Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

東大寺(重源上人像)

2004-10-24 | 仏欲万歳
 本日はちょっと異色な人を登場させる。ホトケでなくて、歴史上の人物である。
歴史上の人物の坐像がこの上ない名品となって通常ではその姿を拝むこともできないという扱いには訳がある。歴史上彼にしかできないことをやってのけた人であり、その時代に、いや現代になって文化財を眺めて廻る我々にとってもかけがえのない人であるからだ。
 そんな訳で、これも異色であるが少しだけ歴史的事象の説明もせねばならぬ。

 源平合戦のさなかの治承4年(1180)平重衡の軍勢が南都(奈良)を攻めたが、その兵火により東大寺、興福寺をはじめとする南都寺院のほとんどが焼失した。東大寺の大仏殿は、二階に逃げ込んでいた1700人にも及ぶ人々と共に焼け落ち、勿論大仏そのものも見る影もなく損壊。さぞかし悲惨な惨状であったと想像される。

 翌養和元年(1181)8月、朝廷から「造東大寺大勧進職」に任ぜられた重源は、諸国を勧進して寄進を募るとともに、源頼朝らの協力を得て宋人陳和卿(ちんなけい)らを登用するなどして大仏を修復・鋳造し、文治元年(1185)には後白河法皇を導師として大仏の開眼供養を行なった。
大仏殿・南大門をはじめとする東大寺伽藍の復興は、建久6年(1195)には大仏殿落慶供養を、また建仁3年(1203)には東大寺総供養を行なうことができた。

・・勧進職に就いてから僅か15年で、ほぼ現在の東大寺の姿にまで復興させたというわけだ。
  工期の短さにも目を見張るが(国交省にも見習って欲しい)、それだけの工事を完遂させる寄付金を集める実力に至っては、どう表現したらよいのだろう。政治家としか言いようが無い。
 
 とまぁ、重源上人とは簡潔に云ってそういう凄い人である。
彼の政治力と統率力のお陰で東大寺は見事復興に至ったわけであるし、彼の目に見出されたことで運慶・快慶を始めとする「慶派」が一気に花開くのである。彼が居なければ東大寺南大門の巨大で精巧な阿吽の仁王像を見上げて嘆息することも、興福寺南円堂の豪快な四天王を見ることも、今の我々には叶わなかったわけで、私なぞに言わせれば重源さまさまである。

彼が木彫の坐像となって今も座っておいでになるのが「俊乗堂」と呼ばれる気付かないくらいに小さなお堂。ここは鎌倉時代初期に重源上人によって創建された浄土堂があったところで、現在の俊乗堂は、16世紀の戦火で焼失した後、元禄年間に公慶上人が重源上人の功を称え菩提を祈るためにここに建てたもの。

快慶作と伝えられる重源上人坐像の脇には同じく快慶作の阿弥陀如来立像と、愛染明王像が居たらしい。それらもなかなかの名品であったはずなのに、失礼ながらさっぱり記憶にない。それ程、重源上人坐像にクギヅケだったのだろう。

上の写真は全身像でないので判りにくいが、まぁ所謂しわがれたお爺さんだ。
ちょっと猫背にちょこんと座り、口を不機嫌そうに結んで両手で数珠を繰っている。衣は墨色鮮やかで、まるで木彫の上に衣服を羽織らせてあるのではないかと疑うほどの写実描写。

そう、重源上人坐像はこれ以上ない写実描写の極みである。
枯れた首筋のしわがれ具合といい、帽子でもかぶったまま拝観しようものなら一喝されそうなくらいに不機嫌な口元。目は左右非対称に歪み、数珠を繰る指先はその珠の質感を確かめるように、老人独特のぞんざいな繊細さを覗かせる。
癇に障ることをこちらがもししたならば、星一徹ばりにちゃぶ台をひっくり返されて、それだけでは済まず硯のひとつも宙を飛んできそうな、そんな生き生きとした性格を備えた老人の姿がここにある。

偉い人の像を作る歴史は今までずっと続いているが、こんなにも不愉快そうで理想の欠片も反映させない像を他に見たことがあるだろうか?アイロニーでわざと醜く表現されているものを除いたとして?

