Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

春のおわり。

2006-04-30 | 春夏秋冬
 頭が弾け飛びそうな頭痛も一段落し、枕元の窓を開けると青空に伸びる笛の音が聞こえた。

久々の晴れ間は、曇天に俯いている隙に最早過ぎ去ってしまった春が遠ざかりゆく足音とその後姿とを明瞭に自覚させて、私の心に誰のせいでもない後悔をふと呼び起こす。

不安な程に高く抜けゆく竜笛の音は、しゃらしゃらと擦れる竹の葉の音を柔らかいクッションにして、安心してその身をしゅると長く伸ばす。そう、たとえ崩れ落ちたとしても、足元の竹林がその身を支えてくれるのだから。

それはまるで一面に敷き詰められた柔らかな緑の苔に囲まれた中に一本すっくと伸びる檜の大木。目を細めて人はそれを見上げ、ほうと嘆息する。檜は自らの足元を固く覆い包む苔の柔らかい湿度に安堵するからこそ、その枝を伸びやかに差し交わして人々の不躾な視線を受け止めることができる。

 まさにそんな風情で、あの笛は。


 阿弥陀仏を背に居並ぶ薄墨の手元から織り成されるヴィヴィッドな音の綾。鮮烈な音は四方を護る仏の領内を飛び出し、壁を突き抜け、外陣を巡る竹林に優しく戯れてから街に繰り出し、私の枕元に届いた。薄暗い堂内を充たし、収まりきらず、その身をどこまでも自在に届かせようと。
果てなく伸びる五色のリボンはときに絡み合って、ときにほどけて、揺らめきながら一瞬間私の耳をくすぐったのち、高い高い空へ。

 その音の行方を追って振り向いた私の視線の先には、風にさざめく竹の葉にじゃれつく二頭のアゲハ蝶の淡いゆらめき。

春は、過ぎゆく。



生誕120年 藤田嗣治展

2006-04-25 | 芸術礼賛
東京国立近代美術館にて藤田嗣治展が大好評開催中(5月21日まで)である。相次ぐテレビ放映のお陰か目下大混雑の様子であるので、まだ訪れていない方は平日を選択するか、それが不可能であれば土日の開館時間に合わせて行くのが宜しかろう。いずれにせよ一定以上の覚悟を要することには違いない。

恐らく、あと数十年の間には、この規模での充実した展示が行われることはないであろう。フジタの名やその作品を知らない人であっても、どこまでも異邦人であり続けたフジタの生涯と、その美意識を垣間見ることは決して無駄ではないはずだ。
もしも、貴方が同じ日本人であるという自覚があるのならば。

 このブログで私がプロフィールに用いているのは、フジタ晩年期の作品である。思いつめたような、あるいは心ここにあらずといった少女特有の視線。何か大事なものをその胸の内に包み込むように組み合わされた両の掌。大人になってしまったはずの自分自身の内に、どこか醒めきらずに揺れ動く熱情と不安とを同時に飼い続ける彼女を飼っておきたい。
そういう意味においてフジタの少女は、私が失いたくないと熱望する「少女」という幻影そのものだ。
因みに、この絵は実家のダイニングに無造作に架かっており、独居の我家にはその分身(コピー)が彼女の存在を常に自身に自覚させるべく、棲んでいる。

今回の展示は、フジタの生涯とその作品とを絡めて時系列に追っており、各時代の情勢と、その中でフジタが置かれ「ざるを得なかった」立ち位置及びそれゆえの作風の変遷とを明瞭に示している。各時代の作品群は偏りのないヴォリュームで配され、従来の「フジタ」の固定化されたイメージを払拭し、なお豊かで攻撃的な輪郭を与えるのに充分なものとなっている。

「フジタの乳白色」と呼ばれる、どこまでも繊細でたおやかな肌色と墨の描線、その裏に深く滔々と流れる熱情。いのちの動性に裏付けられているからこそ魅惑的な、静謐な空気の漂う画面。静かな面立ちの裏にある想いや生活を抉り取った、ポートレイトを超越した肖像。

それらは、日本人としての暑苦しくない表現によって巧みに隠された、暑苦しい情動や葛藤を現代に生きる我々に見せ付ける。

 表現とはなにか?
 直球とはなにか?
 冒険とはなにか?
 静謐であるとは?
 いのちとは?

 様々な方法を試し、様々なモティーフを使って彼は静謐な画面や騒がしく神経質な画面を組み立てる。その向こうに必ず共通して流れている熱情。その更に向こうに流れるものとは。

 わたしとは誰か?

