goo blog サービス終了のお知らせ 

Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

『ルドンとその周辺 --夢見る世紀末』展 

2012-01-18 | 芸術礼賛
 
 月に1日しかない「ノー残業デイ」であるのをよいことに、そして今日は20時まで開館しているのを天啓として、早速『ルドンとその周辺 夢見る世紀末』展に行った。

 オディロン・ルドンは印象派の画家たちと同世代だが、その作風やテーマは大いに異なっている。初期~中期は「黒の画家」と呼ばれるように、光の効果を追求したモノクロの幻想的な版画を数多く制作した。わたしの大好きなユイスマンスの小説「さかしま」の文庫版の表紙になっているので、機会があれば見てみてほしい。
 黒いルドンはわたしの大好物だが、なぜか「Color」という単語を聞くと、パブロフ反応でルドンを想起する。不思議なことだと自分でも思う。だって、色彩が美しく豊かな画家なんて、ほかにもいっぱいいるはずだから。

 この展覧会は、「グラン・ブーケ」と呼ばれるたいそう大きなブーケの絵を収蔵した記念としても機能している。「グラン・ブーケ」は、ルドンが描いた最大級のパステル画でありながら、110年間フランスの城館に秘蔵されていた本邦初公開の作品。見ずばなるまい。

 私がルドンを最初に知ったのは、そして、ルドンの唯一の印象として残ったのは、「眼」だった。中学生くらいの頃だったかと思う。
気球のようにふわふわと飛んでいきそうな眼、真っ暗闇からこちらをビシっと厳しく見やる細い眼、何気ない窓の外に妖怪のように現れる巨大な眼球。美しい女性の、勿体無いとつい思ってしまうくらいにきっぱりと閉じられた眼。やけに温和な笑みを湛えるキュクロプス。

 ルドンは眼をなにかのよすがにしているひとだ、と思った。
 眼が無限の方角へ向かい、人間の知を促進させる。眼が中空に現れ、愚かな我々が知らない”何か”を突きつける。痩せた頬骨の隙間から観客をじっと見詰めるもの言いたげな哀しいまなざしが、何気ない「はずの」日常に向ける疑問という闇をねじこんでくる。
 生物学や科学が進み、ダーウィンが進化論を唱え、人智がイケイケだった時代の空気の真ん中に、ルドンは黒い色をした目玉をぽちゃんと投げ込む。目玉は溶けることなく、ギロギロと周囲を眺めながら、周囲の空気に黒や灰色のもやを細々と発信し続ける。
水の表に垂らされた墨の一滴がまるで生き物のように水面を動き回るのについ魅入ってしまうのと同じく、ルドンの黒は思春期の私の心にじわじわと染みをつくり、もはや洗っても落ちないものになった。

 一方、色彩ゆたかなパステルは、私を夢見心地にさせる。縦が約2.5メートルもあるグラン・ブーケを支える大きな花瓶は、立体感を無視するようにぺったりと塗られた美しい青色だ。青の洞窟とは多分こんな色なんだろうな、と思わせる色で、それがガラスなのか、陶器なのかも判然としない。ただ、とことん碧い器が溢れんばかりのブーケを支えている。太陽ならぬ天井に届きそうなひまわりを頂点として、黄色やオレンジの花を基調に統率なく生けられた花。孔雀の羽のような色味の花。花。
 右手前にはオレンジ色した大輪の花がいまにも、首の重さに耐えかねてぽろりともげている。それによって生じた振動で、ひとつ、またひとつと花が零れ落ちてゆく。空に近いほうでは、光を反射するラメのように白く小さく散りばめられた花がひとつ、またひとつと蕾を開かせてゆく。
 

 規則なく次々とこぼれてはまた、咲いていく。大きな大きな色彩の点滅。
 ランダムな色をした生命が生まれ、開き、輝きつつも毀れていく。そしてまた生まれる。
 ああ、まるでそれは地球のようではないか。



ボルゲーゼ美術館展 - 声にならない小さな叫び -  

2010-02-08 | 芸術礼賛
 ボルゲーゼ家歴代のコレクションをある程度まとまった形で紹介する展覧会が日本ではじめて、東京都立美術館で開催されている。ボルゲーゼ美術館は、もう10年以上も前から、死ぬまでに一度、とは云わず何度でも訪れてみたい美術館のひとつで、ルネサンスからマニエリスム、バロック美術が好きな方々には堪らない場所だ。
 
 ここで私がどうしても逢いに行きたかったのが、上掲のカラヴァッジオの洗礼者ヨハネである。
6年前くらいか、カラヴァッジオが一時期滞在したマルタで、別の洗礼者ヨハネを見ている(『洗礼者ヨハネの斬首』1608)。このほかにも、カラヴァッジオはいくつもの洗礼者ヨハネを描いており、しかも単独であることが多い(※「執り成し」の意を持つ洗礼者ヨハネは、聖母マリアと共に描かれることが多い)。

 洗礼者ヨハネはそもそもキリストの道を整えた者(預言者)として宗教画には非常にポピュラーな題材であり、上述のように聖母マリアと一緒であったり、キリストに洗礼を施していたりと複数の定型的な題材もある。
いくつかある洗礼者ヨハネのテーマの中でも、カラヴァッジオに描かれるヨハネは闇に浮かび上がるようにひとり荒野で修行をしているか、斬首あるいは斬首後の首として登場する。いわば、聖母マリアと一緒になって俗世の我々と神とを繋ぐ役割を担ってくれるわけでもなく、キリストに洗礼を与え、キリストをキリストたるべき条件にあらせる「はじまり」の一端を担うわけもない。ただ、人としての孤独な生の最中か、その生が果てる孤独のなかにある。

 
 洗礼者ヨハネは、虫とハチミツだけを食べて飢えを凌いでいたとされる割に、頬は紅潮し、胴まわりには皺が寄れるくらいの脂肪の余裕があり、脚には小鹿のようにしなやかな筋肉がある。上着兼毛布のはずの紅いマントは埃にも負けず鮮やかに闇に映える。唯一修行中であることを窺わせるのは泥にまみれた足の爪だけで、むしろその汚れが不自然に見える程に彼はきれいで、無防備だ。
よく云えば物憂げな、けなそうと思えばドロンと濁った目はまっすぐにこちらを見つめるが、その目に光はあれど生気はない。眠気を我慢するような、あるいは泣き出すことを我慢するような、涙による物理的な光が一切れ差しているだけだ。

 無力で弱弱しい少年の姿を借りたこの洗礼者ヨハネは誰だ?
 無力さの露悪と引き換えに少年が欲しがっているものは何だ?


