Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

ミュージックバトン。

2005-06-29 | 伝達馬豚(ばとん)
質問:
1.Total volume of music files on my computer (コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)
2.Song playing right now (今聞いている曲)
3.The last CD I bought (最後に買ったCD)
4.Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)
5.Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)

 だそうだ。seedsbookさんのところからタスキ・・じゃなかったバトンを引き継いだ。繰上げスタートにならないように早めにやってしまおう。

1)コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量

・・なし。
恥ずかしながら、最近の若者(に含まれていることを祈る)の間にあっては危機的なくらいにPCを活用していない。アナログ人であることは知人友人に知れ渡っているので大抵のところ問題はない。たまに、左程親しくない人からMDを貰うととても困る。何しろ、再生する機材がないからだ。

2)今聞いている曲

 シカラムータ(シカラムータ)
夏が来た。クラリネットの情緒的な響き、ジンタやチンドンをミックスさせたリズムが夏の夕暮れを、化学の色した薄いブルーのアイスキャンデーを脳裡に浮かび上がらせる。夏になってしまうと、これをひっぱりだしたくなる。

3)最後に買ったCD

 クレイジー・ケン・バンド ベスト Oldies but Goodies(クレイジー・ケン・バンド)

 引越しの際に失くしたのだろうか、それとも生活に困窮していたときに纏めて売り払った中に混じっていたのか、とにかく以前持っていた一枚を復活させたものだ。ばかっちょい歌詞と、よく練られたジャジーでもあり歌謡曲でもあるメロがいいバランスを成している。最近ありがちな、歌詞にメッセージを込める頑張れソングはちょっと鬱陶しいので、こういうストレートに音楽を愉しんでいる系のバンドがいい。

4)よく聞く、または特別な思い入れのある5曲

 THE BEST OF DOORS(DOORS)より、[THE END]
私のロックオリジンはビートルズではなく、DOORSである。ジム・モリソンの声が堪らなく好きだからだ。THE END の何がいいって、うまくいえない。QUEENのボヘミアンラプソディーが好きなのと大体同じ理由だ。

 GREATEST HITS OF QUEEN(QUEEN)より、[DON'T STOP ME NOW]
勤めていた頃、朝に支度をしながらこの曲をかけて気合を入れていた。「今日もいっちょやってやるか!」そんな気分にさせてくれる。

 ショパン夜想曲全集(ウラディーミル・アシュケナージ)より第19番と第21番
実家住まいだった頃、ピアノはお友達だった。ショパンが大好きで19番と21番は何故だか感情移入し易く、悲しいことや悔しいことがあるとよく弾いていた。弾き疲れると、何事もなかったかのように心がクリアになる感覚が好きだった。ショパンはアシュケナージに限る。

 THANK YOU(Michael Schenker)
今は一般販売しているが、かつてはファンクラブ限定の販売だった。当時付き合っていた男性にいくらねだってもこの一枚だけはくれなかったのに、何故だか別れ際にくれた(笑)今では第2段、第3弾も出ているらしい泣きのギターの定番である。

 ムソルグスキー,はげ山の一夜/展覧会の絵
ムソルグスキー多々あれど、この2曲だけが入っていて、はげ山が最初でないとダメ、という不思議なこだわりがある。展覧会の絵は元々ピアノ曲で、それを弾くのが好きだった。特に、キエフ。
 
5)バトンを渡す5人

 みんなそんなに暇じゃないだろうから、seedsbookさまに倣って今回も自己申告制とさせて頂くことにする。無理矢理頼んだらチェーンメールと同じになってしまう。そうしたら愉しさも半減だ。
自己申告と云いながらも、誰かがあとを継いでくれることをひっそりと願っているのだけれども。

