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Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

わたしの知っているリビア。

2011-10-24 | 異国憧憬
わたしはあの国を知ってる。いや、知ってた。日本のメディアが説明する内容とはそれは全く別の国だった。

 わたしがリビアに行ったのは、2001年と2003年だった、と思う。
2001年に行ったときは、日本で既に伝染っていたと思われるインフルエンザが発症して、現地でえらいめにあった。年末だったからもうそれなりに寒いし、熱は39度超えるしで。
英語のできる現地人を連れて病院にいったら、観光ビザの旅行者にすぎないのに、無料で診察してくれて(連れの現地人も払ってないみたいだった)、解熱剤もくれた。帰りに薬局によって、市販の薬をかなり安い価格で、連れが購入してくれた。「医療費はどうしたらいいのか。保険とか?」と訊くと、「この国を見るためにわざわざ遠くから来てくれた人から、どうして金をとる理由があるんだい。この国はそういうバカげたことしないよ。」と連れは笑った。そしてわたしの体に毛布を3重くらいに掛けて、部屋を出てった。

 2003年に行ったときは、トリポリの旧市街老朽化のための復旧工事をしていた。今回、空爆にあって復旧がダイナシになったあそこだ。旧市街の入り口には、それはそれは白くて長い髭が絵になる老人が、募金を募っていた。帰国間近で現地通貨が余っていた私は、10ディナール(850円くらい)を手渡した。老人は、手元のつづりチケットみたいのを10枚ちぎって、わたしに渡した。
身振り手振りで話をきくと、集金したお金と、もぎったチケットの枚数を照会して、くすねることができないようになっているシステムだということだ。日本の募金(※あくまでも一部だが)よりもずっと信頼がおける気がした。いまでも、その募金チケットの半券はわたしの手元にある。

 カフェでまったりしていたとき、広場がザワつきはじめた。カダフィ大佐の車列が通るらしい。どうせなら見てみたいが、どれだけの時間待たなければいけないのか、と思っていたら、10分もせずにやってきた。交通規制は、彼の車が通るほんの5分か10分前。日本とは大違いの警備の薄さというか、豪胆さに驚いた。
警護の車も決して多くなく、カダフィ大佐本人は、窓を大きく開け放って、市民からの挨拶に応えていた。市民は、熱狂的にヒーローを迎えるというのでもなく、日本人が皇室に対してするみたいな、丁寧に敬う感じというのでもなく、むしろもっと親しげに、うまくいえないが、スポーツとか政治とかの地元密着型のアイドル(?)を迎えるみたいな、イェーイという明るい歓迎に包まれていた。独裁とはいえ直接民主制だからなのか、リーダーと国民の距離がやけに近しいなあ、と思った記憶がある。


 あの、あったかい国の風景はもう、ない。
ホームレスが居なくて(国が家をくれるから)、酔っ払いがいなくて(酒は禁止だから)、外国には珍しく、お散歩し放題だったあの国はなくなってしまった。

 今後のリビアがわたしが好きだったあの頃の治安と経済力を取り戻せるには、ものすごく沢山の障壁がある。
千葉県ほどの人口しかないあの広大な国が、もっと小さく分裂することも大いにありうる。
地図をみなくても歩けるトリポリのスークを、背後に気を使うこともなくフラフラと、もういちど歩きたい。


【参考】
-- カダフィの真実を知ってほしい  リビア 新世界秩序 NATO http://www.youtube.com/watch?v=aggieI4YAVw&feature

岩韻

2009-12-28 | 異国憧憬
 
「一番高いお茶は?」という問いに対する回答は、「一般的には、大紅袍」らしい。

 福建省北部、世界遺産にもなった武夷山という岩場が多い山で作られる「武夷岩茶」。それを代表するお茶が大紅袍(ダアホンパオ)。樹齢300年を超える茶木が4本しかなく、そこから作られるお茶は、量が極端に少ない(※挿し木で子木・孫木を増やしている)。このお茶が、日本円換算で20グラム約280万円超の値がついた年もあったそうだ。

 名前の由来も複数あり定かではない。古く、皇帝が近くを通った時に病気になった際にこのお茶を飲ませたところ速攻で回復し、皇帝がお礼に助けてくれた僧侶に最高位を現す紅の衣を贈ったという説。この地域に住まっていた高僧が病気になり、このお茶で治ったので、自分の紅の衣をこの木に掛けて香を焚き、感謝をした、など。僧侶は鉄則なのだろうか。かつてはアクセスの困難なこの武夷山中の岩場に、そばで寝泊まりをしていた番人もいたらしい。