カラヴァッジオはこの作品をボルゲーゼ枢機卿に贈り、数年前に起こした殺人罪の恩赦を願っていたという。




共鳴、あるいは共振(狂信)

2009-07-28 | 芸術礼賛
 幼いころ、「共鳴」とか「共感」とかいう感情の快楽を初めて知った場所は多分ここだった。
その感情の名前や性質、理由もわからないから、その感情はただ衝撃的で、包み込まれるように優しくて、自分が在ることを赦して貰えるような甘えた思い込みと安心感を、わたしに与えた。その頃、わたしは多分10歳かそこらだった。

大学生も後半になった頃、わたしに「共鳴」という快感と赦しとをくれた画家は、この世から居なくなった。わたしは彼が消えたことに大きな衝撃を受けつつも、彼が死の扉を自らの手で開けたこと自体が当然のなりゆきのように感じた。「私がここまで歩いてくるあいだに、彼の時計はそういう時刻まで進んでいたのだ」とだけ思った。ビニール袋を頭からかぶるという全く演劇性のない方法で、彼はこの世界から、ひいては絵を描くことからバイバイをした。
 
 生前、彼は画家として揺ぎ無い評価を得ていたとは思わないし、死後もその評価はさまざまだ。偶然にも、彼の大ファンとなった人が日本人で、彼の個人美術館を建設し、その大ファンが美術を見せることとはどうあるべきかを知っていた人だったから、子供のころのわたしは正しく彼に触れられた。
美術館の警備員たちはこっそりと赤外線センサーのスイッチを切って、子供のわたしにもっと絵に近づいて見られるように促してくれた。警備員はどの絵が好きかを訊ねてくれ、彼らが好きな絵も教えてくれた。絵の説明は誰もしてくれなかった。その空間でどのように過ごし、どのようにそれが好きかだけでよいのだということをわたしは自然に知った。

 階段のかわりにスロープがあって、展示物と自分を隔てる柵やアクリル板のかわりに赤外線があって、順路が曖昧で、天井から自然光が差し込む美術館。わたしが思う美術館の「理想の環境」は、この館内をうろついていたときの充たされた気持ちを原点としている。美術を本気で好きなひとが作り出したものは、一見すればわかる。聞けば、併設されている「こども美術館」は日本初の試みであったようだ(当時はなかった)。

 死への直球的なベクトルを隠しもせず、冷徹とした視線で生の美しさと生の孤独を描き続けたその作品群に囲まれながら、嬉々として館内をパタパタと駆けていた記憶。死がどこにでもあること、ひとと表現物との間には死というフィルターが漏れなく掛っていてもよいこと、ひとが孤独であってもよいこと、それらをひっくるめても世界はとっても美しいこと、そのすべてが嬉しくてたまらなかった。当時は言葉にならなかった彼の絵に対する愛着の理由は、今となれば言葉にしてはっきりとわかる。

 約20年前、いつ行っても貸切状態だった美術館には今や子供の声が響いていて、ベビーカーを押す人の姿も多い。無邪気であることを気取って館内を駆ける子供たちのひとりと目が合う。にまっと笑った少年の笑顔に昔の自分が重なる。






東京国立博物館【対決-巨匠たちの 日本美術】展(1)。 - 『出逢い系』企画 -

2008-07-24 | 芸術礼賛
創刊記念『國華』120周年・朝日新聞130周年特別展「対決-巨匠たちの日本美術」をみてきた。

当展覧会は、基本的に前期・後期での展示替えがあるものの、厳密には6期に分かれている。自分の目的とする絵が6期のうちのいずれに出品されるかをそれなりにきちんと確認しておかないと痛い目に合うのでお気をつけあれ。
私の場合は、2期および4か5期の2度行けば充分だ。

さて、この展覧会は「対決」と銘打ってある通り、スターと云える複数の作家をピックアップし、且つ時代性や表現技法などの観点から12組の仮想ライバル構図を造ったうえで、両名の個性の比較に丁度いいと思われる作品を並列して展示してみる、という試みだ。
因みに、対決構図は以下の通り。

  運慶VS快慶  雪舟VS雪村  永徳VS等伯  光悦VS長次郎  光琳VS宗達
  仁清VS乾山  大雅VS蕪村  応挙VS芦雪  鉄斎VS大観   円空VS木喰
  若冲VS蕭白  歌麿VS写楽


時代や作家の光の面や影の部分を含めてまるごとがっさり切り取る企画や展示が総じて好きな私にとって、この「肉・肉・肉・魚・魚・肉・ごはん」のような、あるいは「1楽章・3楽章パート1・3楽章パート2(以下パート4まで)」みたいなメインディッシュまみれでストーリーや緩急を全く無視した展示は個人的な感性とは合致しない。

とはいえ、「この中で5~6人は知っているけど、知らない人もいるわ」という人にとっては、対決構図となっている故の判りやすさも手伝って、新しい作家との出逢いが期待できるだろう。
それを思うと、今回の企画は「出逢い」のきっかけの提示に過ぎず、とはいえ、誤解や曲解のない「いい出逢い」の提示ができているという意味で評価できると思う。

実際、私も過去に幾つもの作品を見てきたにも拘らず、鉄斎の『妙義山図・瀞八丁図』双曲にこんなにもノックアウトされるとは予想外であった。
なにかに気付かなければ「面白い構図ね」で済むかもしれない絵。けれど、自分でも判らないなにかに気付いたとたんに縛り付けられる絵。隠喩が巧みに散りばめられた悪夢のような淫蕩さと無邪気な禍々しさ。それらの全てが自然体であればあるだけ、誘いはサディスティックだ。

10年前には「動乱期がそのままヒトとして顕在化したような闊達な画家だなあ」程度の客観的な認識で済んでいたものが、こんなにも自身に迫ってくるようになったとは。
年齢のせいなのか、鉄斎とほんとうの意味で出逢うために必要であった「なにか」をこの10年の間に会得していたのか、理由はわからない。しかし確実は私はようやく今頃になって、鉄斎に出逢えた。



『国華』編集委員河野元昭氏は「この【VS】を見たあと、自分はどっち派か考えてみて欲しい。それが理解へのきっかけになる」と云う。

 同感だ。




  