夏のノミモノ。

2005-06-28 | 物質偏愛
 先週から、梅雨を通り越したように暑くなった。
 空は相変わらずどんよりと灰白色の梅雨空だっていうのに。

というわけで、そろそろ私の定番夏用ドリンク購入の時期となった。
写真にあるそれは今朝の8時半に届きたての、ウィルキンソンのジンジャエール。
主にカクテルを作るときなどの業務用で使用されることが多く、ストレートで飲む用として酒屋の店頭に並んでいることは非常に少ない。ましてや酒屋以外の店に置いてあるところなぞ殆ど見ない。
代わりに並んでいる可能性が高いのがシュウェップスカナダドライ。前者は、海外スペックはどうか知らないが、日本用のものはやけに甘ったるいし後者は嫌味のない単なる炭酸飲料で、スプライトや7upと大差ない気がして、その名に負っていたはずの「ジンジャー」はどこへやら。

ウィルキンソンのジンジャエールにはレギュラーとドライがある。「ドライ」はドライな味というのではなく、辛さを失くしたという意味のドライであって、所謂現在市場を席巻しているジンジャーエールとまぁ似たような感じの味。好みはレギュラーのガツンとくる味。ジンジャーの存在感もいうことなし。飲み終えた後に喉がカッと熱くなるのが堪らない。空腹時であれば胃までが熱くなって「うわぁ」という感じ。ポテンシャルが高いので、3つくらい氷を入れても大丈夫、というのも夏には嬉しい。これと比べてしまったら、他のジンジャエールなんて子供のジュースだ。
 なんて、酒の飲めない私がなにを言っているのかと自分でも思う。

商標については、カナダドライが「ジンジャーエール」、ウィルキンソンが「ジンジャエール」。詳しくはこちらを参照。

加えて、ウィルキンソン・ジンジャエール愛好会などというものも発見した。大の大人をハマらせてしまうアクの強さと強烈さ。最近の車のシェイプのような「なんとなく優しくまろやか」なるものへ反発を抱く者はどこにでもいる。
上等上等。


宙との距離。

2005-06-24 | 徒然雑記
 つい先ごろ誕生日だった友人に土地をプレゼントすることにした。
 とはいえ、かなり不便な月の土地

 かなり以前に話題になったものなので、皆様ご存知のことでしょうし、既に土地を購入済みの方もおいでになるかもしれない。1エーカー単位なので、ひとりが購入しておけば、みんなでサッカーをすることができる。重力操作ができればの話だが。

 地球のあちこち(とはいえユーラシア&アフリカ大陸側のみ)をぴょこぴょこ飛びながら、時差を計算しつつメールや電話を掛ける仕事をしていた頃は、地球の大きさがなんだか手に届くものになった。あっちで爆発があったり、こっちで選挙があったり、むこうで感染症が流行したりなんかしたら、それはすぐ自分たちの目の前で起こっていることとしてわたわたと情報収集に追われた。それはとっても意外で、とっても嬉しい変化だった。

 他所の星の土地を手に入れたとしたら、宇宙の距離もちょっとだけ近くなるだろうか。
 自分と太陽系のある星との間に、目に見えない糸ないし鎖のようなものができるだろうか。
 それを手繰り寄せていったら、その星に手や想いを届かせることができるだろうか。

 
 月があけたら、私の元には火星の土地の権利書が届くはずだ。


法華寺(十一面観音)

2005-06-22 | 仏欲万歳
 久方振りのシリーズが帰ってきました。
来月、奈良に調査にゆく予定を調整中の為、奈良への里心がついているためと、lapisさんの記事で『幻術の塔』にまんまとかどわかされてしまったためだ。『幻術の塔』がある海竜王寺は法華寺のすぐお隣のような場所にあって、もとは平城宮の鬼門(北東の角)を守っていたために別名「隅寺(すみでら)」と呼ばれているところ。余談はいいとして、そういう位置関係にある為に大抵ここを訪れるときは2寺セットとなることが多く、記憶の中では同じ引き出しに収納されているようだ。片方を引っ張り出すとつられてもう一方も出てくる塩梅だ。