  ・・・中国茶には僧侶か爺さんがよく似合う。
 


 年の瀬に1時間くらいは、ゆったりとした贅沢な時間があってもいいだろう。
1時間は、ゆったりとお茶を飲むのに丁度よい時間だ。
日中友好会館の中にある茶芸館は、店内のしつらえもスタッフのサービスも、まるで中国に居るようで心地がよかった。品揃えの中には台湾の銘茶も多数揃っているので、誰しもひとつふたつは好みのものがあるだろう。

「このお茶は三煎目がもっとも美味しい」と言って、大紅袍の一煎目と二煎目を惜しげもなく捨てる。
蘭に例えられる、幾重にも重なった小さな花びらがほぐれていくような香りがひろがる。
「熱いお茶と、ぬるくなったお茶を飲み比べて。熱いのはこう(手振りで、舌の奥から鼻のほうへ)香りが広がる。ぬるいのはこう(舌の上から鼻に掛けて、横に丸く円を書くように)広がる。」


 結局、三煎目の「ぬるいほう」が冷たくなるまでそこに居た。
冷えきった最後のひとくちは、まるで小さな淡い黄色の蘭ひとかけを咥えたようだった。






沖縄雑感 2009 - 神さまが近い国 -

2009-10-19 | 異国憧憬

 この会社に入ってからというもの、沖縄に行かない年はない。
とはいえ、いつもどこかのオフィスにいるかホテルを巡るかしているので、観光らしい観光は合間にちょこっとするくらいしかない。無論、ビーチやプールとは縁がない。
私にとっては、京都や奈良に次いで多く訪れている土地なのでそれなりに慣れた感があったが、訪れるたびに小さなカルチャーショックを受け、そのたびに、ここは確かに過去に違う国だったのだなと思う。


 沖縄には「ユタ」と呼ばれる在野のシャーマンがおり(正当な指名を受けた神職は「ノロ」)、神さまと人間との距離が近いところだなという認識はかねてからあった。とはいえ、ユタが生まれつきユタであるわけもなく、一定の力があると見なされた人々の中からユタは生まれる。本州で言うところの「霊感が強い人」というのを指すことばが沖縄には今でも残っており、「たかうまれ」と云うそうだ(※呼称は地域により若干異なるらしい)。

「たかうまれ」に対する一般人の理解は深く、『この道を通れません』『慰霊祭に行けません』とかいうことが、そうかそうか、さもありなんと認められるという。時代によっては、邪宗と云われてノロやユタが弾圧を受けた時代もあったが、いまでも、沖縄には名前のつけようがない眼に見えないものへの意識や配慮が根強い。


 かつては、各集落に御嶽(うたき)と呼ばれる聖域があり、世界遺産に登録されているグスク群は本来、御嶽を中心に発展した集落が砦状になったものという説もある。御嶽は海や水源や山などの自然の神が祭りのときに降りてくる標識であり、お盆のように先祖が帰ってくる際の標識でもある。御嶽の権威は今でも強く、内地の我々がやすやすと神社や寺に入るような気分でそこに近づくものではないらしい。

一方で、沖縄の墓はとても大きく家のような形をしているので有名だが、これには親族がみな納められること、また、かつては風葬であったことなどから一定のサイズが必要条件としてあったのだろう。先祖信仰があるわりに、生々しい「死」や「死体」は穢れとみなされ、現世とむこうのキワとされる「崖」に墓は作られる。人間の時間の末端である「死」と、それを超越した「霊」との関係は、今なお非常に古代的だ。


 なお、ニライカナイ信仰、御嶽信仰という言葉は、外部の人間によって当てはめられた単語であって、沖縄(琉球)に自分たちの信仰を意表する単語はない。




モロッコに吹く風

2009-08-12 | 異国憧憬
遠からずモロッコに遊びにゆくという友人と話をしていたら、芋づる式にモロッコの空気とか色とかが脳裏をざわざわと横切っていって、こんなに気持ちよく晴れた夏の日に涼しいオフィスで仕事をしているのがばかばかしくなった。

 モロッコの記憶はすべて赤茶けている。カスバは崩れかけたのも、綺麗に補修してあるのも均一な赤茶色で、砂漠の色は石灰岩の薄い黄色とは異なる夕陽のようなオレンジ。空は抜けるように青く澄んでいて、緑もかなり豊かだったはずなのに、記憶の殆どを占めるのは粉っぽい質感で太陽と一体になるような赤茶。
それを補足して鮮やかさを増すのが、水売りが腰から下げるコップの色であり、夜のジャマエルフナ広場を彩る煌めく金色だ。都会のネオンやゴールドのような金では決してなく、真鍮のような鈍くて硬い光を反射するずっしりとした色。それを叩けば重たくて物哀しい音が聞こえてきそうな、それに触れたらうっかり涙が流れてきそうな、遠くて古臭い金色。