大は小を兼ねない。【薬師寺展】

2008-05-05 | 芸術礼賛
今回の展覧会のことをTVで再放送までしてくれたお陰であろう、GWの薬師寺展の人出は予想通りのもので、会場まで50分待ちの列があった。

薬師寺のお堂の中に行列ができているのを私は(修学旅行以外で)見たことがない。
確かに、奈良は関東から気軽に行ける距離ではない。だからといって、これだけの人数の全てが気軽に奈良に行けないというわけではないだろう。イタリアとかハワイには気軽に行くような人々が、きっと少なからず混ざっているに相違ない。ボッティチェルリのプリマヴェーラを見に行くことができるなら、薬師寺のまさにお堂の中で、輝く光背を戴いた聖観音を見に行く時間を少しばかり割いて欲しいと思う。

50分あれば、京都駅から薬師寺まで着けるなぁなんて、常よりも年齢層の高い行列を50分も眺めていればそんなことも思い浮かぶ。


 さて、今回の展示の呼び物は、薬師如来坐像の両脇におられる日光菩薩と月光菩薩のようだ。この2体が揃って旅に出たのは初めてなのだから、それはそうだ。
ひとりお留守番の薬師如来の両脇侍であるこの2体はほぼ左右対称であるが、その面立ちや腰の捻り具合、手首の緊張した角度、そして通常では見ることのできない背中の表情が全く異なる。「運慶派?快慶派?」と訊くが如く、「薬師寺のだったら、日光派?月光派?」と訊いてみると、うーんと悩みつつもその好みは分かれるところであろう。・・・因みに私は日光派である。

 なぜ日光か。
それは、捻り過ぎない腰の控えめさを支点として、緩やかなS字を描くカーブの自然な趣きと、その自然さ故に強調される返した手首の緊張、そしてその上に乗る無表情にも近い不思議な穏やかさを持った表情のもたらすところだ。たおやかと云うには凛々しく、厳しいと云うには柔らかく、掴みにくいそのふわりとした距離感ゆえだ。
ひきかえ、月光はと云えば腰の捻りがきつく、その結果腰は細く絞られる。背中は背骨が薄く浮くほどに華奢で、まるで媚びた女性のそれだ。表情には唇をきゅっと引き結んだ厳しさ、若く張った頬に走る緊張。隙があるようで心の底を決して窺い知ることのできぬ風情。

 ・・・とはいえ、3mを越す巨像は、それが白鳳~奈良時代(7~8世紀)の類稀なる解剖学的人体構造に忠実であったにせよ、いや多分、忠実であるからこそ余計に、自らの心を投影したり憧れを向けるに値する近しさを持たない。
巨大な故に、巨大で完璧な人体であるが故に、とてもとても遠い。
博物館という狭い密室で、光背もなく屹立するそれは圧迫感に満ち、こちらの息を詰めさせずにおかない。


 日光・月光を心ゆくまで眺めた後、再び私は聖観音立像の傍に帰った。

聖観音の中では、もっとも好きなものかもしれない。「ご無沙汰です。」と声を掛けつつ眺めるこちらの顔は思わず綻ぶ。私が仏像を眺める理由が詰まっているその表情。あの巨大な日光・月光はこの表情を決して私から零れさせることがない。
「背後に回ります、ごめんね。」と声を掛けつつ無防備な背中を仰ぎ見る。

 無駄のない背中。青年とも女性ともつかず、そのまさに中間を表現しているからこその静かな安定感。華美でありながら過剰でない装飾と青銅であることを疑わせるくらいに軽やかな衣のひらめき。
 そして、その全てを支えてなお、月程度の重力しか受けていないのではないかと感じさせる人体としての静寂の極みのようなバランス。過度な緊張もなく、隙とも云い変えられる弛緩も、主張する動性もない。かといって、緩慢な安定があるのでもない。


内なる動の中に奇をてらわず、確固たる静の中に冗長を孕まない、それはまさに中空に浮いたような『静寂』。

私自身がその中に凝ってしまえるならばと希求するほどに涼やかな、静寂。





窃視美術館。

2008-04-25 | 芸術礼賛
 窃視美術館。

 自分が大学生だった頃、授業の課題に対して提案したことがある。イメージは、取り壊される以前の青山同潤会アパートが小さくなった感じ。ひとつの部屋が一展示室となり、そこに住人はいない。我々は、扉の覗き窓(普通は部屋の内側から外側を覗き見るためのあれだ)を通じてのみその部屋を鑑賞することを許される。しかし、部屋に一歩も足を踏み入れることがない分だけ余計にじろじろと不躾に、存分に室内を眺め回すことができるのだ。


 我々は知っている。
見られることの愉悦と、一方でその不快さを。
見るという行為のひどく一方的な不遜さを。

窃視という行為は、狭いフィルタを通じて、相手に愉悦も不快さも感じさせることなく「見る」ことを行い得るという、不遜を通り越した絶対権力的な行為だ。
常日頃、「見る」ことを無自覚に行っている我々が、窃視を通じてしかものを見られなくなったとき、その行為はどの程度まで重みを増し、どのくらい不躾で、作為に満ちたものになるであろうか。


 ある部屋は、まるで書斎のようになっていて、ひとつひとつの本の背表紙に書かれている言葉を拾い集めるのが愉しいかもしれないし、遠目に見るともしかしたら、ランダムに並ぶ背表紙の色のリズムはまるでパウル・クレーの絵のように見えてくるかもしれない。

 ある部屋には、大きな地球儀があって、天井と壁が、そして床までが裏表が逆さまの天球儀のようになっていて、狭い空間の中に宇宙とその中に浮かぶ地球だけがあるのかもしれない。

 またある部屋には、覗き窓からちょうど正面あたりに四角い額があって、その額の中にはまた額が描かれていて、その向こうには窓があって、どこかの世界が拓けているかもしれない。

 別の部屋には、なにもなくて、ただの四角い空間だけがあって、よくよく見るとそこには白い天井と、白い壁と、白い床とがあって、もしかしたらその白い壁の一点に一匹の蝿を、白い床の端にたった一文字の「Y」を、見つけるかもしれない。

