Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

モロッコに吹く風

2009-08-12 | 異国憧憬
遠からずモロッコに遊びにゆくという友人と話をしていたら、芋づる式にモロッコの空気とか色とかが脳裏をざわざわと横切っていって、こんなに気持ちよく晴れた夏の日に涼しいオフィスで仕事をしているのがばかばかしくなった。

 モロッコの記憶はすべて赤茶けている。カスバは崩れかけたのも、綺麗に補修してあるのも均一な赤茶色で、砂漠の色は石灰岩の薄い黄色とは異なる夕陽のようなオレンジ。空は抜けるように青く澄んでいて、緑もかなり豊かだったはずなのに、記憶の殆どを占めるのは粉っぽい質感で太陽と一体になるような赤茶。
それを補足して鮮やかさを増すのが、水売りが腰から下げるコップの色であり、夜のジャマエルフナ広場を彩る煌めく金色だ。都会のネオンやゴールドのような金では決してなく、真鍮のような鈍くて硬い光を反射するずっしりとした色。それを叩けば重たくて物哀しい音が聞こえてきそうな、それに触れたらうっかり涙が流れてきそうな、遠くて古臭い金色。

風が強い日に、髪がぐちゃぐちゃになるのが厭で、ベルベルの血を引くらしいアラブとは異なる顔の骨格をした道端の男性から一枚の布を買った。オレンジ色の布が欲しかったけれどなかったから、山吹色を基本に緑色が配置されたフリンジつきの布を買って、頭にぐるぐるっと巻いた。今にして思えば、せめてそこに居る間は土地の色を身につけたくていて、フリンジは風に舞う埃とか木々の葉とか、そういうものに似ていたのかもしれない。そういえば、あのときのモロッコはところどころで風がびゅうと音を立てるくらいに強かった。

車を止めて、革靴のまま浅い川をぴちゃぴちゃと渡って、気を抜くとずるりと滑るアイトベンハッドゥの砦を頂上まで登っていく。もともとが小高い丘だったのか、平らなところに日干し煉瓦を一から積み上げたのかはその外観からは判らない。ただ赤く、ずっしりと大きな、それは砦とか家というよりも、山だった。ほんの僅かながら、まだここで暮らす家族が居る。日々の雨や風で、山は少しずつ削られていく。削られていくそばから補修ができるように、山によってできる日影には新しい煉瓦が干されていた。土から生まれた大きな砦はそこに住む家族によって輪郭が維持される。
言い換えれば、彼らがどこかへ立ち去れば、この山はほどなく丘になり、そうして遠からず平らになり、吹き晒される平らな大地の一角に戻っていく。

大地の色の隅っこに流れるちょろちょろとした水と、記憶の端々を彩って振り向かせる金色の煌めき。それらを覆う淡い空の青は強い風に流されてしまって、私の目にはもう見えない。