 そりゃぁ、これだけの事業を成し遂げるにあたっては色々とワンマンなこともしただろうし、横車を押したことだってあっただろう。とはいえ彼は尊敬されてしかるべきであるし、現に彼の功績は称えられてきた。
今日しも、東大寺の仁王や大仏に目をやって「ふぇ~。凄いねぇ。大きいし、恰好いいし、モダンだねぇ」なんて感嘆する我々を、暗くて小さなお堂の中からこっそり見下ろして「へへっ。」とほくそ笑んでいるに違いない。

人体の廃墟。

2004-10-23 | 徒然雑記
 廃墟から感じるもの。それは破壊。刷新。時間。生命の痕跡。死の痕跡。
同じような感覚を、自分の身体で感じたことがある。

4年ほど前だと思う。かなり逼迫した生活をしていた時期に栄養失調気味になったことがあって、とはいえ痩せてくのではなくて、口内炎が悪化して血が止まらなくなったりしたくらいだ。
だけども食事をするのも痛くてままならなくて困っていたところ、知人がお勧めのサプリメントを私にくれた。そして日々の適正摂取量を教えてくれた。普段は頑固な私もこういうときは大人しいもので、素直に友人の言に従いその場で封を開けて飲み始めたものだ。

 それから2日後のことだった。
朝目覚めると、脇腹と胸のあたりに、小さな紅い斑点が浮いていた。

アレルギー体質の私は、すぐに気付いた。
 ・・・薬疹だ。まずい。
すぐに皮膚科に駆けつけてサプリメントの実物を見せたところ、まずは摂取を取りやめて代謝をよくし、老廃物をなるたけ早く排出させてしまいましょうということで、肝臓機能をアップさせる飲み薬を貰った。こういうときは素直なので(もういいか)病院で水を貰って、早速飲んだ。

家に帰って15分。
激烈な嘔吐感が襲った。すぐに気付いた。
 ・・・薬への拒否反応だ。やられた。
指を喉に突っ込んで薬を全て胃から吐き出し、水をがぶ飲みして再度指を喉の奥へ。胃を洗浄する。
怒涛のような一日であった。
病院には明日また行くこととして、とにかく代謝を早めるためにできる限りの水分を摂取して眠りについた。

 翌日。
朝風呂に入ろうと服を脱いで、愕然とした。紅い斑が背中から二の腕にまで広がっている。
溜息をつくしか、なかった。

それから一夜明け、また一夜明けるごとに紅い斑は身体のすみずみを侵食していった。腕から手の甲、掌まで。背中から腰、足を覆って足の甲まで。
まるで、夜を越えて紅い雪が私の身体にしんしんと降り積もってゆくように・・
朝を迎える度、私は鏡台に向かって立ち、自らの裸を眺めた。この紅い雪に日々じわじわと冒されてゆく自分の肉体。自らの生命と全く別の意思を持つ紅い雪が私を取り囲み、覆い、もしかしたら私はこの紅い雪に埋もれて爛れ腐れてゆくのではないだろうかと。
果物が腐ってゆく経過、今際の際にこの上なく豊かに香り立つ一瞬を自らに重ね合わせ、自らが爛れ腐れるその経過を一瞬でも見逃したくなくて、嬉々として私は鏡の前に立ち続けた。

 自らの身体を廃墟に見立て、生きている完全な形が崩れ溶けてゆくさまを物凄い早回しで見ている錯覚。
その想いは恐怖であり、同時にまぎれもなく甘美な陶酔であった。


東慶寺(水月観音)

2004-10-22 | 仏欲万歳
 来週から再来週にかけて、北鎌倉が綺麗に色づくころ。

「縁切り寺」の名前で有名な東慶寺という山際の寺がある。
風情がよいところで、澁澤龍彦や和辻哲郎の墓があることから個人的に何故だかとても好きなところであったのだが、テレビ版「失楽園」のロケに使用されたことなどもあってからちょっと足が遠のいている。

山際の小さな門を自らの手であけて中途半端な手入れで美しい苔やシダの茂る階段を登ってゆくと、まるで個人宅のような社務所が右手に現れる。最初に行った折には木々を見上げているうちにふらふらと通り過ぎてしまって墓所に迷い込み、慌てて戻ったものである。
入り口の鐘をコロンと鳴らし、予め連絡を入れていた者であることを伝えると、清楚で品のよい女性が戸口を開けてくれた。

この地味だけれど風情満点の寺には鎌倉後期の水月観音が一体おいでになる。小さな坐像であるし、どどんと大きな本堂に奉られているわけでもなく、拝観のためには事前予約が必要なので名品のわりに知名度には欠けるかもしれない。