風が強い日に、髪がぐちゃぐちゃになるのが厭で、ベルベルの血を引くらしいアラブとは異なる顔の骨格をした道端の男性から一枚の布を買った。オレンジ色の布が欲しかったけれどなかったから、山吹色を基本に緑色が配置されたフリンジつきの布を買って、頭にぐるぐるっと巻いた。今にして思えば、せめてそこに居る間は土地の色を身につけたくていて、フリンジは風に舞う埃とか木々の葉とか、そういうものに似ていたのかもしれない。そういえば、あのときのモロッコはところどころで風がびゅうと音を立てるくらいに強かった。

車を止めて、革靴のまま浅い川をぴちゃぴちゃと渡って、気を抜くとずるりと滑るアイトベンハッドゥの砦を頂上まで登っていく。もともとが小高い丘だったのか、平らなところに日干し煉瓦を一から積み上げたのかはその外観からは判らない。ただ赤く、ずっしりと大きな、それは砦とか家というよりも、山だった。ほんの僅かながら、まだここで暮らす家族が居る。日々の雨や風で、山は少しずつ削られていく。削られていくそばから補修ができるように、山によってできる日影には新しい煉瓦が干されていた。土から生まれた大きな砦はそこに住む家族によって輪郭が維持される。
言い換えれば、彼らがどこかへ立ち去れば、この山はほどなく丘になり、そうして遠からず平らになり、吹き晒される平らな大地の一角に戻っていく。

大地の色の隅っこに流れるちょろちょろとした水と、記憶の端々を彩って振り向かせる金色の煌めき。それらを覆う淡い空の青は強い風に流されてしまって、私の目にはもう見えない。




沈まない廃墟

2009-05-11 | 異国憧憬
 その島は、島なのだけど島じゃなくて、そこにひとつの国があったようだった。
 国が滅んだあとの遺跡が砂漠に埋もれかけているのと同じように、それは海の真ん中にぽっかりと浮かんでいた。国の名前が忘れられてしまったように、人はそのかたちを見て、軍艦島、と呼んだ。

 長崎港から端島(軍艦島)にかけては、造船と炭鉱のエリアだった。かつて、長崎市の子供たちは三菱造船の進水式が社会見学の場であり、散らばる小さな島々は海水浴のためのかっこうの場所だった。端島よりもひとつ手前にある高島はもっと大きいので、そこにはマンションや寮、映画館もあった。危険労働である炭鉱労働者の生活は優遇されていたから、高島の映画館の料金は長崎市内よりうんと安い。子供たちは漁船や高速船に乗って高島に行って映画を見たり、釣りをして遊んだ。

 もともと小さな岩礁だった端島は、人々がそこで生活できる広さまで、まるで増殖するように埋め立てられていった。地下600メートルの炭鉱、日本発のコンクリート造高層マンション、病院に隔離病棟、神社にお寺、パチンコ屋、小中学校など、火葬場以外のすべてのものを収めるための広さが必要だった。その島は住む人の生活を支え、高波や台風から護るために、軍艦のような威容を呈した。
神社のお祭りの日以外は年中無休の炭鉱の島はいつでも灯かりが点り、戦時中にはほんとうに軍艦と見誤って誤射されたという。

 わたしが生まれる2年前に、端島は生活の場として最後の日を迎え、小さな王国がなくなった。
 いまは、もう二度とあの厳しくも暖かい灯かりが点ることもない王国のほんとうの名前でその島を呼ぶ人は少ない。
「もう二度と、ここに来ることはないじゃろ。」戦前のようすを私に語り聞かせてくれた老人が、端島を離れるときに呟いた。それでも彼は、何度もカメラを懐に収めてはまた慌てて取り出すということを繰り返した。諦めと、もうひとつのなにかとの間に彼は立っていた。なにかを追いかけて捕まえたいと願うような焦燥にも似た動作で、遠ざかる端島に向かって何度もカメラを構え、シャッターを切った。

 
 決して沈むことなく朽ちてゆく軍艦の乗員は誰もいない。
まるで大きな岩陰に寄り添って休むように停泊する真っ白い小さなボートと、軍艦の甲板から静かに釣り糸を垂れる人がいるばかりで。