確固たる自身と表現とを持つ異邦人フジタ。
物理的、精神的な流浪ののちに彼が「わたし」を見出した場所とは。その方法とは。


こんな夢をみた【4】。

2006-04-22 | 夢十六夜
 今日も春の雨が降っている。
風はあまりないから服を突き抜けて刺す冷たい痛みもないし、ほんわりと暖かい湿度の粒子が身体の周りをヴェールのように覆っているかのようなごく弱いプロテクションを感じて少し優しい気分になる。

近所の川は相変わらずどす黒い色をして、橋のうえをゆきかう人々のカラフルな傘が流れゆく速度よりもなお遅く、よどんだ速度で優しい混濁とともに流れている。私は緑と黒のストライプの細い傘を差し、ひとつ隣の橋に佇み、100メートル先を流れるゆらゆらした色とりどりの傘の流れを見詰めていた。

真っ白な空の下で、灰色の水の上で、中空に浮かんだ細い細い橋の上だけに横一列になって色彩見本が右に左に流れる。色のひとつひとつが音符のようで、それが左右に交じり合いながら流れてゆくさまはまるでひとつの即興音楽のようで、薄暗い曇天の広がる空間を軽やかなものに一変させる。

 そんなことを考えていたら、自らの傘にぱたぱたと落ちる雨粒が不定期な音楽を奏ではじめた。なんとなく嬉しくて、傘が半透明な訳でもないのに、ふと空のほうを見上げた。

私が雨だと思っていた天から降り注ぐものたちは、透明なアクリルのような素材でできた、2cmから3cm程のほんの小さな数字たちだった。

 26474859204756837553402・・・46246058・・・・・

1とか3とかの小さな奇数は、ぱちぱち、とかかちかち、とかいうような軽やかな澄んだ音を発し、4や6などの偶数は、ぽとり、とかことり、という若干の湿気と帯びたようなまるい音を奏でる。私は7とか9などの音がいちばん好きで、それらが地面に落ちる瞬間にはカリン、といったような神経質な硝子のような音をたてた。

それぞれの音を奏でながら空から漏れ落ちてくる千万の数字たちは、濡れた地面に落ちるとすぐ、すぅと水に溶けてなくなってしまう。あまりにもきらきらと綺麗に見える数字たちだから、それが音を立てた一瞬後には消滅してしまうことが惜しくて、私は片手で降りゆく彼らを受け止めた。

掌に偶然にも零れ落ちた3と8と1は、それぞれがぶつかりあって優しい情感を伴う和音を発して、私を微笑ませた。
地面に落ちたそれらと比べるとほんの数秒だけ長く、掌の中でその形を留めていた。



こんな夢をみた【3】。

2006-04-18 | 夢十六夜
 テレビでは騒がしく娯楽番組をやっている。
このご時世であっても、動物ものは視聴率が取れるのだろうか、きくらげのような小さい耳をした白い実験マウスが乾いた水槽の中で所在なげにくるくると動いている。恐らくその習性にまつわるクイズでも出題されているようだ。パネラーが居並び、たかがクイズ番組にすぎないのにきゃあきゃあとこちらの心を軋ませる笑い声を上げている。
私は帰宅してテレビをつけたばかりだから、番組の内容と無関係に繰り広げられるお喋りを聞いたところで、その意味を理解するところまで至らない。テレビというのはいつからこんなに不便になったものだろうか。快適でないことを充分知りつつも、見るともなしに画面を見続ける。

マウスの入った水槽は、よく見ると二重構造になっている。金魚でも入れるような小さ目の水槽の中にマウスが居て、その水槽は入れ子のようにもう二まわりくらい大きな水槽の中に収まっており、外側の水槽には10cmほどの水が張ってある。そしてその水と水槽のガラスのほんの隙間に、子供のワニがぽうっとした半眼の瞳をして、起きているのか眠っているのか判らない様子で、居た。画面がズームしてくれなかったら、いつまでもその存在に気付かないであろう沈黙で。

 パネラーの回答が出揃って、アシスタントと思しきスタッフが、ごくごく威力の弱い爆竹のようなかんしゃく玉のような小さい紅い粒を、これ見よがしに指でこちらに示したあと、爽やかな笑顔で白い歯まで溢しながらマウスの水槽にぽいと投げ入れた。指からふたつみっつの紅い玉がスローモーションのように、ぱら、と散った。

紅い玉は果たして狭い水槽の中で傍若無人に弾ける。幼児でさえ驚かないであろうほんの僅かな衝撃波でも、マウスにとってはえらいこと。ガラスの檻の中でキィキィと哀れな悲鳴を上げながら残酷に透明な壁をその爪できりきりと引っ掻きながら、ついには水槽をよじ登り、つるりと重心を崩して外側の水槽にぼちゃんと落ちた。