 このときも、若い女がひとりで、しかも紅葉も終わり頃の物寂しい時期に仏像目当てに訪れるということでかなり不審がられて予約を取り付けるのに苦労したものだったが、成る程ひとりで来るにはちょっと心細かった。
「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」
という句を思い出すくらいにざわざわと、怖いくらいに風が木々を渡ってゆく。「すごい」という言葉がかつて持っていたほんとうの意味が心の芯に響いて、ごめんなさい誰でもいいから私を護ってください、という気分に駆られるほどであった。

 そんな訳で、美しい女性が社務所の扉を開けてくれたときはどんなにか嬉しかったことか。
内縁を通り、突き当たり奥の仏間に案内されるとそこには、床の奥、壁にしつらえられた円形の室
の中にその麗しい彼女はおいでになられた。

所謂「白衣観音」と称される厚手の白衣を着ていると断言できる中国風のゆったりと深いドレープがのたうつ衣文を纏い、片手に蓮の蕾を持って目線を斜め下方に落としている。視線の先には、風の全く無い夜に鏡のように澄み渡った水の表に映ってかぼそく揺らぐ月の面影。ぽってりと厚い小さな唇は気のせいかほんのりと紅を差した跡が残り、節目がちな目にはまるで豊かに黒々とした睫毛が生えているかのような錯覚に陥る。
豊かな衣服の裾からは足の甲から先が覗き、その甲の肉付きと一本一本が生き物のような足指に視線は釘付けになる。逃げ場のないほどに官能的である。

衣服のせいか、ひらひらとした飾りを下げた宝冠のせいか大陸的(中国的)な風情をぷんぷんと漂わせたこの美女は楊貴妃もかくや、その座り姿、歩き姿、もしくはひとひらの手先の動きや目くばせひとつで悪人の心もとろかし、数千の人間をいちどきに動かす力を持つ。
厚手の衣服に隠された体躯の全ては全く見てとることができないのに、いやそれだからこそ、たった一箇所むき出しにされた足のつま先がどれほどの威力を持ち得るものなのか。

現実の世界の女より、ハリウッド映画の女より、比べ物にならないその妖艶さが放つ力を是非一度ご覧になって頂きたい。
それから暫くの間、骨抜きになること請け合いだ。


廃墟、それは街の骸骨。

2004-10-21 | 異国憧憬
 近頃、廃墟ブームである。

 リビアの首都トリポリからほど近い、地中海に面したレプティスマグナ遺跡の半円形劇場は、舞台の後ろがすぐ海である。今は、舞台背後の楽屋の壁が全て崩れ落ちてしまっているので、客席の高いところに座ると柱だけが立ち並ぶ間から海を見渡すことができる。

私の本棚には大きく引き伸ばされたこの劇場の写真がある。よくよく見ると、客席の片隅に後姿の私が小さくぽつねんと座っている。だから近付いてしっかり見ないと、この写真が美しい遺跡を写した既成写真ではなくて、ぽつんと居る私を含んだスナップ風景写真であることに気付かない。

 私はこの写真がとても好きだ。
その根拠は、廃墟が持つ「骸骨感」に加え「包容力」「懐かしい暖かさ」「無常観」を余すところ無く伝えてくれるからだ。
それぞれの要素について私なりに感じたことを連ねてみたい。だけれども、廃墟はもっともっと多くの何かを私たちに伝えてくれると知っている。しかし言葉にしたり分析するのはとても難しく、上質&低俗な廃墟論が巷に溢れていることでもそれは見て取れる。
これを読んで他に思いついた要素があったら、いくつでも知らせておくれ。

「骸骨感」
古代遺跡の廃墟を見たとき、かつてあったはずの美麗なモザイクや乱立する彫刻群、二階建ての壁や布製のテント状天井などが全て奪われ、基幹部だけをあられもなくむきだしにされて、当時の完成形から程遠いはずなのに何故か理想的で完成されたフォルムを感じさせはしまいか。
それは、人間や動物の骨格標本を見たときに感じる不思議な充実感、完成形や本質を感じるそれに似てはいないだろうか。