バカのバカンス

2009-05-01 | 異国憧憬

 「友達が海賊に襲われましてね。」

こんな日本語を人生のうちで使う日が来るとは思わなかった。
幼少の頃に覚える単語でも、使う機会があるとは限らない。
だって、海賊と我々の生活はかなり遠くにあるはずだから。

 大学院の頃の先生が宿泊していたバーミヤンのホテルで、真下の部屋が爆撃されたとか。
 イラクに取材に行った友人の車列の車が50メートル先で爆発したとか。
 「爆」という言葉を文字通り使うことも、まずない。
 旅行会社勤務の人にとっては常用語のひとつであるが、それはちょっと特殊な社会のおはなし。

 平和な国に生きている人々にとって、海賊は御伽噺や歴史の中のおはなしで、爆発や爆撃は映画や漫画の中のおはなし。こどもの頃、我々のあたまの中にいた海賊は「ザ・海賊」のような帆船に乗って、ときには片目がなかったりとか、ボーダーのTシャツを着ていたりする。間違っても、写真にあるようなボロ漁船には乗っていないし、陸の岩陰から攻撃したりはしてこない。
(※乗員は逃げ切ったので全員無事です)

 友達から送られてくるメールにはいつも、緯度と経度が記されている。 緯度と経度をPCに入力すると地図が表示されて、今どこにいるのかが数秒でわかる。これまで、海賊が出没するといわれていた海域よりもはるか北で予想外に出くわしたということもよくわかる。
 こんなふうに地球の反対側と即時連絡がとれるようになるとは思わなかった。
 
 自分の経験と技術の進歩と誰かとの繋がりによって、世界は狭くなり、匂いや音を感じるくらいの現実味を持ち、いまの私にとって地球はけっこう小さくなった。
地球を小さく感じられるようになることで、言葉が通じないことへの不安も徐々に薄らいだ。
平和があたりまえと思わなくなり、平和でない世界への根拠なき不安はなくなり、その代わりとして危険をはらむ世界での動き方や考え方を覚えた。危険はイコール恐怖に置換されるものでなく、ただの現実、環境としてそこにあることを冷静に受け止めてしかるべきもの。


 乗り物酔いのひどい私が、海賊に出遭うことはさすがに今後もないだろうけど。
 




HOTEL LOVER  - 誕生日の時間は1/2倍速が適当 -

2009-04-07 | 異国憧憬
 先週の今頃、「週末の誕生日をホテルで過ごしたい」と突発的に思い立って、大騒ぎで社長やら同僚やら友人やらにアドバイスを求めながら、2日後の木曜日にはホテルの予約を済ませた。
 
「旅行」をしたいわけではなく、「温泉」に入りたいわけでもなく、「美味しい御飯」が欲しいわけでもなく、ただ贅沢な「滞在」がしたくなると、旅館ではなくついついホテルを選びたくなる。
目的のひとつとしてどこかを訪れたり見たりすることもないし、多くの旅館がそうであるように温泉や夕食がついているわけでもないし、ただ部屋を借りるだけだとしたらホテルの利用とは非常に贅沢なもので、決してコストパフォーマンスがよいとは云えない。

 通常、私用で宿泊する温泉旅館は1名あたり\25,000~\30,000を基準で検討する。
 ホテルの場合は、1名あたり\16,000~\30,000(※連泊の有無も料金に影響するので幅がある)。
 旅館には夕食の料金が含まれており、温泉というオプションまであることを考えると、ホテルの割高感は否めない。恐らく、私が選ぶホテルと同等のサービスを旅館に期待しようとすると、上記に挙げた価格で収まるものではないが、同等のものを選ぶとなると一人あたり\50,000を超過してくること必定なので、なかなか現実的ではないというだけのことだ。


 ホテル西洋銀座は、日常的なお散歩コースの脇にあって、真っ白で、ひっそりと静かで、柔らかくてアットホームなホテルだった。決して「豪華」とか「ゴージャス」なんて言葉は当てはまらないが、どんなホテルでもそうあってほしいような、「正統にゆったりした時間」が流れていた。

 部屋は誕生日だからとアップグレードしてくれたジュニアスイート。部屋に戻ったそばから、ついさっき買って貰ったばかりのネックレスを身に付けて、薄っぺらいワンピースに着替えて、ベッドにばふりと横になる。
サイドテーブルに飾られたフルーツとマカロンの盛り合わせに手を伸ばしながら、珈琲がないことに気付いてバトラーに連絡を入れる。5分後には、珈琲と煙草片手にいつも通りのF1観戦。

 いつもの暮らしと凄く似たところにあるパラレルな別世界が、良いホテルの部屋のなかには必ずある。いつもの暮らしではあり得ないくらい快適で、すべてがいつもよりもゆっくりで、階段をひとつ踏み損ねたたような微々たる違和感が後頭部あたりにぺったりと張り付いている。