カメラは更にズームする。
空気に溶けていたワニの子が、閃光を浴びたかのようにその尾を俊敏に翻らせて、くわっと白いマウスに歯を剥いた。画面の半分近くは、大きく開いたワニの口の中。それはどこまでも紅く、艶めいてきらきらと光った。そして白いマウスは身体半分をそのぎざぎざの口に収められつつ、なお前足をばたつかせながらガラスを掻いていた。苦しげに呼吸するマウスの口の中も、同じくらいに紅く。実験を見届けるスタッフとパネラーの笑顔は、比してどこまでも青白く。
私はテレビを消した。
 

妙に醒めた気分だ。
仕事で疲れて掃除が行き届かない部屋、テレビ脇の足元には、自分が描いたらしい鉛筆書きの絵が、画用紙からそれぞれ乱暴に切り離されて積み重なっている。海坊主のような影が壁の向こうから覗いている絵、手書きの精緻なチェッカー模様のひとつが、底なしの罠となってぽっかりと口を開けている絵、軽やかなリボンが絡まって出来ている樹木の絵。
ふん、と足先で踏み潰し、リビングに背を向けてベッドへ向かう。



 がさ、がさ。
 ぱらり。ぱらり。
 こと、こと。がさ。


姿の見えない足音だけが玄関からリビングを通り、部屋に響き渡る。
先程足蹴にした画用紙がめくられ、中空に取り上げられ、再び床に放られる音がする。一枚一枚、ゆっくりと、じっくりと、まるで受賞作品を吟味するような丁重さで、ひとつずつ。

私は扉を隔てただけのベッドの上で醒めたままその音を聞いている。
「掃除を怠けていないでちゃんと捨てておけば、こんなことにはならなかったのだろうな。」
ふぅと溜息をついた。
画用紙をめくる音が消え、足音が私の寝室へと向いた。

目を閉じた私の目蓋の裏に、白いマウスの紅い紅い口が映った。



雨がふる。

2006-04-13 | 徒然雑記
 気に入りの黒いトレンチコートは雨でずぶ濡れだ。
雨があがっていたから会社に傘を置いてきたというのに、駅を出たらさもご機嫌な様子でに降っている。その雨の威勢のよさと上機嫌なさまに、悪態をつくでもなく雨の下へ足を踏み出す。

 雨に濡れるのは嫌いじゃない。
眼鏡越しの世界は水玉になり、車のライトや店のあかりが露に乱反射して、至近距離の視界を色とりどりのパールで埋め尽くす。決して焦点を合わせることができない万華鏡を覗くようなもどかしさと、大掛かりな万華鏡の中に入り込んでしまったような浮遊感を伴って、水を吸った革靴の足取りも軽く、家路につく。

 髪から水を滴らせ、黒髪はより一層その黒を増す。視界も曖昧で、鍵穴が見当たらない。がちゃがちゃとあらぬ処を探っている間に扉が開いて、崩れた視界の向こうから、輪郭線が捉えられないために他人のようにしか見えない、恐らく間違いなく見知っているはずの男の顔が覗いた。「おかえり。」その声の輪郭は確かで、むしろその声までも水滴に歪んで朦朧としたおかしなものになってしまえばいいのに、と少しだけ思った。

 びしょ濡れの服に包まった自分の身体は、歩みを止めた時点で突然重くなる。コートを椅子の背に放り投げ、部屋の中に向かいながら服を順に脱ぎ捨ててゆく。そして最後に、今まで万華鏡の世界を見せていてくれた眼鏡を外すと、視界にあったきらめきの代わりに、辛気臭い霧がやってくる。それはとても興醒めなことだ。たとえ自分の眼の焦点が合わないことには変わりがないとしても。

 結局のところ朦朧とした輪郭しかもたない男にキスをして、髪に含まれる水を男の肌になすりつける。そのとき初めて、私は自分の肌が冷え切っていることを知る。茫洋とした男はその腕や背中を私の肌に密着させることによって、輪郭を帯び始める。そして私は、男を認識しはじめる。雨の残した水を僅かばかり互いの肉体の間に隔てて、その水を媒介として、私は自分を認識する。
男の声と息遣いと、全て私が知っているはずのもの。その温度も、熱も、偽りも。
そして次の朝になれば、その男はふたたび茫洋としたものに成り下がるだろう。