 そしてある部屋には、こちらに背を向けている人形がいて、その人形はよく見ると自分にそっくりな服を着てなにかを一心に見つめている。こちらを振り向くように動きかけたそのからくり人形の顔がまるで自分と重なってしまったらどうしよう。これまでの部屋を見尽くしてきた自分が「見られる恐怖」は倍加して、はっとして覗き窓から目を離し、逃げるように階段を駆け下りるのかもしれない。





まだ見ぬ仏像へ。

2008-03-19 | 芸術礼賛
 今日(アメリカ時間昨日)、嬉しいニュースが届いた。
ひとつの運慶の仏像が日本にこれからも住んでいてくれることが明らかになったことだ。
---------------------------------------------
【ニューヨーク18日時事】
鎌倉時代の仏師、運慶の作品とみられる木造大日如来像が18日、ニューヨークの競売商クリスティーズで競売に掛けられ、日本の大手百貨店の三越が1280万ドル(約12億7000万円、手数料除く)で落札した。クリスティーズによると、日本の美術品としては過去最高、仏像としても世界最高の金額という。
 運慶は(略)その作品の多くが国宝か重要文化財に指定されている。文化財保護法によれば、指定文化財の国外への持ち出しには文化庁長官の許可が必要だが、この仏像は確認から日が浅いこともあり、こうした指定を受けていなかった。運慶の作品が国外で取引されるのは初めてで、海外流出の恐れが取りざたされていた。
 落札された仏像は(略)、作風などから運慶が鎌倉初期の1190年代に手掛けた作品とみられる。現在の所有者が2000年に北関東の古美術商から入手したとされ、03年に東京国立博物館の調査で運慶作の可能性が高いと判断された。
 この日の競売には内外から応札が相次ぎ、落札額は予想価格(150万~200万ドル)の6倍以上に達した。最後は三越と米個人収集家の一騎打ちとなったが、三越が制したことで、海外流出の危機は逃れた。
---------------------------------------------

 今回の危機を呼び起こしたポイントは以下の2点。
1) 当該仏像が文化財指定されていなかったこと(所有者が拒否したという噂もある)
2) 国庫から特別予算が下りなかったこと

 文化財保護法は、文化財それぞれの適切な保護のために制定されたものである。しかし、戦後の混乱の中で多くの美術品が海外流出したことを受け、貴重な日本の文化を国内に遺しておくためのリスク管理という意味合いもあった。文化財は、指定されているものばかりが優れているのだとは限らない。例えば正倉院に収められている御物のように、文化財指定を受けていなくとも同価値に貴重なものがある。それらに法の網がかからないというだけで、我々は自由に美術品を売買できるわけだ。

 一方で、日本には海外作の国宝もある。よって、単に公平性を考えただけでも、「わが国で製作された美術品が海外に流れることはあってはならない」とは言い切れない。また、海外の有力なコレクターの存在が作品を良好な状態で護った実例もある。近年の伊藤若冲ブームは、ご存知のように、アメリカのコレクターであるプライス氏の功績が大きい。当時、まだ日本の美術史家からも決して評価が高くはなかった若冲の作品にプライス氏が惚れ込み、集めてくれたことによって、多くの作品が世界中に分散し行方知れずになることを免れた。

 今回の件は、美術界ではある種の「非常事態」であったと云える。中学生でも(小学生か?)社会で習うところの運慶の作品は、その美術的・歴史的な価値を誰もが認めるところである。しかし、その数少ない作品のひとつを国の財産として留めておくための特別予算が組まれることはなかった。そうすべきであった、とは決して云わない。そうならなかったことが淋しいだけだ。

 それには、通常予算の手仕舞い時期にあたる3月にオークションが開催されたということも災いしていることは確かだ。しかし、凡例や前例を無視して「このための予算が国にとって今必要です」と議会内、ひいては国民全般に対して自信を持って誰かが公言できるほど、文化(あるいは文化的なもの)の重要度はこの国において高くない。危機的治安状況にある際の軍事予算を急遽組むことと同様に、この文化流出の危機を感じることができなかったか、あるいはそう信じることに自信がなかったか、であろう。


 作為的に醒めさせた思考で傍観していただけの私の感慨は、ただ素直に「嬉しい」ということだ。
海外よりも近い国内に居るほうがきっと、逢えるまでの日が短くて済む。


会社の窓から望む三越のビルが、今日はいつもよりも清廉として見えた。

三越、ありがとう。





高邁な駄々っ子。

2008-02-14 | 芸術礼賛
「厭だ、もう厭だ」と喚きながら、ベッドに潜り込んでじたばたと手足をばたつかせ、涙をぼろぼろ零しているわたしを眺めて、「なんと高邁な駄々っ子がいるもんだ。」と彼は笑った。

 自分に関することであればこんな風な泣きかたをすることは決してない。身近に敵がいるわけでなく、かといって自身が悪いわけでもない。手も足も出ない用件のために誰に掛ける言葉もないからこそ、子供は駄々をこねるのだ。通常、大人であれば様々の不条理に対して醒めた目で対応することもでき、仮想の敵を捏造することもできる。だから大人は駄々をこねない。わたしだってそうだ。
けれど、芸術やそれに関するものに相対するときのわたしは、いつまでたっても子供のままであった。それを希求するまっすぐさと穢れなさは誇れるが、それは高邁でもなんでもなく、子供がおもちゃを欲しがる気持ちときっとあまり変わらない。 

 そもそもの発端はこれだ。
----------------------------------------------
[チューリヒ2/11 ロイター] 
スイスのチューリヒにある美術館「ビュールレ・コレクション」で10日、セザンヌとドガ、ゴッホ、モネの油絵計4点が盗まれた。被害総額は1億6,400万ドル(約175億円)相当。事件は10日の白昼に発生。暗い色の服装で覆面をした3人組の男が銃をかざして美術館に押し入り、白い車に絵を積んで逃走した。
----------------------------------------------

 ニュースを読んで、正直なところ、気絶するかと思った。今回盗まれた作品は名品揃いで、絵を見れば「みたことあるかも」と思う人も少なくないはずだ。
被害作品:
ゴッホ「Blossoming Chestnut Branches」(1890)
ドガ「Count Lepic and his Daughters」(1871)
モネ「Poppies near Vetheuil」(1879)
セザンヌ「Boy in a Red Waistcoat」(1888))


