今日は日曜日だけれど、朝から僕は洗濯と掃除に追われている。
いつも西日の眩しい窓からの朝の日差しは霧のようにやんわりと淡く、部屋は硬く凍りついてなかなか溶解してくれない沈黙した空気に支配されている。
昨日は、なぜ恋人と喧嘩したのかよくわからない。
一緒に食卓を挟んでいたはずなのに、気がついたらポークソテーやら野菜の切れ端やらが宙を舞って僕のほうに飛んできていた。僕は唐突なことに対処しきれなくて、多分かなり間抜けな面でコマ送りのようなその食べ物たちの空中遊戯を眺めていたことだろうと思う。
一瞬の後でそこいら中に飛び散ったカラフルな模様に、自分でしたこととはいえ恋人も多少なり驚いたようで、きゃぁとこれまた間抜けな棒読みの台詞を発した。それから僕たちは二人仲良く、時には笑いながら黙々とその後片付けに夢中になっていた。
とはいえ、被害を被った僕の洋服やランチョンマットはこうして僕が日曜日にひとりで洗わなくてはならないし、気に入りだったパイルのスリッパは図らずも不規則な水玉模様になってしまったから、これも新しいものを用意しなければいけない。
だけどなにより困っているのは、ペルセウスの円盤投げよろしく、僕の眼鏡に向かって皿が回転しながら飛んできたことだ。果たして眼鏡は左半分が修復不可能に弾け飛んでしまって、そのついでに僕の額に軽い小悪魔的キスを投げていった。冬の冷たい空気は額の傷を常にちりちりとさせて僕を不愉快な気分にさせ、その不愉快な気分と同時に恋人の顔が浮かぶものだから、恋人に逢いたい気持ちさえ失せてしまう。
暴力と加虐との間には、大きな隔たりがある。
確かに僕の恋人は、たまに僕の上に馬乗りになったりして僕のあばらを軋ませたり、短い恍惚の数秒間のうちに僕の首を絞めることもあった。それを僕は僅かな微笑みと心地よい半眼の眼をして受け容れた。そこには痛みという確かな存在があり、痛みを通じて僕という人間が、そして彼女という人間が今この場所に、同じ時間を共有しながら存在していることを信じることができた。
だけど、この額のちりちりした苛立たしい痛みの中に彼女の存在を感じ取ることはできない。僕の存在をその身に認めるためでなく、僕の存在を否定するために与えられた痛みの中には、淋しい苛立ちしか残らない。
辛うじて水玉模様にならずに済んだ白いテーブルを見て、僕はほっとしている。
いつものように珈琲を淹れて、眼鏡をかけていないぼんやりした目で、藤色のドレスを纏った冷たい肌の貴婦人に眼を向けた。
彼女の冷たいとび色の眼はまっすぐに僕に向けられ、僕をそのままの姿勢で椅子に縛り付ける。もし瞬きでもしてくれたならその一瞬の隙を見付けて息を吸うことだってできるのに、それさえも許してくれない透徹した瞳。文字通り指一本動かすこともなく、笑いかけてくれるでもない、目蓋のひらめきすら見せてくれない彼女の眼が、甘やかな痛みを伴って僕を刺し貫く。
信仰にも近い敬虔さでその痛みを受け容れる泣きそうな顔の僕が、彼女の凍ったとび色の瞳の中にはっきりと映っている。彼女の瞳いっぱいを、僕が占めている。
この痛みの中に、確かに僕が居る。
硝子の眼。
硝子の眼 Ⅱ。
硝子の眼 Ⅲ。
硝子の眼 Ⅳ。
いつも西日の眩しい窓からの朝の日差しは霧のようにやんわりと淡く、部屋は硬く凍りついてなかなか溶解してくれない沈黙した空気に支配されている。
昨日は、なぜ恋人と喧嘩したのかよくわからない。
一緒に食卓を挟んでいたはずなのに、気がついたらポークソテーやら野菜の切れ端やらが宙を舞って僕のほうに飛んできていた。僕は唐突なことに対処しきれなくて、多分かなり間抜けな面でコマ送りのようなその食べ物たちの空中遊戯を眺めていたことだろうと思う。
一瞬の後でそこいら中に飛び散ったカラフルな模様に、自分でしたこととはいえ恋人も多少なり驚いたようで、きゃぁとこれまた間抜けな棒読みの台詞を発した。それから僕たちは二人仲良く、時には笑いながら黙々とその後片付けに夢中になっていた。
とはいえ、被害を被った僕の洋服やランチョンマットはこうして僕が日曜日にひとりで洗わなくてはならないし、気に入りだったパイルのスリッパは図らずも不規則な水玉模様になってしまったから、これも新しいものを用意しなければいけない。
だけどなにより困っているのは、ペルセウスの円盤投げよろしく、僕の眼鏡に向かって皿が回転しながら飛んできたことだ。果たして眼鏡は左半分が修復不可能に弾け飛んでしまって、そのついでに僕の額に軽い小悪魔的キスを投げていった。冬の冷たい空気は額の傷を常にちりちりとさせて僕を不愉快な気分にさせ、その不愉快な気分と同時に恋人の顔が浮かぶものだから、恋人に逢いたい気持ちさえ失せてしまう。
暴力と加虐との間には、大きな隔たりがある。