 冷えた身体が温まるまでには、恐らく一時間とかからない。
 私は、雨に濡れるのが嫌いじゃない。



三の丸尚蔵館【花鳥-愛でる心、彩る技<若冲を中心に>】。-第一部-

2006-04-09 | 芸術礼賛
 腕を固めていたギプスが解除されたのは、新しい苦痛の始まり。
柳の若葉が花曇りを透かす陽光に照らされ、風に揺らされるさまが堀の水面に映る。水の中で揺れる柳の枝をくしゃっと砕いて、黒い鯉がすり抜けてゆく。
季節は春。
三の丸尚蔵館の季節。


近年の修復により、裏彩色(うらざいしき)の技法が用いられていることが発見され、注目を浴びた伊藤若冲の「動植綵絵」30幅が平成18年3月25日(土)~9月10日(日)にかけて、計5回の展示替えを経て順繰りに公開されている。1999年12月の“皇室の名宝展”(東博)展依頼、長い入院生活後のお披露目だ。示内容や会期については第40回展開催要項参照。

「動植綵絵」とは、約10年の歳月をかけて制作された、生命の「神気」を描いた計30幅ワンセットの花鳥画(軸装)のこと。懇意であった相国寺へ寄進されたものが後に皇室に献上され、現在では宮内庁の管理下にある。

濃密な空間、生命の宇宙。まるで信仰にも似た、対象物への透徹したまなざし。そして、どこまでも高い描写力。琳派を学び、中国の花鳥画や南画を学び、その結果到達したのが「優れたものの追従では、真実を描けない」という『モノへの回帰』であった。数十羽の鶏を庭に放し、専ら卑近な食べ物であり描くべきものでは決してなかった野菜たちに接視し、筆によるその再現ではなく、それがもつ表面の姿を超えた真実の性質を、物質の既存イメージやその名を超えた新たな価値を付与し続けた。それは「奇想」と評せられた。

 今回の展示ではそのうち“芍薬群蝶図”“老松白鶏図”“南天雄鶏図”“雪中錦鶏図”“牡丹小禽図”“芦雁図”が展示されている。これらをもし画題画題別に分類するならば、「鶏」「花鳥」「小動物(虫・貝・魚など)」「雪景」などに大別できようが、個人的には、扱われているモティーフでの区別ではなく、その描き方、画面構成の仕方によって分ける方が面白いと考える。

因みに、今回公開されている6幅を遠近表現の視点から勝手に分類してみる。
個人的な判断であるので、鵜呑みにしたい方もしない方も、警戒して読むことをお勧めする。

①遠近表現について

 ・異なる遠近法の使用による空間表現
 ⇒“牡丹小禽図”“老松白鶏図”“南天雄鶏図”

パタン化され、物質の内部空間を排除されたモノと、濃密な内部空間をぎっちりと描き込まれたモノたちの競演。モノの重なりによって強調される空間の存在と、モノの並列によって限りなくゼロに近いところまで否定される空間の競演。

 ・複数の視線ベクトル、複数のアングルの交錯
 ⇒“雪中錦鶏図”“芍薬群蝶図”“芦雁図”
 
モノを横から見る自然。モノを上から見下ろす墜落。モノを下から見上げる眩しさ。
それらがひとつの画面の中に混在するときに発生する鮮やかなる眩暈。


勿論、作品を具体的に見てゆけば、それぞれが固有のものとして成立する。

“芍薬群蝶図”に見られる淡雪のような花弁の表現。やわやわと生々しく水気を含んだ淫靡な花弁の群れに集う、音もなく羽ばたきも弱弱しく飛来する蝶の群れは、ぞくりとくるような美と限りある生命の高貴な汚辱がたらりと零れ落ちてくるようで、私は気味の悪い笑顔を浮かべることなしにその絵を見詰めることができない。その生命の一滴を掬わんとして、背筋に恍惚の痺れを走らせて目頭も熱く、群れ飛ぶ蝶の描くS字の軌跡を追ってどこかへ連れてゆかれるのを望むばかりである。

“老松白鶏図”は、古来から格式の高く鶴や鳳凰とセットで描かれることの多い黒松に市井の鳥であるところの鶏をはべらせ、その高雅な鶏の風情や麗しい羽の神経症的な描写、どこまでも赤い太陽に威嚇するかのように嘴を開ける見得の芳しさ。松とは、このようなものであったか。鶏とは、このようなものであったか。
我々は、いや私は、あまりにも松を、鶏を知らなさすぎた。ここにあるのは、私の生活を通じて出会ってきた松でも、鶏でもない、別のなにか。「モノ」の魅力、「モノ」の本質がずきずきと伝わり、自分のまなざしのあまりの脆弱さに逃げ出したくなるわけなのだ。