手始めに、十一観音の頭上面の意味は概ね次の通り。

本面     ----- 菩薩本来の慈悲の相
頂上仏面   ----- 究極の理想としての悟りの相
化仏(阿弥陀) ----- 十一面観音が阿弥陀仏の慈悲の心を実践する菩薩であることを示す
菩薩面    ----- 善い衆生を見て、慈悲の心をもって楽を施す(本面と合わせ3面)
瞋怒面    ----- 悪い衆生を見て、怒りをもって仏道に入らせる(3面)
牙上出面   ----- 清らかな行いの者を見て、讃嘆して仏道を勧める(3面)
大笑面    ----- 善悪雑穢の者を見て、悪を改め、仏道に導く

(※化仏は菩薩であることを示す菩薩全般の特徴で、十一面固有のものではない)

 「十一」という数については、あらゆる方向に顔を向けていると言う理念を示す。菩薩が見つめる全方位とは、中心一つ・北・北東・東・南東・南・南西・西・北西の八方向に加え、上方及び下方の合計十一方向。

 教科書的な説明はこの辺で仕舞うことにする。書いていてもさして面白くない。
さて、法華寺の十一面観音はその色もあでやかな秘仏さまで、つい先頃の6月上旬に特別開扉が行われたばかり。こういう秘仏の開扉は観光客を当て込んで秋に集中的に行われることが多いが、蓮の花咲くこの季節にこの開かずの扉を開けることはまるで不文律であるかのように、似合う。
何故なら、画像で一目瞭然だが、この菩薩の光背は異様な姿の蓮光背であるからだ。水分が失われかけているのか、あるいは菩薩の身体から放たれる光と熱が強いためか、くるりんと丸くなってしまっている葉が殆どで、そのひとつひとつの曲線は見事に艶かしく、目を細めたら風もないお堂の中でゆらゆらとそれぞれの茎が異なるリズムを持って揺れているに違いない。

 今までに紹介した仏像と明らかに異なる点は、檀像風の作りであること。檀像とは、元来白檀のような香木を用いた一木造りの彫像であり、香りを消滅させないために素地のまま仕上げているのが特徴であるが、日本では香木の入手が容易でないことから、桜や檜、カヤの木など木目の美しい素材がよく利用される。
法華寺のそれも生地の美しさが全面に押し出され、彩色は頭髪・眉・黒目・髭・唇程度。殊に唇の朱は鮮やかなもので、他の肌目に色彩がないからこそ、見る者の視線は嫌が応でも吸い込まれるように唇に集約される。弘仁・貞観時代の特徴である躍動感のある衣文のドレープの下には、ゴーギャンが描くような豊満で褐色の肌を持つ女性の肉体が美しい木目と艶そのもので表現される。

 和風とも異国風とも取り難いこの菩薩の持つ挑発的な要素はそこだけに留まらない。これまた植物的に長くひゅるっとした右手の指先で天衣を摘み上げる指先の反らし具合。宝瓶を持つ、というよりそっと摘み上げただけの左手の指先同様、非日常的な仕草この上ない。写真を見ながら、是非自分の手で真似てみて貰いたい。しんどいほどの仕草ではないが、自然にしていて生まれる角度でもあるまい。不自然な緊張感が伴うからこその美なのである。

 更に加えるなら、蓮台からはみ出した遊足(体重を乗せていない側の足)の右足の親指も上に反らしている。ちょっと踏み出しすぎた片足が蓮華からはみ出していること自体が示す若干のお行儀悪さがこれまた小悪魔的で、その親指が反っているところに、今まさにこの足が動いていました、という意識の集中を感じさせるではないか。

 犯罪的な程に計算し尽された菩薩の挑発。
 乗る乗らないはこちらの自由。
 ・・乗らないで済まされるものであるのならね。

 

万華鏡。

2005-06-21 | 徒然雑記
 今年の梅雨は昨年と比べて雨が少ないので、車を持っていない私は結構助かっている。五月に続いた異常な寒さのせいだろうか。携帯の待ち受け画面に表示されている天気予報は曇りを示しているというのに、今日は青空まで広がっている。それならば、ということでデラウェアのいちばん小さな房を果物籠から出して左手に包み、右手には本棚に横たわっている小さな万華鏡を携えて、隣の公園まで行ってみる。