確かに僕の恋人は、たまに僕の上に馬乗りになったりして僕のあばらを軋ませたり、短い恍惚の数秒間のうちに僕の首を絞めることもあった。それを僕は僅かな微笑みと心地よい半眼の眼をして受け容れた。そこには痛みという確かな存在があり、痛みを通じて僕という人間が、そして彼女という人間が今この場所に、同じ時間を共有しながら存在していることを信じることができた。
だけど、この額のちりちりした苛立たしい痛みの中に彼女の存在を感じ取ることはできない。僕の存在をその身に認めるためでなく、僕の存在を否定するために与えられた痛みの中には、淋しい苛立ちしか残らない。
辛うじて水玉模様にならずに済んだ白いテーブルを見て、僕はほっとしている。
いつものように珈琲を淹れて、眼鏡をかけていないぼんやりした目で、藤色のドレスを纏った冷たい肌の貴婦人に眼を向けた。
彼女の冷たいとび色の眼はまっすぐに僕に向けられ、僕をそのままの姿勢で椅子に縛り付ける。もし瞬きでもしてくれたならその一瞬の隙を見付けて息を吸うことだってできるのに、それさえも許してくれない透徹した瞳。文字通り指一本動かすこともなく、笑いかけてくれるでもない、目蓋のひらめきすら見せてくれない彼女の眼が、甘やかな痛みを伴って僕を刺し貫く。
信仰にも近い敬虔さでその痛みを受け容れる泣きそうな顔の僕が、彼女の凍ったとび色の瞳の中にはっきりと映っている。彼女の瞳いっぱいを、僕が占めている。
この痛みの中に、確かに僕が居る。
硝子の眼。
硝子の眼 Ⅱ。
硝子の眼 Ⅲ。
硝子の眼 Ⅳ。
発破を掛けておいて、こんな事を云うのも何ですが、予想外に早いUPでした。読者としては、とても嬉しかったです。
「僕」と恋人との軋みも、大きくなり、いよいよ物語が大きく動きそうですね。この「僕」は、何だか人形から下僕と呼ばれても、喜びそうな感じがします。(笑)
人形の視線に「信仰にも近い敬虔さでその痛み」を感じている「僕」が、人形の眼にはどのようにうつっているのか、とても楽しみです。
論文の追い込みで、忙しい時期に無理を言って申し訳ありませんでした。
おっと、忘れるところでした。人形の「甘やかな痛み」を伴った視線にnice!です。(笑)
現実逃避もここまできました(笑)
ゼミ発表後、ゆっくりと風呂に浸かっている間に浮かんだ要素を繋げて、勢いで書いてみました。
今回は、ベーシックなところである「人形愛=ナルシシズム」の要素に、同じくナルシシズムの兆候であるところの「加虐&被虐」をミックスしてみました。
自分以外のことにちょっと鈍感で、周囲のすべてを寸劇のように捉えてしまう「僕」は、自分で作っておいてけっこう気に入りのキャラクターです。
毎回のnice!有難うございます(笑)
人と世界との関わりについて、勝手にいろんなイメージを付与しながら興味深く読ませて頂きました。
誰からも認められる美女。性格も良く、誰にでも優しい。皆からも好かれるが、それは誰からも愛されたい気持ちの裏返しなのかもしれない・・・。彼女が本当に誰かを愛するのはいつのことだろうか? 嫌われない為に振りまく思いやりは、自己愛の反射作用でしかないのに・・・。
私が知っていたとある女性のイメージで浮かんだ言葉です。何故、これをマユさんの文章から連想したのか自分でも分からないのですが。
とにかくご苦労様でした。いつも楽しませて頂いております(笑顔)。
>alice-room さま
さすがです。するどいところに反応なされたようですね。
今回のテーマが「愛情と錯覚させる自己愛」に貫かれているから、そのイメージが浮かんだのだと思います。
なお、「生身の彼女と人形の彼女をいつのまにか一緒にして・・」というくだりも、まさに。前回で彼女に人形化の一歩を踏み出させましたが、その繋がりが今回にもあります。
いやほんと、意図を汲んで読んで頂ける上質な読者に恵まれている私は、なんて幸せなのでしょう。文章は自分の手を離れた途端に自分だけのものではなくなってしまうはずなのですが、ここでは共有できている素敵な感覚があります。
次なる展開を楽しみに
色とりどりの皿の中身が、コマ送りのように宙を舞っている絵は、書いていながらいい絵でした(笑)
一見して派手派手しい動的な出来事だったりするのだけれど、視線が絡まって互いを拘束する緊張感に比べれば、なんだかだらしないくらいユルユルな絵になってしまうから、不思議です。
少しでも思いが共有されると、また味わい深いですね。私も嬉しいです♪
いえいえ、上質なひとりよがりは最高です。
自分が言葉にできないまま薄っすら思っていたことがそこでは言葉になされていたりだとか、文中に使わなかったけれど実はテーマに密接な言葉をふっと使ってくれていたりだとか、そういうことで「繋がり」を感じられるのです。