 次回(展示替え後)に、続くことを期待する。



恍惚の供物。

2006-04-07 | 徒然雑記
 爪を短く切り揃えたところに逆説の色香が生ずるように、暗闇の視界しか持たないからこそ歩き姿が瀟洒であるように、人がその身からなにかを失うことは、代償とした等価のなにかを手に入れることだ。その「なにか」は往々にして人間の論理を飛び越えた、野生や直視できない光の世界のような、遠いところからやってくる。

不自由な身体が拘束具の中に縮こまっているから、自らの論理や言語や感情のすべては枷を失い、嬉々として身勝手に暴走する。そいつらの背中を忌々しく眺めながらも、卑屈な身体はむしろその暴挙を赦すように、動きを止める。


ふたつあるうちの一方の腕が、壊れた。
それだけ。

アタリマエにできるはずのあらゆる事象が私を試してくる。

「できないでしょ?」
「届かないでしょ?」
「頑張ったって無駄よ。」

唯一の発信機能である左腕を侵略されるだけで、私は途端になにもできない。

「起き上がれないでしょう?」
「悔しいでしょう?」
「泪を流して睨んだって、僕が君にキスをすることは、こんなにも容易だ。」


 試され続け、侵略され続ける無力感はやがて心地良い陶酔に変わり、私の左手から不毛な努力に向かう想いを奪おうとする。しかしその手が意志を失ってしまうとすぐに、左手を試してくれる声が聞こえなくなる。
すると私は歯痒くなって、もう一度その侵略の恍惚が欲しくて、再び眉間に皺を寄せながら不毛な努力を開始する。

 なにもできない、わたし。
 手も足も出ない、わたし。

それはなんて甘やかで恍惚とした霧を振り撒くような、極上のパロディだ。

あたらしく生まれる。

2006-04-05 | 徒然雑記
一年前の今日の日の出来事を読み返している。

成る程、相変わらずのドタバタ劇だったようで、苦笑う。

片腕が折れてなかろうとも、その混乱ぶりは大して変わらない。

常の日と変わらない無計画、申し合わせたようにこの日が締め切りの課題。

そして心地よい肉体の疲労。また一年、生かされた。



日付がちょうど変わるころ、重い身体と幸せな心と、友がちょっとだけ

わたしに掛けてくれた愛情とを引きずって帰宅した。



翌朝は入社3日目。

風呂上りでびしゃびしゃの状態な折に、電話が鳴る。メールがくる。

雨女を祝福するような盛大な雨。桜を散らせながら、わたしに降り掛ける。

傘を持てない私は、タクシーに飛び乗る。


雨は厭じゃない。

髪から水滴を滴らせ、タクシーで書類を開くわたし。

誕生日は厭じゃない。

腕を折られて暴力的なリスタート。



目標。粋(すい)を忘れず。

墨田川に一瞥、「どうぞ、宜しく」。



評価(語録)Ⅰ。

2006-04-03 | 無双語録
 入社式もないまま、新たな会社に迎えられる。
 利き腕を吊ったまま、仕事が始まる。

 入社初日までに、既にわたしというマネキンは綺麗にできあがっていた。


□ 社長編

「君たち、緊張しないでいいよ。お前は・・緊張してねぇか。」(初会議にて)
 ・・・滅茶苦茶緊張してるに決まっているではないか。

「返事までの【間】がいまいちだな・・まぁいい、追々教えてやる。」
 ・・・わたしは何をを求められているのですか。

「そのトニー谷みたいな眼鏡さ・・」
 ・・・古い。みんなキョトン顔じゃないですか。

「お前はおもろいが、何人もいると迷惑だから、みんなこいつの真似するなよ。」
 ・・・自覚してますから。


□取締役編

「お前みたいな娘はいやだ。」
 ・・・あなたのような父親も怖いです。

「俺、すぐ腹が立ってテーブルひっくり返そうとするから、お前押さえる役ね。
 ・・・だから、怖いですって。

「ギプスとれたら、鬼のようなリハビリしてやるからな。」
 ・・・泣きます。

「カスミかシーシャでも喰っておけ。」
 ・・・人間らしい食事をさせてください。


□主席編

「お前に酒は必要ない。昼から酔っ払っているようなもんだろ。」
 ・・・普通に、ちょっとひどいです。

「お前テーマパークとか行かないだろ。」
 ・・・ばれてら。

「いっぱい褒めてるじゃーん。」
 ・・・嘘。それは、嘘。




  これが私の職場初日。