 デラウェアの皮はそのうち土に還るだろうから、何もわざわざゴミ箱に捨てることもなかろう。足元の地面にぱらぱらと撒くようにして、折々に眩しい太陽を葉陰で庇うようにして万華鏡を覗き込む。
眩しいような、眠いような。

 ・・うたたねをしてしまったようだ。
つっかえ棒にしていた左手首が上半身の重さに耐え切れずに痛む。地面にぺたりと座っていたため、尾骨も心なしかじんじんする。
手首をぶんぶん振りながら辺りを見回し気がつけば、あの細く尖った刃物のような鋭い太陽の姿がない。それもそうだ。何故だかここは室内で、私は木の壁に囲まれた広い部屋に座っていた。太陽がないことに気付かなかった程の明るさは、六角形になっている部屋それぞれの壁に穿たれた大きな窓から差し込む眩い光のせいに違いない。

これ以上座り続けているのも辛いので取り敢えず身を起こし、そうだ、と思って右手に握っていたはずの万華鏡を探す。と、見当たらない。床にも落ちていない。食べ終えてしまった情けない葡萄の残骸は足元に転がっているというのに。
そうか。ここは、万華鏡のなか。

ひとつめの窓に歩み寄る。窓の向こうには、どこか知らない国の石畳と、立派な銅像の建つピアッツァ。ただひとつ異様なのは、ロータリー状の道路が幾重にも、まるで天に続くかのようにらせんを描いて宙に続いていくことだ。その道を上へ下へ、外国車ならではの鮮やかな発色の車たちがくるくると踊るように走っている。青のプジョー、赤のビートル。黄色いスポーツカーに、おや、二階建てのあずき色のバスまで。なんだか、愉しそうだ。

ふたつめの窓へ。河だろうか、それとも海か。穏やかで波が殆どなくて、恐らく風が少しだけあるのだろうか、水面だけが細かくテント屋根のようなたわんだ三角を連ねている。窓の向こうの太陽はほぼ空のてっぺんにあって、常にその細かく震えるような動きをやめない三角屋根が従順にそれを跳ね返し、時折その光線のひとつが私の目を直撃する。最初には見えたブルーが眩しすぎてもう見えない。ここにあるのは、細い光を掻き集めた束。

みっつめの窓へ。音は聞こえないのだけれど、一転して騒々しい。紅い舌のような筋がちらちら見える。シマウマの模様のような筋は、山と大地からこぼれ出す溶岩の筋だ。端々で水蒸気爆発が起こっており、その振動がこちらまで伝わってきそうな錯覚を覚える。赤は、いや紅の色はひとつではない。生まれ出たときの朱は半分以上が光のような輝きと艶を持っていて、流れてゆく途中で黒ずんだり紅色になったり、うっかりすると弾けてピンクやオレンジや茶色の粒に分解されて散る。自分の立っている地面の下には、こんな色があったのか。

まるで憑かれたように、よっつめの窓へ。太陽の輝きが鬱蒼とした森に遮られている。どこか懐かしい気持ちがするのはギアナ高地の森に似ているからだろうか。雨が降っているわけでもないのに一面がけぶっているような、ふぅわりとした視界。露や水蒸気の膜が張ったような木々の葉や名も知らぬ花はみな、硬質なエナメルに似た煌き。こうして眺めている傍から新しい草が次々と生え、蔓が延び、またひとつ花が咲く。もうひとつ。あとひとつ。飽きないな。

いつつめの窓。太陽は傾いている。ぽつぽつと不規則に並ぶ灯かりが少しずつ、少しずつ増えてゆく。暮れかけの陽は光量が足りないけれど、直感で判る。これは墓だ。ひとつの墓にひとつずつ、灯篭のように灯が燈っている。白く輝く鋭い灯、小さいけれどぽわんとあたたかそうな橙色の灯、歌うように小刻みに揺れている蝋燭のような灯。灯の大きさも揺らめきも、その気配も様々だ。灯は、確実に、喋っている。