「包容力」
古代の街には、現在の我々が実際的に必要とするものは何もない。我々は部外者として遠い過去の街に入ることになる。それなのに、動物園を見るような、劇場で舞台を見るような、美術館で作品を見るような・・・それらに共通する一種の疎外感や距離を感じさせないのは何故だろうか。何故、時代を超え人種を超えた我々を拒絶しないのだろうか。

「懐かしい暖かさ」
廃墟には、それが古代の街並みであれ、廃屋であれ遊園地であれ、人間の生きた痕跡があり時を越えた息吹が残っている。今現在我々が生活している、数え切れない人間の意思や動きが交錯する密集した空間においてよりもずっと色鮮やかに生き生きと、今は居ずかつては居た人々の生活や想いが香り立つ。それはまるで距離と時間を経たあとになってはじめて、かつて愛した男の香りや癖や言葉が鮮やかな色を持ちはじめるように。
そして同じ口癖や仕草を持つ全くの他人から、かつて愛した男を連想してしまうように、廃墟はかつてそこに居た人々の何らかの痕跡を通じて我々と廃墟自身とを結びつけようとしてくる。我々はその甘く懐かしい感覚を享受し、デジャヴに似た不思議に泣きたくなる感情に囚われる。

「無常観」
廃墟は我々に見せ付ける。
時間というものの強さを、それを乗り越える何か別の目に見えないものの力とを同時に。
廃墟は我々に教えてくれる。
数限りない廃墟がこの世にあることを、あったことを。我々も等しく廃墟になることを。
そしてそのことは、決して哀しいことではないのだよということを。


 (※添付の写真は、私の本棚にあるものとは別のものです)


色彩談義@鉱物編

2004-10-13 | 徒然雑記
 さて、ほぼ一週間連続の雨&曇天となっており、秋雨とかいう風情がさっぱり感じられない近頃でございますが、いかがお過ごし。

 こうも鼠色と灰色、瓶覗きといったけぶった色の中で日々を過ごしていますと、どうにも鮮やかでぱきっとした色が恋しくなるらしい。よって本日は西武優勝セールに立ち寄り、深い赤の薄いシルクストールと、黒地に花柄の下着(勿論上下セット)を購入。改めて、色彩飢餓状態にあったことを実感した。明日は添付写真のペンダントをつけ、ジーンズに黒トレンチ、そして今日購入した真紅のストールを巻いて授業に行こう。下着はどうするか、まだ決めていない。あぁそうそう、下着があんまりに可愛いものだからそちらの写真を載せてもいいくらいだったのだけれど、やはり社会のご迷惑だろうから、やめたの。

 小学校の4年か5年の誕生日だったと思う。
今は亡き祖母にねだって、学校教材などを売っている店(といっても卸みたいな)にわざわざ出向き、ミニ鉱物標本50種セットを買って貰った。ミニと言ってもA4封筒くらいの大きさはあった。

ちびちびダイヤモンドの欠片から、とろっとした黄緑色のかんらん石、きらきらと剥離しそうで危うい白雲母と黒雲母。ぎらつく輝きがグロテスクで手にずしっと重い黄鉄鉱。不透明でセクシーなワインレッドの結晶が岩の間から覗くざくろ石。光を吸い込むだけ吸い込んで反射しない漆黒の石炭。

子供の掌にさえ収まってしまうそれらは本当に美しくて、こんなにも色や光沢や重さや質感がそれぞれ全く異なる鉱物たちが、自分が今この足で立っている地面と地続きのところに、あるいは自分の足の真下のずっと深いところに眠っているのだという素直な驚きと可能性に心は躍った。しかも、この陽光の下に掘り出されてからいかに美しく輝ける彼らであろうとも、地中奥深くに沈んでいるときその住処は真っ暗で、文字通り「眠りについて」いるのである。誰かに見出され光を浴びるその日までずっと、スリーピングビューティーさながらに。

写真の石は和名「天河石」アマゾナイト。不透明で深いエメラルドグリーンの地色の上に、一定方向に白い流れ星のような斑が浮かんでいる。それを「天河」と評した先代の感性は大層浪漫がある。
地から生み出されたものに天の名を、水のすがたを与えることの妙。

鉱物を身に付けることは、地球が秘めたなにか素敵な宝物をお借りする行為。
地球という三次元を超えたなにか、天などと呼んでもいいなにかへ想いを馳せても良いという赦し。





