Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

沖縄雑感 2009 - 神さまが近い国 -

2009-10-19 | 異国憧憬

 この会社に入ってからというもの、沖縄に行かない年はない。
とはいえ、いつもどこかのオフィスにいるかホテルを巡るかしているので、観光らしい観光は合間にちょこっとするくらいしかない。無論、ビーチやプールとは縁がない。
私にとっては、京都や奈良に次いで多く訪れている土地なのでそれなりに慣れた感があったが、訪れるたびに小さなカルチャーショックを受け、そのたびに、ここは確かに過去に違う国だったのだなと思う。


 沖縄には「ユタ」と呼ばれる在野のシャーマンがおり(正当な指名を受けた神職は「ノロ」)、神さまと人間との距離が近いところだなという認識はかねてからあった。とはいえ、ユタが生まれつきユタであるわけもなく、一定の力があると見なされた人々の中からユタは生まれる。本州で言うところの「霊感が強い人」というのを指すことばが沖縄には今でも残っており、「たかうまれ」と云うそうだ(※呼称は地域により若干異なるらしい)。

「たかうまれ」に対する一般人の理解は深く、『この道を通れません』『慰霊祭に行けません』とかいうことが、そうかそうか、さもありなんと認められるという。時代によっては、邪宗と云われてノロやユタが弾圧を受けた時代もあったが、いまでも、沖縄には名前のつけようがない眼に見えないものへの意識や配慮が根強い。


 かつては、各集落に御嶽(うたき)と呼ばれる聖域があり、世界遺産に登録されているグスク群は本来、御嶽を中心に発展した集落が砦状になったものという説もある。御嶽は海や水源や山などの自然の神が祭りのときに降りてくる標識であり、お盆のように先祖が帰ってくる際の標識でもある。御嶽の権威は今でも強く、内地の我々がやすやすと神社や寺に入るような気分でそこに近づくものではないらしい。

一方で、沖縄の墓はとても大きく家のような形をしているので有名だが、これには親族がみな納められること、また、かつては風葬であったことなどから一定のサイズが必要条件としてあったのだろう。先祖信仰があるわりに、生々しい「死」や「死体」は穢れとみなされ、現世とむこうのキワとされる「崖」に墓は作られる。人間の時間の末端である「死」と、それを超越した「霊」との関係は、今なお非常に古代的だ。


 なお、ニライカナイ信仰、御嶽信仰という言葉は、外部の人間によって当てはめられた単語であって、沖縄(琉球)に自分たちの信仰を意表する単語はない。




気圧とのたたかい

2009-10-16 | 徒然雑記


 にんげんの身体には、放っておいても勝手に働いてくれる機能がいっぱいある。
指示なしでも見えないところで勝手に働いているから、そいつらが時折サボっていても本体のにんげんはあまり気付かない。ちょっと廊下に立ってなさいと云いたいくらいにあ、わたしの身体は最近いろいろとサボりすぎだと思う。

 1~2年に一度は訪れる先々週の扁桃腺炎はまあよしとするが、それでも、細菌をブロックするはずの扁桃腺がいとも簡単に負けるのはどうかと思う。スカスカのテトラポッドみたいな、見掛け倒しだ。
そして、高熱を出した翌週に出張のために飛行機に乗ったら、頬というか歯というか頭というか、所謂顔面に前代未聞の痛みが発生した。
生まれて初めての体験なので、折角だから記録しておく。いつか誰かの役に立つこともあるかもしれない。

・離陸後20分くらいして飛行機が安定飛行に入るあたりから、片顔面にしびれ。
 歯医者で麻酔の注射を打ったあとのようなかんじ。
・しびれがあるまま、頬の裏?上奥歯?のあたりにひどい鈍痛。破裂しそう。
・ここで鎮痛剤を服用(全く効かない)。
・飛行機が徐々に高度を下げ始め(着陸の35分前くらい)た頃から、テキメンに痛みが緩和。
・着陸時には、余韻を残して一切の痛みが消える。


 機内で何度もアテンダントを呼び止めるくらい大騒ぎしたのに、着陸後は平気の平左なものだから、「大丈夫ですか?」の気遣いがむしろ申し訳ない。先ほどは確かに気絶しそうなくらい痛かったのだけど。
着陸時に歯が痛くなるという話はよく聞くし、自分も経験があるので今回も歯だと思ったわけですよ。
しかし、歯医者に行ってレントゲンを取ったら歯はどうということもなく、顔の片方だけが白く濁って写っている。これは確実に耳鼻科の範疇。
結果、扁桃炎を引き金に急性の副鼻腔炎が併発され、鼻腔との空気の通り道が酷い炎症で塞がれていたものだから、気圧が下がって副鼻腔の中の空気が膨張し顔面の三叉神経を刺激したということらしい。・・・空気の泡が通れるくらいの僅かな道くらいつくっておけ。

 気圧で頭痛がくるのも、関係してるんじゃないの?と思ったが、今回の炎症は急性の軽微なものだからそれとこれとは違う、と。ちぇ。これを機会に頭痛まで治るわけにはいかなそうだ。


来週の飛行機、痛くありませんように。





ΕΥΡΗΚΑ (2)

2009-10-06 | 徒然雑記
 更新が大変遅くなりました。
 高熱で臥せったりして心身ともに萎えておりました。

 インフルエンザではありません。流行に乗り遅れております。
 

 さて、前回記事の回答は以下のとおり。

【生まれつき全く耳が聞こえなかった聴覚障害者が、生まれてはじめて音を聞いた瞬間】


これと同様の経験は、なかなかできない。
人は老化や事故などで、身体の色々な機能を失ったり、機能が低下したりする。
だから、今まで持っていた感覚がレベルダウンするという意味でで変容することは多くあるけれど、今まで持っていなかった優れた機能を後になって得るということは多分非常に稀なことだ。

五感はひとの感情や情緒に直結する。言い換えれば、世界と自分の身体とを繋いでいる。閉ざされていたその機能がひとつ花開くことは、自分を取り巻く世界への新しい大きな扉がひとつ開いたことだ。


機械などのツールをもって、世界へのアプローチ方法は日進月歩で増えていく。
遠くまで行ける交通機関でもって、未知の地面に足を届かせることだってできる。
それはすばらしいことだ。
でもそれはすべて、既知の世界への新しい到達のしかたのひとつにすぎない。

わたしは、死ぬまでに一度くらい、新しい扉が開くような瞬間を体感することができるだろうか。