最後の窓。ここはなんだかとても眩しい。広がる芝生の真ん中に、なんだか見慣れたケヤキがある。ベンチに本が伏せてあって、その持ち主は見当たらない。忘れ物かな・・と思っていると、窓を覗き込んだ視線を直撃するように午後の太陽がぐさりと目を突き刺した。
痛たた・・結膜炎になってしまうよ、これじゃぁ。慌てて目を瞑り、瞼にちらちらする残像を拭い取るかのように両の拳で目を擦り上げる。そのままの状態で窓から遠ざかろうと一歩踏み出したのがいけない。何かに躓いて、しまったと思った途端、無様に転んでしまった。

板張りの床の衝撃が膝に走るであろうことを予感したが、それはあっさりと裏切られた。
膝をついた下には陽光を浴びてのびのびと育つ芝生。見上げた頭上には、さっきまで私を厳しい陽光から守ってくれていたケヤキの枝。太陽は2時間分くらい移動してしまって木の下は既に直接降り注ぐ太陽の熱でほんのり暖かい。

 えぇっと・・何をしていたんだっけ。
まずは冷静に考えよう、と顔を覆おうとしたら、拳を開いた右の手から木の万華鏡が滑り落ちた。

 ・・・まぁ、いいか。いいよね。
 万華鏡を拾い上げて草や砂を払い落とす。
 天気がいいっていうのは、いいことだ。
 

さんぽ道。

2005-06-18 | 徒然雑記
 誰かに連れられて歩く小学校から家までの道は、僅か15分の道のり。けれど一人ぼっちで歩く同じ道は、歩ききるまで2時間かかる。道の傍で私を日々待ってくれているいろいろなものたちが私に話しかけ、誘惑するからだ。いつものように眉毛をきゅーっと吊り上げた母が自転車に乗って迎えにくる。あぁ、また今日も叱られる。そう思って見回す周囲には既に学校帰りの者は全くおらず、日も僅かに傾きかけている。母の雷はとても怖いのでしゅんとしてしまうが、そっと振り向いて心の中で呟いた。
また、あしたね。

 春。

入学して間もなく耳にする学校の怪談や怖い話。体育館裏から程近い、通学路に面した古い一軒家の前は静かに通らなければいけないと云われた。包丁を持ったオババが騒音に怒って追いかけてくるとされていたから。その家を無事に通り過ぎれば空き地が広がり、運がよければふきのとうが、普通ならつくしが見つかる。地べたに這いつくばって存分に草と遊ぶこの場所で、私は多くの草の名前と形と、遊び方を知った。
草に飽きたら次は藤棚。上を向いて歩くと毛虫が落ちてくるといけないから、足元とゆらゆら風にたわむ藤房とをちらちら交互に見やりながら歩く。本当はこの房を手に取りたいのだけれど、ジャンプしてうっかり木を揺らしてしまったら、たちまち毛虫の大群が雨あられと降ってくるに違いない。美しいものは、手に入らない。いや、手に届かないから余計に美しいのだということを知った。

 夏。

既に毛虫の巣立った藤棚には豆のような形をした種がひょろひょろとぶら下がっている。ジャンプして一本ずつ獲得してゆくのだが、左手が一杯になったところでいつもその始末に困る。いい加減使い道がないことくらい覚えればよいのに、空中で揺れながら私を呼ぶその誘惑には勝てない。未だに、シャンデリアやモビールなど、空中に垂れ下がって魅惑的な形状をしているものに私は弱い。
途中で一本の川を渡る。夏の土手の日当たりがよい片面には蛇いちごがなる。人の歩く土手の近くのは色がよくないので、相当な傾斜のコンクリートブロックに足を掛けて、落ちないように細心の注意を払いつつ斜面を半分くらい降りてゆく。コンクリの蓄える熱と遮るもののない陽光、そして人や動物に触れられない一等地に実る蛇いちごの実のキラキラと綺麗なこと!大事にして家まで持って帰ろうにも、帰宅した時には最早その輝きが失われることを知っているから、一瞬の輝きを愛でた後、すぐにその場で口に放り込んでしまう。好きなもの、キレイなものを摘み取って大事だいじに囲っておくと、それはみるみるうちに輝きを失って爛れて醜くその姿を変えてしまうことを知った。何かが美しいのは、それがそこにあるからだと。