建長寺

2004-10-11 | 仏欲万歳
 えーっと、紅葉の季節に間に合うように・・ということで北鎌倉。
秋を迎えると、何かに引っ張られるかのように思い出す場所である。愛する仏像は一体しかないにも拘わらず。

 仕事をしていたころ。
11月下旬にたまった代休をようやく1日だけ消化することになった。通常こんな日は疲労でぐずぐずと眠ってしまって、気づいたらもう夕暮れ・・ということが殆どなのだけれど、どうしてかその日は日々の癖で午前中にしっかり目覚めてしまった。珍しくあまりにくっきりさっぱり目覚めてしまったため、ちょっとお出掛けすることにした。行き先は北鎌倉。

車窓から大船観音を眺め、ちょうど昼には到着。
円覚寺からはじめるところ、御朱印帖がもういっぱいになってしまっていたので、納経所で購入。
「ここ(名前を書くところ)、どうしますか?」と受付のご住職に訊かれたので自分の名前を教える。
「言葉は、どうしましょう?お名前だけでよろしいですか?」
「お任せいたします。」
御朱印帖の表紙には名前を書く白地の欄があって、勿論名前だけ書いてもよいのだけれど、名前よりもうひとつ何かを書くことのできる中途半端なスペースがある。私は通常、そこになにかほんの短い一単語を入れることにしているのである。
「では、先に御拝観をお済ませ下さい。帰りがけに取りに来てくださいね。」

息を切らせて鐘楼までの階段を往復したりもして、台湾リスにチョコレートを奪われたりなどして、帰りがけに受け取った御朱印帖には私の姓の上に「雪月花」と美しい墨文字があった。

 浄智寺を過ぎ、建長寺へ。
鎌倉時代に大陸から伝わった禅宗と五山文化を日本独自に解釈して「鎌倉五山」と「京都五山」が作られたわけで、先の円覚寺や浄智寺と同じく、鎌倉五山のひとつに数えられる。建物は消失して再建されたものばかりであるが、境内の伽藍配置が禅宗独特の形を成している。禅宗と五山文化が、この時期に形成・洗練される「武士道」というやつの背後に流れる大切な水脈なのである。

さして思い入れのない寺の、やけにこじんまり纏まった小さな禅宗初期の庭園。紅葉はもう終盤で、紅葉以外の木々は殆ど枯れかけのような寒々しい状況。平日でもあるし、紅葉のさかりを過ぎたことでもあるし、私のほかに拝観者は誰もいない。せせこましく窮屈な、箱庭的美しさを持つ庭園に向かって、外縁によいしょと腰を下ろす。本を開くでもなく。

すると、暫くして大層場違いな響きが聞こえてきた。

  カキーーン    「えーーーーい」
    カキーーーン      「おぅーーい」

なんだなんだ。
目に見えるのは散り際の紅葉と、池に泳ぐ鯉、そして庭園を深く隈どる常緑樹。
耳に聞こえるのは連発する金属バットの音となんとも表記しづらい掛け声の連呼。そして、これが果てしなく続く。

 確かそういえば建長寺のお隣は野球の名門鎌倉学園。午後の練習が始まってしまったらしい。
嘆息しながら庭園に取り残される。
目に見えるものが脳内に呼び起こす形なきイメージや印象と、耳から侵食する音が呼び起こす印象があまりに食い違うと、それぞれの不協和音が頭のなかでわんわんと鳴って船酔いのようになる。大人しくじっとしていられず、なんかそわそわうろうろ、動物園のしろくまみたいだ。
野球少年たちに罪はない。
とはいえ、逃げるように次の寺へ向かったのは言うまでもない。


手首の重み。

2004-10-09 | 物質偏愛
 私は、フェティッシャーである。
腕時計、指輪、髪型、爪紅、靴、鉱物、珈琲。
経済的になんとか所有できる範囲でさえ、これだけある。手の届かないところまで考えたらもはやきりがない。

物質を物質としてそのフォルムや重みや色彩などを愛することは、ついには蒐集へと発展してしまう。手にとって肌触りを愛し、身に着けて可愛がる。さても最も美しい形態は「陳列」である。
ひとつひとつのモノたちの魅力は勿論のこと、同種のモノたちが一堂に会することによって成立する小宇宙全体が奏でる美とハーモニー。数がひとつずつ増すことによって自らの小宇宙が微妙に変化を加えて発展し膨張してゆくのを眺めるのが心地よく、そのためにきっと人は蒐集をする。

