灰藤色は非常に淡い色調で、色選択は合格。85点あげてもいい。この糸色の場合、袖口のボタン4つのうちの2つを外すことがセオリーだ。

【パンツ裾ダブル】
遊び心を最も打ち出したのはここかもしれない。
形式上、フォーマルを全否定することで生まれる雰囲気の「軽さ」を物理的な「重み」によって調節する、といった感じか。


*【以下次回以降のための覚書】
○ ベル袖問合せ(多分できないだろうな)
○ コントラストの強い幅広めのピンストライプ
○ 生地がシンプルな場合、ステッチの糸色変更
○ 袖中釦1つというのもアリかも(その場合は釦持込か)
○ ネーム糸色変更





【過去関連記事】:
ワードローブ。
ワードローブ (Part-2)。
ワードローブ (Part-3)。
ワードローブ (Part-4)。
ワードローブ (Part-5)。
ワードローブ (Part-6)。 - グレイのポテンシャル -



救世主。

2007-10-25 | 徒然雑記
 終電を降りて、ああ、今日も中途からタクシー帰りか、と人通りもまばらになった暗い駅前で嘆息した。駅のロータリーには凡そ5台分のタクシーのヘッドライトが見えた。この駅前からは午前2時前後までタクシーがなくなることはない。僕のような人は、多分少なくないのだ。
 ここまできて慌てて帰るのも馬鹿馬鹿しくて、僕は珈琲を一杯飲むためにファミレスに入ることにした。

「阿呆みたいに忙しいくせに、給料があがらないどころか、残業代も、タクシー代すら出ないんだもんなぁ・・・」
珈琲を待ちながら、僕は誰にともなく呟いた。
「忙しいのが厭なの?で、お金も足りないんでしょ?」
「はっ?」と僕はうっかり深夜のファミレスに相応しからぬ頓狂な声を上げた。僕の呟きを聞かれた恥ずかしさもさりながら、テーブルの向かいの席に20代も半ばと思しき若い女がいつのまにか座っていたことに気付かなかったことへの驚きだ。
「ああ、まあ、そうなんだけど・・・」と完全なる弱腰で、僕はその女に同調した。幾分か気を落ち着けようと煙草を取り出し火を点けると、「ごめんね、わたしにも一本頂戴。」と女が白い指を伸べてきた。もうどうでもいいや、と僕は煙草を差し出した。

 落ち着きを取り戻した僕は、「で、何かしてくれるわけ?」と女に訊いた。女はにっこり笑って、「順番としては、お金がいっぱいあれば、忙しく仕事に追われなくて済むわけでしょ?時間は難しいけど、お金ならあげられる。」と事も無げに云った。僕はその自信が可笑しくもあり不可解でもあり、「僕に?どこの誰かも判らない僕にお金をくれるっていうの?」と重ねて訊いた。「アナタ次第であげてもいいわよ。だけど、アナタひとりを優遇してお金をあげたりしたら不公平じゃない?同じくらいか、もっと忙しかったりもっとお金がない人だっているでしょう。だから、もしそうなったら世界のみんなに同じだけあげるのよ。」女はにやりと笑った。

「毎日毎日ね、銀行口座に100万円ずつ振込まれるわ。世界のみんなにね。口座を持ってない人には、箪笥とか引き出しとか、そういうところに入れておけばいいの。最初はみんな慌てるでしょうね。借金してた人はこれで返せるって喜ぶだろうし、取立て屋さんだって同じだけお金が入ってきたら、今までみたいに怖い取立てする気もなくなるでしょう。あと、これまで頑張ってきたお金持ちとか株とか為替とかやってる人はみんなに追いつかれるって戦々恐々とするわ。でも、それも1年もしたらオシマイね。きっとみんな諦める。だって、みんなの財布には殆ど同じだけのお金が入っているんだから。物価だって据え置いちゃうから、みんな手持ちのお金で山だって飛行機だって買えちゃうようになるのよ。そんな環境になれば、アナタをはじめ、みんな馬鹿馬鹿しくて仕事もしなくなるわよね。ほら、これで一丁上がり。」女はそこで、面白そうに煙草の煙をすぅと吐き出して、息を継いだ。

「仕事しない人が増えるから、食材とか工業製品とかは徐々に市場から減っていく。お金はあるけど土地がないから、そのうち買える不動産もなくなってく。買ったって維持するために頑張って働いてくれる人がいないわけだし。そうしたら、みんなお金が有り余るくらいあって、仕事だってしないで生きていける。もし誰かが食べ物を頑張って作ってくれるとしたら、だけどね。」

 何かに呑まれるように話を聞いていた僕の脳裡には、高層ビルに囲まれた殺風景な大都会に、人がひとりも歩いていない風景が浮かんだ。
「君、ちょっと待て。」
僕は慌ててその話を止めようとした。