 秋。

空き地に赤とんぼが舞いはじめる。赤の色が濃くなる程に、その動きが愚鈍になることを知っている。息を止めて、利き手の中指と人差し指ですっと空気を切るようにして赤とんぼの羽を捕らえる。20分もあれば、左手と右手で計5~6匹は捕まえることができた。その両手の全ての指を空に向けてふわっと開けば、自分の手から解放された赤とんぼは一瞬散りぢりに花開き、すぐ後には仲間の後を追うように流れてゆく。沢山あること、群れであること特有の侵し難い美には、そのうちのいくつかを中途半端にを所有しただけでは決して勝てないことを知った。
同じ頃、銀杏並木は黄色に染まり、他の枯葉と異なりかしゃかしゃとした骸骨のような音を立てない柔らかい絨毯を形成する。必要以上にそうっと歩きながら、視覚を凌駕するぞくぞくするような触覚というものを知った。

 冬。

雪の降らない冬。刈り取りを終えた水田に残された稲のリズム。地上に10cm程残されたそれを、垂直に足で踏みつけてゆく。じゃく。じゃく。一日につき一列ずつの愉しみ。愉しみを分割することでより欲求と悦びは倍加するというマゾヒスティックなコントロールを覚えた。
すっかり淋しい大きな棒切れのようになってしまった銀杏並木の向かいには、それまで全く存在感を示してこなかった山茶花が艶やかに開花する。毎年この時期に同じように咲くのに、毎年その色彩にはっとする。そして、ごめんね、と思う。都合がいいときしか目を向けなくてごめん。他に艶やかなものがないから君を見る訳じゃなくて、本当に君がきれいだと思っているのに。だけど毎年同じことを繰り返す自分の浅はかさに、山茶花に叱られるわけでもないのに心がきゅぅっとなった。

 
 今でも時折誰かを傷つけたりなぞして、同じ心の痛みが訪れたときには必ずあの紅い山茶花が脳裡に浮かんできて、ごめん、と心の中で謝る。
もういい大人になったというのに、私はまた同じことを繰り返してしまっているよ。こんなときだけ君のそのきれいな花を思い出したりなんかしてごめん。できることなら、心の中にいつもずっと咲いていて欲しいと思うのに、どうしてそれができないのだろう。

 だいすきなんだよ。
 ほんとうだよ。
 ごめんね。

好きな庭木をただ並べてみた

2005-06-13 | 物質偏愛
 ご無沙汰でした。
熱を出している間は、思いがけない夢を見たりして目覚めたあとにおろおろしたり頭を抱えたり、その意味を問うたりすることも多い。この度の熱では、幼い頃の私の世界の全てであった家の裏庭で久々に遊ぶ夢を見た。目覚めたあと、泣きたい程の喪失感と幸せとが訪れた。木や草や虫をあんなに接写して見る機会は大人になると殆どない。今回の庭木リストは、幼い頃にひとときでも我が家の庭にあったものから選んでいる。それぞれの木と私との間には、密やかで長い物語があるのだが、それはまた別のおはなし。
失われてしまったあの距離感。暑い夏の夕暮れに勢いよく水を撒いたときの匂いをふたたび。


黒松
 盆栽でも有名な黒松。赤松よりも無骨な幹肌と、美しく剪定された枝が美しい日本庭園の定番植栽。もしいつか自分の庭を持つことができるなら、気に入りの形をした石たちとともに、最低でも3本は黒松がなければならない。蛇足だが、池は要らない。