 優れたホテルという建物の隅々に満ち満ちている、不自然だけどとてつもなく柔らかいふわふわした時間が好きだ。
朝、いつも通りに目覚めるのを忘れたくなるのと同じように、そんなホテルの部屋から眺められる桜の枝は、たぶん少しだけ散ることを忘れる。
 




象徴としての黒部

2009-03-23 | 異国憧憬
 テレビで「黒部の太陽」を観た。
 TV局オフィシャルサイト

私たちの世代にとっては、石原裕次郎の出演した黒部の太陽の記憶は皆無といっていいだろうから、先週末の番組を見て、黒四の土木工事がどんなものだったかということを知った人も少なくないのではないかと思う。

 昨年、仕事で黒部ダムには二回ほど訪れた。同行してくれる関電の社員が、ごく自然な流れで殉職者慰霊碑の周りをささっと拭き清め、手を合わせていた背中が非常に印象的であった。その動作は計1分程度のことだったが、彼らはきっとここを訪れるたびに自然にそうしているのだろう。わたしは彼らと同じ気持ちにはどうしてもなれないだろうから、その社員に続いて手を合わせることが憚られて、やめた。

 大町トンネルは、電力で動くトロリーバスを使って抜けていくのだが、それでも結構時間がかかる。そして、ドラマでは計2時間以上を費やしただろう破砕帯のエリアには「破砕帯ここから」「ここまで」という表示がある。勿論、トンネルとして完成された今では、外見でその区別はつかない。けれど、看板で伝達したいというか、せざるを得ない、いや違う、伝達するのがごく当然のことのように感じられるから不思議だ。

 1950年代の黒部ダム建設は、即ち日本の土木技術の結晶であり、人のこころの強さであり、自然への畏れであり、その後の人の心に響く「黒部」という言葉は、決して単体のダムを示す言葉ではなかった。
人々はその言葉や風景の向こうに、なにかとても大きな人間の営みを感じていた。但し、それは初代の映画「黒部の太陽」の記憶がある世代のはなしに限られる。関電に現在も継承されている「黒四スピリッツ」という言葉は、象徴としての黒部を通じた偉大ななにかが後世で立ち消えてしまうことのないようにという願いや祈りのように聞こえる。


 あのテレビを見た人が、黒部に行きたいと薄っすらでも思ってくれるだろうか。
長い長いトンネルの中を吹き渡る凍るように冷たい風。それを抜けた向こうに壁のように屹立する硬いみどり色の山とそれに掛かる太陽、その手前を埋め尽くす巨大なダム湖を見下ろしてみたいと思ってくれるだろうか。

もしそのままの気持ちで足を運ぶことができるならば、美しい、と放言してしまうには怖ろしいなにか分厚く威厳のある石垣のようなものを、その風景と風のなかにきっと見つけるだろう。




台北再訪 - 春のおわり -

2009-03-04 | 異国憧憬
 記号だらけで文字が全く班別できない国では、日本語で全て通しきった。
どう見積もっても日本人よりは明らかに英語が堪能な人々の多い国なので、文字が読めなくてもあまり困ることはないだろうと想像していたが、日本語で乗り切れるとは思っていなかった(※言葉が通じるとは限らないが気持ちは概して通じる)。

 本日、ようやく漢字が読めて暖かい国に到着して一安心。
田植えは済んで若い稲が水面に小さく刺さっているのが見える。高速道路沿いのつつじや街路のブーゲンビリアが咲いている。既に春が通り過ぎた後のようだ。約3ヶ月前に来たばかりなので、なんだかこの国に対しては妙に馴れ馴れしい気分になる。

 前回滞在したのと同じホテルに泊まる。
そこで、重大事件発生。1ヶ月前から、台湾の全てのホテル館内での喫煙が法律上禁止されたとのこと。
それだけではない。レストランも全館禁煙、スタッフが3人以上のオフィスでも漏れなく禁煙。こないだまでは吸い放題の印象を受けていたが、いかんせん極端にすぎる。
 しかも、「密告制度」まであるようで、禁止区域での喫煙を密告されたら日本円にして約35,000~40,000円程度の罰金が科せられ、密告した側は数千円相当のお手当てが頂けるらしい。なんたること。

 あれまあと思いながら、気を静めるためにお茶でも買おうとコンビニに行った。
「フクロ、イル?」
「いる。」
「イル、1エンネ。」
 煙害防治法とエコはどうやらセットメニューのようだ。

