もう7、8年前のことだろうか。願掛けを滅多にしない私が、寺で絵馬を奉納した。願いごとは「大学院合格」。
今になって思えば、何年次に、どこ大學のどんな研究科に入りたかったのかをきちんと記述したというはっきりとした記憶がない。その年の大学院受験には見事不合格だったのであるが、そんな記憶も薄れた今年になって社会人を辞め、今更大学院生となってしまった。
当時、絵馬を吊り下げるフックはもはやいっぱいいっぱいで、絵馬が滑り落ちることのない場所を探すのに一苦労した思い出がある。文殊菩薩の前にできた長蛇の列の順番が、何年もたってようやく自分に回ってきたということで納得したい。
さて、遅ればせて本題に移る。
今後、ここで卑俗なまなざしで私に見られた仏像の話を時たますることがあると思う。歴史的な事実はものの本にいくらでも書いてあるので、これを書く間は敢えて本を開くことはせず、印象と感動と薄ぼんやりした記憶に頼って書いてみることとしたい。
安倍文殊院の文殊菩薩は、獅子座の足元からの像高約7メートルもある巨大木彫仏。快慶「らしさ」をぷんぷんと漂わせた「短距離走らせても速い文科系秀才」なんて感じの、躍動感と静的な知性とを同居させたきりりとした面差しの文殊に、かなりお高いところから見下ろされる快感。獅子は向かって右に顔をぐんと振って風を起こし、いまや足元の卑俗な者々を威嚇したばかり。
掲げる剣はまるで女王様がしなる鞭を構えているかのような隙のなさで、見上げる下々の私どもの口に出せず心に願うだけの欲求や祈りを透徹とした瞳で全て見透かす。俗人ではない尊いものに見詰められ、見透かされ、見出される快感は、はかりしれない。
仏(ほとけ)には触れないが、仏像には触れることができる。
見ることができる。記憶することができる。
ならば、記憶の中に美しい数々の仏像たちをとどめ、本棚に飾るようにその姿を鮮明にするために何度でも逢いにゆけばよいではないか。
今になって思えば、何年次に、どこ大學のどんな研究科に入りたかったのかをきちんと記述したというはっきりとした記憶がない。その年の大学院受験には見事不合格だったのであるが、そんな記憶も薄れた今年になって社会人を辞め、今更大学院生となってしまった。
当時、絵馬を吊り下げるフックはもはやいっぱいいっぱいで、絵馬が滑り落ちることのない場所を探すのに一苦労した思い出がある。文殊菩薩の前にできた長蛇の列の順番が、何年もたってようやく自分に回ってきたということで納得したい。
さて、遅ればせて本題に移る。
今後、ここで卑俗なまなざしで私に見られた仏像の話を時たますることがあると思う。歴史的な事実はものの本にいくらでも書いてあるので、これを書く間は敢えて本を開くことはせず、印象と感動と薄ぼんやりした記憶に頼って書いてみることとしたい。
安倍文殊院の文殊菩薩は、獅子座の足元からの像高約7メートルもある巨大木彫仏。快慶「らしさ」をぷんぷんと漂わせた「短距離走らせても速い文科系秀才」なんて感じの、躍動感と静的な知性とを同居させたきりりとした面差しの文殊に、かなりお高いところから見下ろされる快感。獅子は向かって右に顔をぐんと振って風を起こし、いまや足元の卑俗な者々を威嚇したばかり。
掲げる剣はまるで女王様がしなる鞭を構えているかのような隙のなさで、見上げる下々の私どもの口に出せず心に願うだけの欲求や祈りを透徹とした瞳で全て見透かす。俗人ではない尊いものに見詰められ、見透かされ、見出される快感は、はかりしれない。
仏(ほとけ)には触れないが、仏像には触れることができる。
見ることができる。記憶することができる。
ならば、記憶の中に美しい数々の仏像たちをとどめ、本棚に飾るようにその姿を鮮明にするために何度でも逢いにゆけばよいではないか。