白木蓮
 木蓮もコブシも両方とも好みであるが、片方を選べと云われればこちらになる。桜が散ってしまってまだ若葉も左程芽吹いていない、なんとなく心淋しくなっている折に華やかな白で喜ばせてくれる。冬にその大ぶりで堅い葉がごっそりと落葉するのだが、さすがにあのボリュームには溜息が出る。春の喜びのための我慢だ。

山茶花
 ごっそりと葉が落ち、目に見える色彩が日に日に減ってゆく冬。つい目線が下に落ちてしまいそうなこの季節に、私の顎をくいっと上へ向けさせてくれる鮮やかな冬の花。赤い山茶花に降り始めの雪が薄っすら降りかかっている際のあでやかさといったらない。

百日紅(さるすべり)
 ひきかえ、こちらは夏の花。現在の我が家にあるものは二代目だ。一代目の幹が虫にやられて、その根元から若木が伸び始めていたのが最早私の背を超えて育っている。すぐに乾燥してしまう、ふわふわしたお菓子のような花弁の感触がすきだった。

いろは紅葉
 我が家には紅葉が三種類あった。そのうちのひとつがこれ。本当は、年じゅう紅い色をした紅葉のほうが好きだ。枝垂れもいい。松と同じく、紅葉も庭には欠かせないと思う。大人になった今ではつい葉ばかりを見てしまうが、昔はその花も、実も、ここを宿にするカミキリムシもすきだった。

躑躅(つつじ)
 5月の楽しみは躑躅の花を狩ることだった。丸く刈られた木を埋め尽くすように沢山咲いてくれるから、みっつやよっつ花を頂戴したって大したダメージにはならない。しゅるっと伸びたしなるおしべが、そこが別の意思を持った生き物のようにずっと思えていたのは何故なのだろう。

皐(さつき)
 躑躅と並び、低木の花を少しでも長く愉しむために我が家では皐を混ぜて植えていた。躑躅よりも弾力と光沢のある花弁の質感が好きだったが、何故か花狩りの対象にはあまりならなかった。しかし小さなひと枝を拝借して陶器の一輪挿しに活けるには、その枝葉と花のサイズや量のバランスが丁度よくいい感じで、床の飾りに拝借させて貰っていた。

雪柳
 今ではその花の形ひとつひとつをきちんと見ることがなくなってしまった。風にふぁさふぁさと揺れる白い房は、勉強部屋の窓ごしにぼぅっと庭を眺める幼い私の目をよく引いた。花と同様に可憐で小さな葉と、それよりもっと小さな花を小さな陶器の盆に水を張って浮かべたりした。

南天(なんてん)
 その葉の色と形が美しく、枝は細く繊細で、枝分かれするところに不思議な形の節があり、手にするといとも簡単にぽっきりと折れてしまい、まるで木を虐めてしまったような申し訳なさに駆られたものだった。殆ど雪が降らない地域なので、赤い実とほんのり赤い葉を使って雪うさぎを作ることができたのは、たった一度きりだった。

蘇鉄(そてつ)
 たくさんあるとどうにもがさつに見えてしまうが、不思議と日本庭園にも収まりがよい。夏は鬱陶しいくらいに夏らしいが、冬場にこも巻きされてまるで別の生き物のようになってしまった蘇鉄も結構すきだ。大名庭園で好まれたのも頷ける、異国情緒と繊細さとが紙一重で共存している風情を持つ。

微熱日和。

2005-06-11 | 徒然雑記
近しい方々は厭というほどご存知のことだが、私はかなり虚弱である。

母から貰ったものは自律神経失調症と時折の不眠症、冷え性及び神経性胃腸炎。
父から貰ったものは偏頭痛と気管支炎(酷くすると喘息だ)に花粉症にハウスダストに一部の食物&動物アレルギー。
生まれてきたときは、逆子を強制的に何度か直したせいで臍の緒が首に幾重にも絡まり、その一方を自分が引っ張り、もう一方は胎盤にくっついているものだから窒息状態で心臓は2分くらい止まっていたらしい。動物の生命力とは恐ろしいもので、結構な酸欠状態だったにも関わらず脳のほうは恐らく正常な機能を果たしているようだ。