さて、話が逸れた。
腕時計は、その小さな閉ざされた空間の中に機械が詰まっているという近代的な「メカ」の美に惚れたのであって、さすれば当然欲しいものたちは自動巻きであったりクオーツでも何らかの機能を伴うものであったりして、女性的繊細さはないものの、重たくて機能美に溢れ、セクシーだ。
コレクションの中のひとつが最近危篤状態にあり、オーバーホールで最低でも五万円かかると聞き、取り敢えずちょっと凹んでいる。  

そんな時計に合わせるアクセサリーというのが難しくて、女性らしい繊細華奢なものがどうしても時計と仲良くしてくれない。筋肉系の男性に昔風女子大生がくっついているみたいな不協和音が響いてくる。
そんなわけで、男女兼用もしくは男性用のシルバーの装身具を自分サイズに加工したり、必要以上に大きい天然石を探してきたりすることになる。小学校以来の鉱物好きとしては泥沼にはまるほんの一歩手前で頑張って踏みとどまっているという感じである。

まぁ、そういった時計にそういった飾り物をくっつけるわけなので、手首から先は異様に重たくなる。時計が100グラム以上あるに決まっているし、ブレスレットをすれば更に60グラム。指輪も複数つければ馬鹿にならない15グラム。これで歩いていたら遠心力でそのうち左腕だけ伸びてきそうな勢いだ。

 それがまた、快適なのだよ。
 左手首が重いという感覚が。

自分でないもの、明らかに異物であるものが、しかもそれらは私の選び抜いた愛すべき異物たちが私の左手首に絡みついて存在を主張しているという状態。それは猫が足元に擦り寄るだけでは飽き足らず、わざわざ踏まれそうな危険ぎりぎりの動きをしたりしてこちらの気を引こうとする姿に共通する何かを感じさせる。
本当にどうしても眠くて疲れが溜まってて廃人寸前になると、たまに時計や指輪を忘れて家を出たりすることもあるが、そんな日は一日中落ち着かなくて、もうなるたけ早く家に帰りたくて仕方ない。

 異物に絡みつかれている自分。
 何かに拘束されている自分。
 しかし、その「何か」は結局自分の支配下にある。

都合のいいものなんだよ、フェティッシャーっていう奴は。
結局のところね。


文字と色との良好な関係

2004-10-08 | 徒然雑記
 研究室の周りの金木犀の花が満開になり、授業の合間に開いた窓から教室に流れ込む香りが嬉しい今日この頃。
金木犀の花はくすんだ橙色。
教室の壁はくすんだ白。
指導教官のお部屋の壁はなぜだかこだわりのライムイエロー。

 昔語りになるけれど、それは今までも続いているのだけれど、文字や音の響きに対して世の中の人々はそこからイメージや色をどのように読み取ったりしているかが凄く気になっていた頃があった。

「あ」は朱色。
「ゆ」は軽いピンク色とオレンジ色とのあいだ。
「た」は若竹色。
「そ」は灰白色。
「つ」は白味の強い空色。
「く」は少し透明度や白が霧のようにかかったみどりいろ。
「め」は黄茶。
「ぢ」はえび茶。
「り」はレモンイエロー。

そんなかんじに。

ある色の頭文字に引きずられることなく、色をイメージする。
カラーセラピーが流行の昨今だけれども、耳から聞く音、聞くことをイメージする音は色彩と繋がって、あるイメージを無意識に脳内に落とし込んでくるはずだ。音の並びで、「聞きづらい音」や「不快な音の並び」「安らぐことば」「リズミカルなことば」という感覚が、語彙のイメージとはまた別に浮かび上がる。

勿論、本来ある言葉の意味と音によって引き起こされるイメージは相乗効果を持っている。[車の名前にはCやKの入っているものが多い][女性雑誌にはRの音が用いられることが多い]ということをご承知の方もおいでになると思う。それは、CやKはスピード感やクールな感じを、Rは綺麗で明るく、洗練したイメージを人に与える、という検証に基づいたマーケティングの一手法である。音のもつイメージと押し出したいイメージがいまひとつ不一致の場合には、文字をひらがなやカタカナ、漢字、ローマ字へと変化させることによって、文字がもつ表象としての「かたち」と「音」との協力体制を築ける場合がある。