 別のニュースでは、日本時間翌日、寺院から仏像を盗み出したとして教員が逮捕されたという。これにより仏像3体があるべき場所に戻り、それは非常に喜ばしいことだと思う。「仏像が好きだった」と供述している犯人の気持ちは、「仏像が好きで堪らなくて、日々それを見上げて過ごしたい」という点で理解できるが、自分が所有することを通じて、結果的に他の多くの同じ感情を抱く人のねがいを排除してしまうことを厭わないという点で決定的に理解できない。
 想像力の欠如、利己主義、信仰の不在。説明できる現象は普段わたしが使う言葉の中にいくらでも存在する。だが、「現象」と切り捨てられないこのひとつの忌まわしい事実を説明することはわたしにはできない。

 優れた芸術品は、それを所有している人・組織のものでありながら、それはそれを見て、それを好きだと思う全ての人のものだ。ある王国の国王陛下や女王陛下が、そのご家族のものでありながら国民全員のものであるのと同様に。なぜ、それを思えない人がいるのだろう。決して完全にはそれを「所有」しきれないことの崇高さを、見ずにおれるのだろう。哀しいことに、どれだけ優れて崇高な芸術品であっても、それは電流を放つわけでも人を殺傷することもできない、無力で抵抗不可能な物品にすぎない。しかし、だからこそ、その無力さを有するが故に一層それは崇高であり続けることができるのに!


 わたしが抱くこれらの想いが、理想に燃える学生のそれのように青臭い感情であるという自覚はある。とはいえ、この期に及んでも、それを恥じる気持ちは毛頭ない。





ほんものを見るためににせものを見ること

2008-01-08 | 芸術礼賛
 2007年11月2日、東京国立博物館資料館に「TNM&TOPPANミュージアムシアター」が開設されてしばらく経つ(関連記事はこちら)。
ここで公開された作品の第1弾は、「聖徳太子絵伝」(国宝・平安時代)のバーチャルリアリティ(※以下、VR)であった。

「聖徳太子絵伝」は、時代性を考えれば非常に良好な保存状態であり、彩色や文字がきちんと判別できる箇所が非常に多い。とはいえ如何せん平安時代の代物であるため、その実物を見ることができる期間は限られる。「特別公開」と称される1年のうち1ヶ月のみ、ガラスの向こうに小さくみっちりと描き込まれた太子の生涯を追うことは単眼鏡を用いなければ容易ではない。さらに、単眼鏡を使って細部を見るということは、障子絵全体を見ることを放棄することに繋がる。非常に悔しいことに、このように広い背景の上に詳細に描き込まれた作品においては、木を見つつもさらに森まで同時に見ることは困難で、観覧者は必ずどちらか片方の見方をするか、あるいは変わりばんこに見方を変えることを余儀なくされる。


 VRは、緻密な写真を基にしたCG画像である。簡単に言うと、本物を忠実に再現したにせものの映像である。作り手は技術と予算のある限り、かなり自由な映像を創造することが可能である。しかし、博物館に設置するVRにおいては、ファンタジーの介在を決して許さない。そして、だからこそ実現できる世界がある。

 今回の作品「聖徳太子絵伝」を例に挙げるならば、たとえば以下のようなことだ。
1) 実際は入堂不可の法隆寺東院伽藍の絵殿内部に入れること(どのようにしてあったかを見られること)
2) 現在の絵殿にある江戸時代の復元と原本を重ねることで、剥落部の絵柄を推察できること
3) 通常であれば接近できない作品の細部をアップで見られること

 さらに(研究者の確信があれば、という場合もあるが)次のようなことも可能となる。
4) 変色、剥落している部分の色や部分を画面上で復元すること
5) 書かれている文字に画面上で翻訳(仮名)を施すこと
6) 立体のもの(彫像・仏像など)を、通常では見られない角度(背後・上・内部など)から鑑賞できること
7) X線画像との合成や比較ができること
8) 環境悪化や経年変化による劣化をシミュレーションすること   などなど。


 ほんものと対峙するためににせものを見詰めることの大切さ、にせものを追求することによってほんものを理解できる可能性。
「美術館でほんものが見られるのに、なぜVRを見なくてはならないの?」
という問いに対する答えとして、わたしはそれを提示したい。

 だって、ほんものしか存在しない世界など、どこにもない。





ヴンダーカンマー再び。

2007-11-26 | 芸術礼賛
  -- 美しいものがある。 辛いことがある。 混沌としたものがある。
  -- すべては、等価に。


 私の家に入ってすぐの廊下には、部屋からはみ出した小さな本棚が2つ並んでいる。その上に居並ぶものたちは、まるでおもちゃ箱(こんなものでは遊べないと思うのだけれど)をひっくり返したような混沌さを呈している。
フェラーリをはじめ、射的で落としたり缶コーヒーのおまけについてきたりしたミニカーたち。
サハラ砂漠で拾ってきた化石。
エチオピアの十字架3本。
昭和中期のホーロー看板。
諸外国の通貨。
北欧の笛。
アボリジニの花瓶。
そして、見上げた壁に架かっているのが大正期のボンボン時計とフェルト帽。

 私が意図しないうちに表現していたヴンダーカンマー(Wunderkammer)への憧憬がここにある。秩序や系統立てて蒐集したり整頓したりすることへの本能的な恐怖とともに。
何らかの意味や性質を明瞭にするために、我々は様々なものの中からある一定の基準に基づいてものを選び出し、ある一定の規則に則ってそれを並べ、系統立てる。そのことにより多くの不純物が削ぎ落とされ、見たいものは背景からぐっと鮮やかに浮き上がって我々の眼に映る。本棚の本や調理器具の並べ方も、小学生の背の順も男女の別も、すべてそうだ。そうすることにより、物ごとは整然とその輪郭を掴みやすくする。

 しかし、その秩序を設けることによって零れ落ちる、選ばれるよりも更に多くのものたちの中に、もしかしたら、本質の一端が紛れ込んでいるかもしれない。私にとっては、物ごとの輪郭が茫洋として掴みにくいことによる焦燥感よりも、輪郭を明らかにしようとすることによって大切な何かが見落とされる恐怖のほうが心にまさる。それは、背の順で統一された中に、ある一人が有する身長では計り知れない何らかの特質が埋もれる恐怖。本棚の高さに収まりきらないある一冊の本が「収まるところがないから」という理由で捨てられてしまう恐怖。