顔を上げた僕の目の前には誰もおらず、いつの間に置かれたのか、珈琲の湯気が立ちのぼっていた。
うたた寝でもしてしまったかな、と僕はほっと安堵した。
灰皿に転がる口紅のついた煙草の吸い差しに視線を凍りつかせる前の、ほんの一瞬だけ。





花という現象(2)。- 独立した青 -

2007-10-24 | 徒然雑記
 花を扱う知人がいる。
知人は、ほんとうは絵描きであったりもする。
花の何たるかを知ろうとし、日々絵を描く友のパフォーマンスは、花や絵という既に定まって見える固体が常に時間を含んでいるのだという至極アタリマエのことを、改めて示してくれた。

 知人は、まず、針金を組み上げて作った馬を大きな蒼いガラスの花瓶に活けた。そして、その馬を模る針金の隙間に赤いバラとバラの実にマユミの枝、そしてぐにゃりとうねった何かよく判らない枝を少しずつ、差し入れていった。馬はもとあった形状のままに、しかし徐々に馬のかたちを失くしてゆき、そこには赤い花や実が生えた針金の土台が廃墟のようにしてあった。

赤い花が生え揃ったのは、恐らく最初の花を手に取ってから30分も経っただろう頃であった。花を活ける知人の指先は、顔料によって真っ青にべったりと彩られていた。真っ青な手先は別の生き物のようで、それが運ぶ花はその手を有する人の意識とは隔絶されたもののように見えた。人がその身に持たない青という強い色が、その手の持ち主の身体と花とが直接触れることを遮り、ただ青という冷静な媒介者となって花を運んでいた。

 すべての花があるべきところに収まると、知人は後ろの壁に貼られたモノクロームの大きな絵と対峙した。そもそもから青かった手を顔料に浸し、絵に青色を置いていった。赤い花の束を前に、背後の白い画面は徐々にその青い面積を大きくしていく。

顔料壺と白い画面の間を幾度となく往復する青い手。暗がりのなかでただ黙ってそれを見ていると、青という色が虚空を飛んで画面に到達し、その上を滑ってゆくように見える。この場面において意思のあるものはただ青だけで、赤い花も、人の手さえもその青に操られてゆらゆらと漂い、青の気紛れが示すままにあるべき場所へと着地する。
知性の色だとか修羅の色だとか、人が勝手に定義した青のイメージは見事に崩壊し、そこにはれっきとした青という独立した存在と意思があった。


 すべてが終わったあと、定められた赤い花と青く彩られた絵を前にして、私達は煙草を挟んで語り合った。
「先ほどまでは普通に触ることに躊躇いがなかった花は、どうして今は触っちゃいけないものに見えるのかな。」
これまでの時間を見てきた私はそう訊いた。
「触っちゃえばいいんだよ、こんなふうに。」
知人はバラの花を形が崩れるほどにぎゅっと指先で強く摘まんだ。
そこに私は、時間の中に居た人と時間を横目で見ていた人の乗り越えがたい壁を見た。



破壊【緊急連絡】。

2007-10-23 | 徒然雑記


はい、再びPCが壊れました。

ご飯を食べているあいだに壊れました。

作業をしていて、さてご飯になったのでフタを閉めて

ご飯を食べ終わったときに再びフタを開けたら



    無反応でした。


2週間以内には復旧すると思いますが、データが吹き飛ぶ可能性が高いので

わたしのプライベートアドレスにこれまでご連絡を下さっていた方々は

お手数ですが何らかの方法でアドレスをお知らせ下さいますよう

お願い申し上げます。


これを機会に連絡を絶ってやれ!

とお思いの方々に関しましては、是非この機会をご利用ください。



以上業務連絡まで。




花という現象。

2007-10-16 | 徒然雑記
 花瓶に挿した花が日々萎れてゆくさまをみている。

時どき、飾った花がそのかたちを留めなくなるまで見続けていたいと思うことがある。
それは花という固定化された概念ではなく、花というひとつの現象となる。

 華やかに、あるいは可愛らしく咲く花が花弁の色を茶に変えながら首を垂れてゆくさま、葉がくしゃっと縮れて花瓶の水が濁ってゆくさまをみている。その姿は、人の希望が打ち砕かれてゆくようすに例えることも、誰か大切な人への情愛が徐々に薄れて心離れてゆくようすに例えることもできるような気がする。そういう変化や現象を包括した「花」という単語の意味を忘れたくないと願うためだ。 