 自分の名前に、色を与えてみてください。
 そして、自分の名前をひらがなやアルファベットに分解して、それぞれに色を与えてみてください。
 時間があれば、五十音すべてに色を与えてあげてください。

自分の名前が、ただ自分を示す記号としてだけでなく、独立した色をもってそこに立ち現れる。
色をもった自分の名前は、自分に似合う色とはまた違うなにかのイメージを示唆してくれるはずだ。




正法寺(如意輪観音)

2004-10-01 | 仏欲万歳
 ここのところ、近江、若狭のあいだをうろうろしている。
今日は小浜の入り組んだ日本海を眺めながら、思い出し話をしたい。

小浜の浜には、人魚の像がある。
ここで人魚があがるというヨーロッパ的なおはなしではない。
人魚の肉を食べて不老不死の肉体を得てしまった比丘尼が、この浜の近くにある寺の岩窟内にて入定したという話があり、その岩窟にも散歩がてらいってみたが、老婆姿の比丘尼像より、若い女の人魚像のほうがカタチになると思ったか。云われなければ小浜と人魚の繋がりは判らない。

ついでだが、とある小学校の前に、象の像がある。
洒落だと思われるのも小癪だけれど、ほかに書きようがない。
これは、日本で初めて象(インド象)が上陸した小浜の港を記念したものであるという。まるで小学校に付属したような位置にあるので、これも一見して云われは判りにくい。そして、象の像が小さめなのは、恐らく陸揚げされたのが小象であったと推測されるため。
残念ながら、陸揚げの記録はあれど、京都に到着したという記録はない。合わない気候で、京都に着く前に死んでしまったものだろうか。

 そんなふうに、小浜には海から色々なものがあがって来、海によって人との関わりが変化した。

小浜駅の向かいにある観光センターで長居をした。
受け付けのご婦人がとても優しく、私の拝観ルートに入っていないところでお勧めがあると云って教えてくれた。丁度その夜お茶会があってそこのご住職と逢うので、そのときに明日の拝観が大丈夫かどうか確認してくれるとのこと。シーズンオフに、たった一人で、若者が若狭の仏像巡りに訪れたことが余程嬉しいご様子であった。

さて翌日。
日本海の望めるホテルから散歩すること15分足らずで、紹介してくれた寺に到着した。
民家と合体したような、こじんまりとした寺の玄関を開けてくれたご住職は、小さな尼さんだった。
話は前日に聞いているから、とにこにこして本堂の厨子を開けてくれた。丁度イラク戦争が開戦した日で3月の末であったが、小浜の春は遅いから朝はまだ寒いでしょうとストーブも焚いてくれた。

 開けてくれた厨子の中は、金銅製の如意輪観音。坐像で、像高は記憶によると40cm程度。ご住職と同じようなまぁるい優しい顔をした、小さな仏だった。
出自は明らかではなく、恐らく平安末期であろうと推測されるシンプルな鋳造製で、思惟の指先も決して動き主張することはない。
言い切ってしまえば、美しく優しい仏像ではあるけれど決して秀でた名作という訳ではない。
それなのに記憶に残っているのは、ご住職のあるひとつのお話によるものだ。

 この仏像は、ずっと長い間秘仏だった。だから今でも、毎日厨子を開けっぱなしにはしない。
あるとき、奈良国立博物館への出品をどうにも断りきれなくなり、出品を引き受けることになった。
ご住職は、仏像が厨子から出されて、その代わりに狭い梱包に閉じ込められて、トラックに乗せられて長い道程を揺られ揺られするという状況を想像しただけで、その御身が心配で居ても立ってもいられなくなったというが、クーリエでもあるまいし、同行は許可されなかった。
そして寺の所用が一段落した日、普段あまり遠出をしないご住職が意を決して奈良まで足を伸ばし、展示されている如意輪を見にいった。無事に陳列されている如意輪を見て安心すると同時に、なんとも場違いな所に座らされてしまっている淋しさを胸にたいそう痛く感じたそうだ。
そしてそのとき、もう二度と他所に出品はすまい、と固く誓ったそうである。

 私は彼女の決心を是とも非とも云うことができないが、仏像とともに日々を暮らし、祈りを捧げ、お掃除をして供物を捧げつつしてきた彼女だからこその深い情と想いは、さもありなんと思う。
ご住職が仏像に捧げる、仏に対すると同時に、母が子を想うような情愛。
それだけのために、この寺を忘れることができないでいる。