 ホテルまでの戻り道で見かけるのは、排ガス除けのマスクをしたスクーターの車列と、信号が変わるのを待ちながら煙草に火を点ける人々といういつもの光景。
手の触れる距離にあるどんな姿も等しくその国の文化というものであって、それぞれの姿がいちいち調和するとは限らないのが常だけれど、自分にとってより生々しく見える姿のほうがやっぱりすきだ。ほんとうは、異国人のわたしの目に映るそのいずれもが、幻想に近いものなんだってことくらい判っているけれど。






ソウル雑感 - 感慨がないということ -

2009-03-02 | 異国憧憬
 私が極度の冷え性で寒がりだということをご存知の方には、なにかの罰ゲームだと思ってほしい。

 いま、十年ぶりのソウルにいる。
 

 かつてのソウルではコンビニでも、さかさくらげのネオン煌く安宿でも日本語どころか英語さえ通じなかったというのに、今日の夕方到着してからこのかた、私はまだ日本語以外の言語を喋っていない。高速道路にはETCがあるし、道行く人は小奇麗だし、スタバは日本よりも密集しているんじゃないかというくらいにあるし、車の運転もみんな穏やかだ。十年はひと昔、とはよく云ったものだと思う。

 ただ、これらの感想は新聞記事のように客観的なもので、記憶と重ね合わせたときになにかじんわりした感傷じみた気持ちを生み出すことはなかった。こんなにも心に響かない再訪というものをこれまで経験したことのない私は、新宿歌舞伎町と池袋サンシャイン前の通りを足して2で割ったような明洞の街を歩きながら静かに驚いていた。

 とはいえ、過去の訪韓の記憶が曖昧だとか忙しかったとか、嫌な思い出ばかりとかいうのではない。加えて、いまの私の心が途方もなくささくれだって無感動になっているというのでも多分ない。

 
 どんな街でも、いくつもの情報や人やできごと(総じて文化と呼ぶところのもの)が目に見えない音波のようなものを発しているとして、私にはこの街が奏でるいくつもの周波数に合致する受信機が偶然にも備わっていなかっただけのことだと思う。
多分ほかの人にはくだらないと思われる風景やできごと、会話、それらがときに一個人にとって重大な意味をもたらすのは、個々人がもっている受信機とその場面から発せられた周波数との相性に拠るだけのことではないかと。

 残念ながら私はこの街と共鳴したり、この街の風景の中に私が溶けている絵を後日想像したりすることは多分できない。
辛いか甘いかしかない食事に舌が耐えかねて本能的に涙腺が緩んだとき、心の底からそう思った。





台北雑感 (2)

2008-11-27 | 異国憧憬
 業務的な諸事情あって、お茶まみれの台北滞在となった。
 そういえば、11年前はろくにお茶すら飲んでいなくて、お茶の淹れ方というかルールすら全く知らないうちに(そんなものがあるということすら)帰国したような気がする。もしかしたら、忘れ去っているだけかもしれないが。

先刻まで腰掛けていたレストランの手洗い場に「嘔吐槽」なるものがあったことだって、もう10年もすれば忘れてしまうかもしれないのだ。記憶はどんな情報をどのように取捨選択して、遺していってくれるものなのだろう。


 今回アテンドをしてくれたガイド王さんのお陰で、タイトなスケジュールを順調にこなすことができた。御礼という意味ではないが、王さんについて少し書き留めておく。


・王さんは若い頃に横浜の中華街で働いていたので、調理師免許を持っている。
・王さんの父親は、蒋介石よりも4年早く台湾にきた。
・鄭成功の話を嬉しそうにする。
・過去に日本が台湾にした悪いことは2つあると思っている。
 ひとつは、女性に学問を解禁し、女性に知恵をつけてしまったこと。
 もうひとつは、KUBOTAの農耕器具を導入し、水牛を余らせ農村から若者が離れたこと。
・王さんは55歳、嫁は32歳で私と同い年。
・過去に、島津家末裔のご令嬢のアテンドをしたことがあり、令嬢ぶりにびびった。
・与那国島近海の海底遺跡ポイントを潜ったことがある。



 旅の途中に出逢える人間の数はとても少なくて、彼らの言葉はイコールその国の人の意見ではない。そのことはよく判っているつもりだけれど、旅の印象を最も大きく左右するのは、ほんの僅かな数の、僅かな時間だけ触れ合った人そのものだ。
私は決して王さんが台湾人代表だとは思わない。むしろ常に日本人と仕事をしている人だから、生粋の台湾人の気質とは異なるところが大きいかもしれない。
だけれど今後、台湾についての幾つかを思い出すときには、王さんの言葉や仕草がフィルターとなることが少なからずあるのだろう。