 人は、美しく咲いた花を愛で、心を寄せる。そして萎れた花を汚いといってその首を掴んで廃棄する。その背景にあるのは心弱さと表裏一体の残酷さ。開花を頂点とした時系列のピラミッドを作れば、萎れることは「零落」と定義できる。萎れた花は花が本来あるべき姿ではないと断定することによって不安を排除することができる。
 そこを敢えて見続けようという不思議な意思を表す顕著な例が「不浄観」であろう。それが宗教的な修行の一環として行われていたことは、すなわち現象を見ることにはリスクが少なからず存在するということの裏付けに他ならない。だから、人は経験によってその耐性を身に着ける。

 他の国民と比べて「現象」を見ることが好きなはずの日本人においても、少しずつだが確実に「表象」を見ることのほうに移行しているのかもしれないと感じる。「キャラ」や「アイコン」という言葉の隆盛に、象徴という引き出しで合理的に整然と整理された現象の骸が透けて見える。そのことに良し悪しは多分ないけれど、なんとなく淋しい気分がするのは何故だろう。

 
 昨夜帰宅したら、挿さっていた花瓶の位置もそのままに、枯れた花は新しく生き生きとした花へと姿を変えていた。
恐らく今年の見納めになるかと思われる群青色の竜胆に、冬がもう遠くないことを示す小さな姫りんごが並んでいた。初秋から初冬までの移り変わりという現象をひとつの花瓶に活けることもまた、人間が人間の目線で造形した身勝手な表象に過ぎない。




ワードローブ (Part-6)。 - グレイのポテンシャル -

2007-10-07 | 物質偏愛
 秋も深まってくると、就職活動中の大学生を街や電車でよく見掛ける。
かつては、就職活動スーツの定番色は紺だったものだが、今では銀行や行政などごく一部の業種でその伝統が継続されているものの、女性スーツの定番色はグレイか黒が主流となっているようだ。

 最もフォーマルな場面を示すところの紺が鳴りを潜め、代わりに幅広くファジィな「中庸」を演出するグレイが席捲してきたというのは面白いというか、日本らしいというか、そんな気がする。場面に最も相応しい色を求めるというよりも、メニューに拘わらず夕食の席で「取り合えずビール」と云ってしまうのと同じ要領で「地味だしみんな着てるし汚れも目立たないし、じゃぁとりあえずグレイで」な感じが満載なのだ。

 日本人の顔色には確かにグレイがよく似合う。若くても熟年でも必ず似合う。
 なにより、一言でグレイと云っても、明るいものから深いものまで、そしてブルーや紫に寄ったもの、茶色が混ざったものなど明度や色味に様々なバリエーションがある。そこに生地の質感や柄の意匠が加わるわけなので、選択肢は非常に幅広い。一生のうちに自分に似合うグレイを幾つ探すことができるか、それはかなり長い年月を費やして愉しめる遊びになるだろう。

 そんなわけで、今日のオーダーは「遊びのある大人のグレイ」。
さて、【中庸】で【無難】な色をどのように料理すれば、フォーマルな遊び心が出来上がる?




(1) 素材
○生地はダーク寄りのミディアムグレイ
 白と濃目の藤色のピンストライプが交互に


(2) デザイン
○ジャケットにはフロントからバックまで総ハンドステッチ(コバ)
○ステッチを考慮して、センターベント付加
○ステッチを考慮して、襟幅7.5cm
○フロント2つボタン、フロントカットに丸みを付加
○袖口本切羽の4つボタンは、間隔をぎりぎりまで狭く
○チェンジポケットなし
○パンツの裾は3.5cmのダブル


(3) 色
○裏地は藤色。今回は袖裏まで同色
○灰がかった藤色への糸色変更は、フラワーホールと袖口全て
○ボタンは水牛の黒ツヤ消し




【過去関連記事】:
ワードローブ。
ワードローブ (Part-2)。
ワードローブ (Part-3)。
ワードローブ (Part-4)。
ワードローブ (Part-5)。

音の国籍。

2007-10-04 | 異国憧憬
 もうすぐ夕暮れが迫ろうかという頃、海の面は乏しくなった光の下で眠りに落ちるかのように淀む。
爆音で空を切り裂きながら、黒ずんだ海を掠めるようにを2機のF-15が腹を見せながら通っていった。ベランダに続く窓を開けると、肌を微かに震わす振動がその音の物理的な存在を確からしく主張していた。東京の生活では決して出逢わない音だ、と思った。

 移動をすることに心的障壁の低いわたしが「遠くにきたのだな」と感じるためのきっかけはだいたい、その土地の音か植生に触れたときだ。
「遠く」とは、大きな距離が離れていることを意味するのではない。わたしが日々当然のように寄りかかっている習慣や生活風景、行動を規範付けるための前提となる文化、それらのものとの断絶に気付いたとき、同時に自身の中心部からの遠さ、言い換えればそれらからのひとときの「さよなら」を感じる。
 哀しみを伴わない小さな「さよなら」がもたらすカタルシスは手頃な快感をもたらす。処を替え人を替え、そのカタルシスが繰り返し次々とやってくるのが旅なのだとしたら、旅を知ってしまった人が一生涯そのカタルシスの幻影に捉われてしまうことも頷ける。


