潮の香りがする、ひなびた温泉街だった。
台風でも来ようものなら、殆どの宿は屋根が飛ばされて、ばらばらになって海に呑まれてしまうのだろうことが容易に想像されるほどの、貧相な木造の民宿が狭い路地に軒を連ねていた。
名もない過疎の温泉地には観光客の姿は全く見えず、近隣の老婆がお喋りに興ずるために集まる集会所と化していた。その他の数少ない余所者といえば、身体を壊して湯治・・というよりも、公に湯治に来ていることを知られずに済む安心感のほうをより重視して、むしろひとときの隠遁をしているらしき人に限られた。そうした人は、老婆や爺ほどに年を重ねてはいないし、お喋りを愉しむ風情でもないから、すぐにわかる。私はといえば、おおまかな予定しかないひとり旅の途中にこんな場所に紛れ込んでしまっただけだが、この光景に珍しさと僅かながらのノスタルジィを感じてしまったために、興味本位で一夜の休息を得ることにしたのだった。
老婆で混みあう湯屋から慌しくあがると、つづきの広い客間がある。私はその外縁に腰掛けた。
「痛。」
座布団やら布団やらが無造作に積み重なる一角に、ここでは無造作がしきたりであるとばかりに腰掛けたせいで、その下に人の足があることに気付かなかった。気付かないほどに、くしゃっとなったその布団は薄っぺらかったのである。
「ごめんなさい。」
慌てて謝罪し、布団の端をちらとめくると、雑多で下賎な宿には不似合いなほど鮮やかな紅い花柄の着物が覗いた。病人らしく、簡易に髪を結い上げた和装の人は、白粉のせいもあるであろうが、そうはいっても真っ白な顔をこちらに向け、気にするなと首を横に振りながら笑った。唇に細く引いた紅がとても艶かしい、それは男性だった。
女の装いをしているのは、自分が既に男のなりをするのが不可能なくらいに、そして男としての機能を最早失ってしまうくらいに痩せこけてしまったからだと男は云った。彼は、末期の癌であるらしかった。
「自分は今更もう何も思わないけれど、君がもしこうなってしまったときのために、今から心がけていることってなにかあるの。」男は訊いた。
私は、いつも心に留めながらもついつい怠ってしまう年初の遺書執筆について答えた。次の年初には、今度こそやっておくべきかしら、と思いながら。
もし旅の帰途にここに立ち寄ったとしても、そのときにはもうこの男はここに居ない。そんな確信が、互いの中に確かにあった。そんな相手に対して一瞬の情動が駆け抜けることに理由はきっと存在しない。私はただ、男の着物の袖をきゅっと握るだけで精一杯であった。自らの、そして他者の情動を受け止める余力も機能も失っている男は、私の困ったような切実なる顔を見て、首をすいと傾げて哀しく微笑んだ。私はただ黙って、男の紅い唇に口付けた。
台風でも来ようものなら、殆どの宿は屋根が飛ばされて、ばらばらになって海に呑まれてしまうのだろうことが容易に想像されるほどの、貧相な木造の民宿が狭い路地に軒を連ねていた。
名もない過疎の温泉地には観光客の姿は全く見えず、近隣の老婆がお喋りに興ずるために集まる集会所と化していた。その他の数少ない余所者といえば、身体を壊して湯治・・というよりも、公に湯治に来ていることを知られずに済む安心感のほうをより重視して、むしろひとときの隠遁をしているらしき人に限られた。そうした人は、老婆や爺ほどに年を重ねてはいないし、お喋りを愉しむ風情でもないから、すぐにわかる。私はといえば、おおまかな予定しかないひとり旅の途中にこんな場所に紛れ込んでしまっただけだが、この光景に珍しさと僅かながらのノスタルジィを感じてしまったために、興味本位で一夜の休息を得ることにしたのだった。
老婆で混みあう湯屋から慌しくあがると、つづきの広い客間がある。私はその外縁に腰掛けた。
「痛。」
座布団やら布団やらが無造作に積み重なる一角に、ここでは無造作がしきたりであるとばかりに腰掛けたせいで、その下に人の足があることに気付かなかった。気付かないほどに、くしゃっとなったその布団は薄っぺらかったのである。
「ごめんなさい。」
慌てて謝罪し、布団の端をちらとめくると、雑多で下賎な宿には不似合いなほど鮮やかな紅い花柄の着物が覗いた。病人らしく、簡易に髪を結い上げた和装の人は、白粉のせいもあるであろうが、そうはいっても真っ白な顔をこちらに向け、気にするなと首を横に振りながら笑った。唇に細く引いた紅がとても艶かしい、それは男性だった。
女の装いをしているのは、自分が既に男のなりをするのが不可能なくらいに、そして男としての機能を最早失ってしまうくらいに痩せこけてしまったからだと男は云った。彼は、末期の癌であるらしかった。
「自分は今更もう何も思わないけれど、君がもしこうなってしまったときのために、今から心がけていることってなにかあるの。」男は訊いた。
私は、いつも心に留めながらもついつい怠ってしまう年初の遺書執筆について答えた。次の年初には、今度こそやっておくべきかしら、と思いながら。
もし旅の帰途にここに立ち寄ったとしても、そのときにはもうこの男はここに居ない。そんな確信が、互いの中に確かにあった。そんな相手に対して一瞬の情動が駆け抜けることに理由はきっと存在しない。私はただ、男の着物の袖をきゅっと握るだけで精一杯であった。自らの、そして他者の情動を受け止める余力も機能も失っている男は、私の困ったような切実なる顔を見て、首をすいと傾げて哀しく微笑んだ。私はただ黙って、男の紅い唇に口付けた。