 とても断片的で偏ったフィルターを通じて見たなまなましい世界が、いわゆる「旅の風景」とでも呼べるものなのだろう。
個人的な思い入れ、機嫌、体調、出逢った人。それらのフィルターの影響を受けない純粋な風景は存在しない。いや、それが「風景」である限り、背景には必ず微笑ましい偏りが存在するべきなのだ。






台北雑感 (1)

2008-11-26 | 異国憧憬

 以前に台湾を訪れたのはもう11年も前のことだけれど、断片的な景色はよく覚えている。なのに、景色はどれもこれもモノクロじみていて、古臭くて埃っぽい。滞在中の殆どが雨だったから、全ての景色がけぶったままに記憶されているのかもしれない。

むっとくる湿気と暑さ、街路樹の枝から垂れ下がる有機的な蔓のかたまり。
信号待ちの先頭にやけに多いスクーターにスーパーカブ。しかも1台に3~4人乗っている。
屋台の喧騒、八角と果物が混じり合った腐敗臭寸前のような甘い匂い。
「野良犬」とは間違っても云えない、眼光鋭い「野犬」の多さ。

記憶の中の台北は遥か遠く鮮やかで、さっきまでてくてくと歩いていた街並みとはまるで景色を異にするから、きっと11年前の台北の景色と、今回記憶に留められる景色が脳裡で重なったり上書きされたりすることは多分ない。
ただ、亜熱帯系特有の湿気ばかりが妙にノスタルジックだ。


外国を訪れたとき、カフェに立寄るのと同じくらいに、コンビニやそれに類する店に立寄るのが好きだ。
コンビニは日常に密接すぎるからこそ、その土地の日常の一角を顕著に見せてくれる。その陳列されたものたちから、文化や習慣を推し量ることまではできないにしても。

・牛乳、あるいは乳酸菌飲料のラインナップが異様に多い
・「アスパラガスジュース」「青草茶」など青物系飲料が多い
・ファッション雑誌の半数は日本ブランド(ViViとか)
・ドリップ式珈琲の個包装が『和式抽出本格珈琲【森田珈琲~モソダコーヒー~】
・刺青雑誌が堂々と売られている
・煙草の並びで葉巻も売ってる
・買物するとなぜかミネラルウォーター1本くれる


観光って、国の光(すぐれたもの)を見ること&見せること、というのが語源だけれど、すぐれたものは結局文化そのものであるのだから、その国の人や日常の景色としっかり向き合うことだけでも、時に充分だったりする。
どこかを訪れたとき、「ここも行きたい、あそこにも寄りたい」と私が思うことが甚だ少ないのは、きっとそういうわけなのだ。








天守閣に降る雨。

2008-09-19 | 異国憧憬
 出張中の仮宿のバスアメニティが偶然ロクシタンだったということだけで、こうして仕事中の自分の髪からそれが香るということだけで、こんなにも心が緩む自分に少々の腹立たしさを覚える。その腹立たしさは、それが意図して欲した癒しではないということと、明らかに人工的なその上質さのせいだ。

苛立ちの源、それはきまって複合的であるから今更それを分解してどうこうしようという気はない。苛立ちは唯、苛立ちとしてそこに確かに巣食っているのだから、それを体感しその存在を肯定することだけで充分にそれを理解したことにも繋がろう。
そんなわたしの諦めを差し置いて、たかが偶然の香りひとつに勝手にそれを緩和されたことが多分に、不愉快なのだ。

ホテルのロビーで打ち合わせの時間調整をしている今でさえ、うっかり目を閉じれば眠ってしまうだろう自身の体力の覚束なさが、新鮮な不愉快さごと、自分自身を慰める。
こんな日には、音さえ聞こえないくらいの細い雨が日がな降り続いていることがむしろ嬉しい。



 雨にけぶる名城の天守閣の首ばかりが、木々の向こうににゅっと出ている。古代エジプトの女性がするように、その頭部を飾る金の彩りだけが痛烈に眩しい。天守閣特有の、巻貝の構造でぐるぐる回る階段で頂きに上る。高い窓からは、梳られた女性の髪のような甍も、それを束ねる金飾りも見えない。その代わりに、風と雨粒とで波立つ堀の水面がやけにくっきりと見える。

 打ち鳴らされた太鼓の皮のように、あるいは小さないきものの腹が痙攣するように、その水の表面はただ黙って小さく震えている。鏡のように凍った水面よりも、ミクロなざわめきを醸す水面のほうに人の心が吸い寄せられるのはどうしてか、と思う。