 暗闇を彩る、雨に濡れたハイビスカス。
 夕暮れに次々を帰還する戦闘機の影と爆音。
 定刻以降の海遊びをヒステリックに注意する広報スピーカ。
 擦れ違う米国人の重く粉っぽいフレグランス。

これら日頃の生活で出逢わないものたちのどれかに最初に出逢ってしまう一瞬--心の襞を乱されそうになる瞬間--のすぐ直後、わたしは無意識にそこから一定の「遠さ」を認識し、日々の心の襞を形成する何かとさよならする。旅先の地が国内であっても、アジアでもアフリカでも、わたしが感じる「遠さ」はいつも一定だ。

自分から一定の、しかし手の届かない距離に、自分がかつて出逢ってさよならした全ての音や目にした植生、風の強さや湿気がわたしを取り囲むように浮かんでいる。いま自分が立つこの中心を離れ、その地に再び赴くことによってしか手を届かせることのできないいくつもの世界が蜃気楼のようにそこにいつもある。

 軸足が確実なさよならを重ねることでしか、次の地に純粋に足を下ろすことはできない。ほんとうの旅を旅するためには、せせこましい甘えや郷愁を大事に抱えたままではいけない。さよならというフォーマットなしに、新しい何かや遠さの感覚によって心を震わせることなどできない。

だから、旅を知るものは優しく冷酷で、旅そのものはもっと残酷なのだ。
 


  
 

腕を組むこと。

2007-10-01 | 徒然雑記
 「あなたはあの人と腕組んだことある?」
俄かにその文脈やら意図やらを図りかねる不思議なメールが届いた。
 久々に睡眠まで余裕を持った時間に帰宅し、今日こそは覚醒時の自由時間を保持するぞと思って淹れたフレーバーティを口に運ぼうとしたときのことだ。
「たぶん、ありません」とYES OR NOで答えてしまうのが最も簡単なのだが、質問の意図があまりにも判りかねるせいで、そのような単純回答が果たして相手の望む回答なのかどうか、自信がなかった。仕方なく、「わたしは腕を組む派ではなく、どちらかというと手を繋ぐ派なので、たぶんないと思います」と答えた。

 記憶を遡ってみても、上述のような自分の慣習からみても過去に腕を組んだという可能性はかなり低い。とはいえ、あまりにも男だ女だなどという特別な意識をしなさすぎる友人に対して自分がとった行動なんて、いちいち正確に覚えては居ない。だから私にとってその人と腕を組もうが組むまいがどうでもよく、どうでもよいことというのは往々にして記憶の淵に忘れ去られていたりもするものだ。添えられた「たぶん」は、不正確を避けるため、そしてその行為がわたしにとって重要度がとても低いという事実を明示する非常に明瞭なグレーゾーンだ。

 もし、そのメールが「あなたは、誰かと腕を組むのがすき?」という質問だったとしたら、わたしは想像力を膨らませ、嬉々としてその問題について議論を展開しはじめてしまっただろう。そうなったら、気に入りの紅茶を味わうどころではない。

 メールの返信が一段落さえしたら、続くのはわたしの勝手な遊戯だ。まず、質問の主は、「腕を組む」という表象からどのような真実を見出したかったのだろうか、と考える。「人の心は掌にある」という比喩を好んで使うわたしにとって、腕を組むという行為は誰かと接触していることで何らかの利便性を高めるためか(人混みではぐれないとか、歩行のリズムを合わせるとか)、接触という事実を手軽に仕立て上げるためのツールであるかのどちらかだ。そこにこころの有無を求めることはない。あくまで、わたしにとって、だけれど。


 日本語はとても品よく上手に人を惑わすようにできている、とよく思う。腕を「組む」と云えば聞こえはよいが、愛想なく云えば受動者の腕を能動者の掌が掴んでいる状態にすぎない。だったら、誰にも気付かれずにこっそりと掴まれている腕を地下鉄の手すりに置き換えてしまうことだって可能じゃないの、と思ってしまう。そう思ってしまう限り、腕を組むという行為はわたしにとってきっと自らをこれっぽっちも充たさない接触としてカテゴライズされているようだ。

 かたや、繋がれている掌の片方を受動的な何かにもし変換できるとしたら、土手で摘んだすすきの穂やエノコログサのように、歩くリズムに合わせてそれを振り回したら愉しい気分になりそうななにか。握られて振り回されているだけの受動的なそのなにかからも何らかのメッセージ(この場合は季節のそれ)の発信を、うっかりこちらが期待してしまいたくなるもの。
だから、それは決してスーパーの買物袋であってはならないと思うわけなのだ。