 だがそれよりもなお強いのは、合理的に整えられた中にすべての真実が定められているなどという甘えたことはきっとないのだという強い疑念と、実際の「驚異の部屋」に自らが身を置いている最中の胸躍る悦びだ。ヴンダーカンマーでは、レッテルのない(あるいは読めない)骨格標本や機械類が雑多に陳列されているだけで、ひとつひとつの意味を解することはできない。そういう意味では、きっと知識はなにひとつ増えることはない。マトモな標本に並んで、キマイラなどのアヤシゲな展示物さえ等価に並ぶ。それなのに、なぜそこに真贋の境さえ超越した「虚構ではないなにか」が存在することを本能的に察知することができるのだろう。

 かつて、神の被造物として世界の全てのものたちは等価に存在した。世界を知るために、人々は財にあかせて思いつく限りのものを並べた。地球儀とホネと剥製と船の流線型モデルとは同じ部屋にあった。そこには地理学と生物学と物理学との境界よりもなお強い「モノ」としての共通項があった。そうして、多くのヴンダーカンマー(驚異の部屋)が創出され、後世の「博物館」構築とともに失われた。

 私は世界を改めて知ろうというものではない。自分の好きなものに囲まれた箱庭のような狭い世界に篭りたいというのでもない。ただ、整然と系統だった論理をギミックとして使いこなす我々が失いかけている、茫洋とした混沌の中にこそ見出される可能性のある真実を、強く希求する。記号や名前をつけて整理することができない大きく深い箱の中を覗き込む不安な欲求を忘れてしまいたくないと願うのだ。
不安や混沌の向こう側にしかない真実が、きっとある。


【参考図書】
愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎」(集英社新書ビジュアル版)





鉄道博物館

2007-11-19 | 芸術礼賛
 仕事をしていると、ほんの時折ではあるが、「役得」というものに出逢うことがある。
というわけで、2007年10月にオープンしたばかりの鉄道博物館に行ってきた。秋葉原にあった交通博物館の展示物の一部を移管してはいるものの、オリジナルも数多く、既に開館から1ヶ月以上経過しているにも拘らず、毎日大盛況のようである。

 この施設のメイン展示のひとつが、施設面積の半分以上を占める「ヒストリーゾーン」だ。ここでは、日本の鉄道がスタートした明治時代初期から現代にわたる鉄道技術や鉄道システムの変遷・歴史を時期・テーマごとに紹介している。御料車を含む鉄道車両35両の実物車両の展示は圧巻である。機能的になりすぎてしまった昨今の電車とは似ても似つかないスタイリッシュな車両たちが一同に並ぶ姿は、鉄道マニアや乗り物マニアでなくとも充分に心惹かれる光景であると思う(*写真:旧交通博物館にあったD51の搬入作業。レール上を走らせて(牽引して)の納入が最も容易だったらしく、現在の展示でも搬入時のままレール上に固定されている。つまりは、全ての車両の搬入後に施設の壁を塞いで建物を完成させるという寸法だ)。

 開館当初、御料車を除く多くの車両はそれぞれ入場可能で、ドア部の天井の低さから寝台のベッドのサイズなど、当時の列車の大きさや仕様を実際に体感できる仕組みとなっており、そのことがひとつの大きなトピックであった。しかし、今回の視察ではその殆どのドアが閉じられており、乗る(入場する)ことができたのは、記憶に新しい中央線の車両のみであった。
「いやね、何でもかんでも持って行っちゃうんですよ。見学者が。」
「何でもって、カーテンとかですか?」
「カーテンなんて生易しいね。寝台の浴衣とか、ネジとか行き先の看板まで、とにかく『何でも』だよ。」

 憤りとはこのような感情を指すのだろうな、というくらいの、その場に該当者がいたら殴り倒して顔面を車両に幾度となく叩きつけてしまいたい(車両にとっては迷惑極まりないだろうが)気分になった。この世の中には「モノ」と「展示品」の区別がつかない人が居て、しかもそれが希少種というのではないらしい。

 私であれどうにも素敵な仏像に出逢ったとき、「欲しいな~」と思うものの、思うだけなら多分罪ではない。美術館で観覧している人々の多くは、それが現代アートの【ばらまき展示】のようなものであっても、それを踏まないように大人しく観覧しているし、触れる許可が下りている展示物については、得したと云わんばかりに嬉々としてそれに触れて愉しむ。それは観覧者が展示物に向ける畏敬がそこに確かにあり、それが確かな距離感として作用しているためだ。それなのにどうして、展示物が列車になった途端にその畏敬が失われてしまうのであろう。

 「列車」はそもそも、我々の生活に根ざし、日々の風景の中にあるモノだ。我々は確かにそれとともに暮らし、それに触れ、それを使用しながら日々を送っている。しかし正しい方法で(*展示方法は至極適切であり、誤解を生ませるようなものではないことを明記したい)それらが展示された時点を境として、それらは展示物という別格を得、人に使用されてはならないモノと変化するはずだ。
 【実際に触って体感して楽しんでください】と明記された現代アートにさえ触れることを厭う人々が、なぜ触るどころか破壊までしてその一部を持ち帰り、所有するという愚行に走ることができるのか。盗難であることへの意識の低さもさりながら、アートとか美術品とかいうレッテルなしにはモノと自らとの間の適正な距離感を捉えることができず、モノに敬意を払うことができないその貧相な感性を私は嘆く。

 人間はすべからく少々口が達者なだけのモノに過ぎない。
 モノに敬意を払うことができない人間を、私はモノとしてすら見做したくない。





【若冲展 - 釈迦三尊像と動植綵絵120年ぶりの再会 - 】

2007-05-29 | 芸術礼賛
 
  われわれがもうほとんど希望を失ってしまったときにかぎって、
  われわれにとって良いことが準備されるのだよ。  (ゲーテ)
 

 --- 子供の頃からの、叶わないはずの夢があった。
   それが叶ってしまうと知ったとき、わたしは少しだけ、慌てた。


 静岡県立美術館は、伊藤若冲の「樹花鳥獣図屏風」を所蔵している。私が初めて実物を見た「若冲」は、これだった。まるで色タイルをひとつひとつ嵌めこんだような図像は、豪華な銭湯の壁を飾るに相応しいように見えた(銭湯自体、その頃は行ったこともなかったけれど)。それは絵画というよりもオブジェに近く、若冲の技量が巧いのかそうでないのかを判別することもできず、しかし、極めて衝撃的であった。そして、画家と呼んでよいのかも判らないこの画家に興味を抱いた。
 画集で見る若冲の絵画は、どれも精緻で豪奢であった。墨一色で描かれたものであっても、やはり豪奢であった。