城下を散歩する物好きもおらず、灰白色をした秋雨の柔らかいヴェールに包まれたやさしい風景の中で、ただそこにたんまりと留められた水だけがそのやさしさを放棄する如くにざわざわとおびえている。





大町雑感。

2008-09-08 | 異国憧憬
 一週間のうちに二度も信州に行ってきた。これまで信州という土地は故郷と中途半端に近いからこそ逆に馴染みがなく、齢30を超えるまで足を踏み入れたことが殆どなかったと思う。通り抜けたことくらいはあったかもしれないが。


 坊やよいこだ・・・の歌で知られる日本むかしばなしのオープニング、龍の子太郎の民話の舞台は黒部ダムのふもとにある。恥ずかしながら、ここを訪れるまで私は「龍の子、太郎」だと思っていたのだが、大町では「小太郎」とのみ呼ばれている。区切り方を間違ったまま数十年きていたようだ。

 大町周辺にはダムが多いのだが、そのひとつ「七倉ダム」でできた湖はいまでも竜神湖と呼ばれている。このあたりは広葉樹が多く、初夏にはさまざまに輝くみどりと、秋には赤に橙に黄色にと色を変える木々が眼を楽しませる。とくに、夏にも秋にもひと色違った色目をみせるななかまどの木は、その枝の華奢さにまさる華やかさを備えていて、性別を与えるならばきっと女性に違いない。

 黒部ダムまで登るふもとの扇沢駅に、ここらの土地でもっとも早くに色づいたというななかまどがぽつんと一本ある。トンネルからの冷気によって、山肌にある木々よりも一足先に秋とみとめたのであろう。多少の勘違いといえなくも無いが、最初の一木とか最後の一枝というのは、それ自体が取り立てて美しい形状でなくとも、どうしてこう特別な存在感を得ること能うのだろう。
数ある山肌の一本であるときには決して凝視することのない葉脈の流れや枝ぶりの流れにまで人は眼を遣る。きっと、山肌が紅葉で燃えているときにはこの一本は既に枯れ落ちて、その禿げた枝に誰も見向きをしない。

 車に乗っていると、満開の蕎麦の白い花が風に揺れてさわさわと音をたてる。その脇にはりんご畑があって、紅く色づく寸前の濁りかけた薄緑色をした重たげな実がたくさんぶら下がっている。こちらは、少しばかり風が吹こうがびくともしない。
約2メートルの空間を挟んで地面に吸引される重たい実が食べごろになる頃には、蕎麦の白い花が茶色く枯れて、さわさわという爽やかな音もカサカサという貧しい音になっているはずだ。

そしてその頃にはきっと、遠くに見える日本アルプスは白い冠をかぶって、高い空を見上げる人の肩をぶるっとすくませるのに違いない。

 




城崎にて 08.08.11

2008-08-12 | 異国憧憬
 狭い温泉街を貫く川に魚が泳いでいる
 たまに鯉もいる
 大人のくるぶしが浸かるくらいのそれは浅い川で
 少し大きな魚は気ままにふらふらと
 小さな魚は群れになって肩を寄せあい
 ちょっと流れの速いところではなぜだか皆揃って流れに逆らい
 まるで進まず浮遊するみたいに

 夏の柳はまだその枝を伸ばしきらず
 青いいろをしたまま散った葉のいくつかは川へ落ち
 流れに揉まれて白い葉裏が陽を反射すると
 魚の腹と見間違う
 つまり魚はそんな程度の大きさということ

 風のない暑い夏の日
 ここ城崎は三方を山に囲まれているというのに木々をざわともさせない
 多分いつの季節も
 この地を彩る音は駒下駄のころころいう音
 たまに不慣れな音も混ざっていたりするがそれがまたよい
 十代の娘やさらにその半分程の身丈しかない
 子供を想起させるから


 日暮れると川べりにぼんぼりのような灯が点る
 その刻にもなると駒下駄の音は一層かしましくせっかちに
 宿の浴衣や色浴衣を着た男女の
 足元でかき鳴らされる

 広場ではピエロの恰好をした二人組が色風船をさまざまな形にしていた
 子供は大喜びだ
 この風景を土地にそぐわないものと思うのは
 多分自分が大人であることのずるさであろう


 すぐ脇にある四所神社の暗がりが自分にとってはもっとも心地よいから
 鳥居の下の石段に腰を掛けて何をするでもなく通りをみている
 通りにあってはさほどではないと思うが
 この境内の闇にあっては
 自分の浴衣の黄色い帯がやけにちかちかと目に眩しい