 なかでも、私は墨の「筋目描き」に見惚れた。
菊の花弁が一枚一枚淡く折り重なるさま、それは鯉の鱗でも、鶴の羽でも同じであって、なにか薄いひらっとしたものが繊細に重なる。その妙(たえ)なる表現が、なによりも好きだった。
その技法がアタリマエのものではなく、若冲が編み出して多用したものであることは、後になって知った。そうして、わたしはその表現技法が、若冲そのものが更に好きになった。

 若冲の最高傑作とも云われる「動植綵絵」全33幅を、宮内庁三の丸尚蔵館で昨年目にした。かつて相国寺が所蔵していたそれらと、今でも相国寺にある「釈迦三尊像」がおよそ120年の時を超えてあるべき状態で展示された。
また、「葡萄図襖絵」(鹿苑寺蔵)までも部屋ごと見ることができる。

 そんな機会は、生涯訪れることがないだろうと信じていた。


仏像を、抹香の香りの中で、薄暗い堂内にぺたんと座り、見上げるようにして拝したいと願うことがある。
屏風を、ぺったりと平らにした状態でなく、立てかけた状態で織り成される陰影とともに眺めたいと思うことがある。
和室に置かれた香炉から煙が立ちのぼるさまを見、その空間への移り香や衣服への残り香を楽しみたいと思うことがある。

 きっと美術品に限らず、すべてのものは、あるべき姿である状態がもっとも美しい。

 あるべき姿であった書院の葡萄図は、違い棚のバランスを乱さないように絶妙の気遣いを施しつつ、びっしりと描かれていた。書院の床の全ての柱が葡萄棚の脚となり、天井から垂れ下がる葡萄。一年中秋色に染まった書院に飾ることができるのは、最大でも花一輪にすぎないであろう。あの書院に軸を掛けることができる無法者がいるとしたなら、わたしはその面を飽きるほどはたきたいと思うに違いない。

 襖絵「月夜芭蕉図」は、部屋の内部に嵐を呼びおこしたような荒々しさと、清廉さに満ちていた。若冲は、このおおらかな芭蕉を描くことによって、この部屋の畳が常に青青としていなければならない義務を負わせた。芭蕉の煽ぐ風に包まれたこの部屋の畳が日に焼けていたとしたら、なんとなろう。
「住みたい。」わたしが久々に感じた最上級の憧れが、墨色ひとつで彩られたこの狭い空間に、生まれた。

 
 「釈迦三尊像」を「動植綵絵」が包み込む空間は、一大スペクタクルであった。対面する季節がそれぞれに共鳴し合い、隣り合う異なる季節が円環しつつ永遠に刻まれるときの流れを示す。それぞれの絵の中では現実と仮想空間が融合し、時や現象が、描かれるすべてのモノが眼に見える世界を超えたものであることを我々に気付かせる。我々が努力して知り、見て、描くことができる全てのものの向こうには無限とも云える未知の世界が広がっており、若冲はその扉をほんの少し細く開けて我々にそれを知らしめ、警告を与える。

 釈迦三尊への、そして生命への一大讃辞は、眼には見えず触れることもできず、ましてや決して知ることなどできないけれど、若冲が示した「世界」のすべてであった。






グレゴリー・コルベール【Ashs and Snow】 展。(ノマディック美術館)

2007-05-06 | 芸術礼賛
 国も人種も、あるべきところにない。
サハラに寝そべるチーターにオポッサム、エジプトの古代遺跡の列柱間を舞う猛禽類に、鴇。それは生態系というものから連想される、我々のあらゆる固定概念に対して故意にねじれを生じさせるように作られた、演劇的環境。完璧に不自然な方法を用いて、ほんものの自然を作り出すための装置である。

 描かれているのは、「そこにだれと居るか」。
動物や人間という些細な差異はともかく、ケモノが暮らす場としての大地において、必要なのは環境や生態系の整合性ではない。
写真および映像の背景となる砂漠や海、川というそれぞれの環境は、「大地」という意味を同じうした記号と化してそれを象徴している。

 わたしは、此処に、この世界に、だれと居るか。
 あなたは、其処で、だれと居たいのか。
「此処」は、多分どこでも構わない。


 一瞬を切り抜かれた写真に共通して映される「動物と、人間」。
 更に、そのなかの「人間」に共通する要素は、明らかなる【胎児性】であった。
柔らかく目を閉じ、肢体をぐったりと弛緩させたり、あるいは手を胸前でクロスさせる姿勢は、瞑想や熟睡を想起させる。


    待機。

 それは、光を放った明瞭なるグレーゾーン。輪郭を取り払った(より正確には、輪郭が生まれるよりも以前の状態)無防備な剥き出しのいのち。
もういちど、新たに育ってゆける可能性を人間が見出すために、なにかを失くす前の状態へと回帰するための清浄なる待機の姿勢。動きの凍った画面はは生と死の境目のようにも見える。待機が一瞬後に終了してその目を開けさせるのか、もしくは人間が人間としての形状をいつか失い、水や砂といった大地に溶けて背景と化してしまうまで続くものなのか、それは観るものには判らず、待機する彼らにもきっと判らず、それにも拘わらず、自由だ。誰の自由?

 映像の中にある人間は、完全なる受動体としてのいきものだ。
動物の眼は開かれ、人間の眼は閉じられる。
人間がそこに茫洋とした形のまま「在る」ことを動物がどのように受け止め、どのように選択したかという結果だけが延々と描かれる。動物の選択によって、人間はその大地に「在る」ことを赦される。

 動物が人間に触れる一瞬の仕草は、聖書の中でもっとも重要な意味を持った特別な洗礼の瞬間を想起させるくらいに神々しく。動物との接触が行われた瞬間の、画面の向こうに居る人間の喜びと安堵が、大地に生を受けて最初の呼吸をしたかのような大きな愉悦の溜息が、きこえる。



 人間はなぜ、挨拶や愛情伝達という「記号」としてしか、触れるということをしなくなったのだろうか。
肌や掌というものの存在そのものが示す、深遠なる大地の意味をいまふたたび。

 


 





【イタリア・ルネサンスの版画】展(国立西洋美術館)。

2007-05-05 | 芸術礼賛
 約二年おきに、国立西洋美術館にイタリアルネサンス版画がやってくる。

 大学一年生の頃だったと思う。まだ上京して間もなく、あと数年したらイタリアルネサンス期の絵画についてようやく学べるのだ、とうきうきしていた。モノクロの版画はそれら自体がとても小さなもので、乱暴に言うと地味だ。集客材料となる目玉展示物などはひとかけらもない。
 ある種の予定調和のように画集などで見知っている絵を「確かめに行く」行為とは全く異なるその行為は、私にとって聖地巡礼と大層近しいものであった。

 版画というものは、フレスコやテンペラを描く前のテストケースであったりする。あるいは、多く複写されて弟子や他流派・後世の画家たちのテキストになったりもする。言い換えれば、それを複写した弟子の試行錯誤の経過でもある。
それらを目にすることは、所謂「完成品」であるフレスコやテンペラでは不可能だ。真摯に芸術と向き合う芸術家たちの日々の実験と苦悩、焦燥やウィットといういわばプライベートな側面をほんの少しだけ、垣間見せてくれるのがこの時代の版画の醍醐味であると私は認識している。
 
 ニードルのような尖りを用いて引掻いた幾多の線が太く細く、剛毅にあるいは羽毛のように柔らかく包み込むように白い立体を浮かび上がらせる。

消失点までの道のりを明瞭に導く、繰り返されるマンテーニャの空間把握への実験。
神経症的な線の集合体で樹皮から人肌、鱗、葉脈、金髪までを描き分けるデューラーの不遜さ。
物体の輪郭線すらおぼろげな、糸くずのように細い線の向こうに劇場的な光線を表現するパルミジャニーノ。

 彼らのような、版画でなければ日本で出会うことが難しい垂涎ものの大巨匠の手ずからの作品を息のかかる距離で目にすることさえできるのだ。色彩が削ぎ落とされているからこそ、より正確に実感できる彼らの興味の対象と、それぞれの表現の特異さ。
 子供の頃からずっとずっと、画集を眺めて想像していたマンテーニャのストイックな硬質さは、デューラーの生み出す菌類のような有機性は、パルミジャニーノのアンニュイなねじれは、ああ、このように構築されていたのか。
私は監視員に見つからないようにこっそりと、額のアクリルに触れないぎりぎりの距離で、彼らが描いたその線を指先でゆっくり追い掛ける。決して近付けない時間の隔たりを、涙ともうひとつの何かで埋めんとするように。

 まるで彼らが教授であって、その授業を受ける恵まれた学生のような気分で、焦燥感と憧れに憑かれたような目をして、その画面から読み取れる様々なことを慌てて心に書き留める。


  そして気付く。

 何百年も前から、彼らの版画を見てきた人々の後ろに私が続いていることに。
 私の前に長く長く並ぶ人々を、歴史は「弟子」「後継者」「追随者」と呼ぶ。





東京大学総合研究博物館小石川分館【驚異の部屋】展。

2007-03-25 | 芸術礼賛
  -- 大航海時代の西欧諸国において、Wunderkammer(驚異の部屋)と呼ばれる
  -- 珍品陳列室が王侯貴族や学者たちによって競ってつくられた。
  -- 人は誰しも生まれたばかりのときには、
  -- 目に見えるもの、手に触れるもの、
  -- 「世界」を構成するありとあらゆるものが「驚異」であったはずだ。
  -- このような「もの」をめぐる原初的な「驚異」の感覚は、
  -- 体系的な知の体得へ先立つものであるとともに、
  -- 新たな知の獲得へと人々を駆り立てる潜在的な原動力ともなっている。


 大好きな東京大学総合研究博物館小石川分館を久々に訪れた。春の霧にけぶる小石川植物園の隅っこに、その建物はある。旧東京医学校本館を移築した明治時代の木造擬洋風建築は、現存最古の学校建築として重要文化財に指定されている。

 そこに並ぶのは、体系も時代も無視した学術標本だ。

 【一の間】
1930年代に製造された巨大な地球儀が部屋の中央を占め、臙脂色のビロードを敷き詰めた壁際の棚には様々な骨格標本が並ぶ。動線を遮るように並ぶケースには、古めかしい鳥獣の剥製が並ぶ。
 【二の間】
流線型の船の模型、大小様々なプロペラ。その間に無作為に置かれる貝の模型、銀色の球体。人体の臓器模型を両側から挟みこむ前進骨格標本。窓際のデスマスク、彫像、菌類の模型。
 【三の間】
狭く閉ざされた空間には、壁を埋め尽くす爬虫類の図像に、木の棚に邪険に並べられた動物の部分骨格。
 【四の間】
広い空間の中を、銀色や銅色、海老色などの強靭且つ硬質カラフルな機械の断片が埋め尽くしていた。使い方も判らないアナログ計算機に、顕微鏡や実体顕微鏡、望遠鏡。美しい光沢のコンパス。運動伝達模型の数々。

 これらのものたちの多くが、廃棄処分される寸前に救出されたものだ。
廃棄場から救出してきたものを私に見せて「学究に携わる人間が、なぜこれを捨てることができるのか判らない。」とある教授(※当時は助教授)はよくぼやいた。教授の狭い部屋は徐々にそれらのガラクタで埋まってゆき、彼は知の遺産に溺れる恍惚感をその部屋に見出しているように見えた。
そうして、それを並べるに相応しい建物が手に入ったことによって初めて、彼らは教授の部屋を脱出し、ガラクタからモノへと再びの回帰を果たした。
  
 現在の学問と技術力のためには、ここに存在する全てのものは役立たずのガラクタだ。これらは何一つとして、学生に新規の何かを教示したりしないし、技術革新の一旦を担うことができない。空間を消費するためだけにあるものだ。
しかし、これらの全てはかつて最も新しく、最も優れていて、そして限られたごく一部の人間だけがその「先端」を享受することができた。今や大量生産の消費財のひとつでしかない地球儀や計算機とは全く性質を異にする、特別なるロマンと驚き、鼓動と動揺、不安、恐怖を与えるための煌びやかな知の結晶。


 それを運よく知ることができた私は、時代錯誤な幸せをこの先もずっと感じ続けてゆくことができる。私の理想とする部屋の幻像は恐らく彼の教授の部屋によって紡がれ織り成され、その魅力と誘惑はいっかな衰えることがない。



 知の方舟の木造の梁は剥き出しで、今も雨上がりの暖かい呼吸を続けている。