というような状態で拾った命であるものだから、体力がどうとか日々の体調が云々とか文句を垂れる権利はあまりない。五体満足で拾ってきただけもうけものだ。たまに妙に快調な日があると自分でも驚くが、頭痛の翌朝にはどこも痛くないことが最上の幸せであるし、気管支の発作の後には、吸気が肺に流れ込むことの神秘をいぶかしんだりもする。虚弱な身体だからこそ見えてくるものもあるし、そんな不出来な身体をコントロールするべき根性や気合、集中力が身に付いたりもする。
それはそれで、ある意味平等なのじゃないかと思う。

実は日曜日からずっと、37.0~37.4度という中途半端な微熱が続いている。
平熱も高いほうなので大した負担ではないが、いっそ潔く高熱がスカッと出てくれたほうが気分がいい。
いつものように微熱を内緒にして、明日は両親のために上京しなければならない。

煙草が不味いことだけが、こういうときに勿体無い。


 拾った命だから、大切にしようと思うか。
 拾った命だから、惜しくないと思うか。
 

好きな珈琲屋をただ並べてみた

2005-06-07 | 物質偏愛
さて、今回は毛色を変えて、ちょっと営業チックではあるが私の大好きな珈琲屋リスト。
ご存知の方もおいでになるが、私は血統書付きの下戸である。手術をした親の見舞いに行った折、天井から「禁アルコール」の札が堂々と掛かっているのを見て、あぁ私もそういえばアルコール消毒で皮膚が真っ赤になるなぁ、と思った。そんな訳でいささか色気がないが、酒の飲めない人間が珈琲という嗜好品に掛ける情念はなかなか濃いものがあるに違いない。

【東京都内】

OLD TIME(渋谷店)
 このリスト内で最も長く通いつめている店。従業員の変遷を見てきた。一枚板のカウンタ席が気に入りで、贅沢な生花の香りと、バロック音楽が小さな音量で流れているのを目と耳で同時に愉しむ。合間にはマスターと話をする。特別な設計により19時からのバータイムに合わせてボタンひとつでカップ棚が収納され、床が下がってハイカウンタになる。長く通っていると、ちょっとした操作のミスで酒瓶が派手にひっくり返って割れる場面にも遭遇する。

猿楽珈琲
 店主の気紛れで店が開いたり閉まったりする。「用事で出ています。16時頃に戻る予定です」の張り紙が。時間も曖昧なら、戻るか否かも曖昧だ。こういうときは二度と開かない場合もあるので待たないほうがよい。「濃いめの珈琲」か「ふつうの珈琲」がすきだ。かつては、押さえた笑い声を上げただけでも叱られてしまう店だったが、最近は大分ソフトになったようだ。


 場所は繁華街真っ只中だが、ここだけ異空間。13mのカウンタのいちばん奥はクランクのようになっていて、手前の席からは死角になっている。この空間をゲットできればもうご満悦である。カップ&ソーサーのコレクション日本一とは恐れ入る。地震対策はしているのだろうか。他人事ながら大変気になる。

カフェ・ド・ランブル
 ここは2番目に長く通っている店だ。オリジナルの灰皿と一体化したテーブルにオリジナルのデミタスカップ。珈琲ゼリー以外の甘味を一切置いていない気骨は流石だ。10年もののオールドコロンビアが気に入りだが、豆のタイミングがよくないと頼んでも断られる。ここでは客は神様でなく、あくまで店が主導なので、そういうスタンスが苦手な人には向かないようだ。頑固職人ここにあり。

十一房珈琲店(銀座店)
 銀座でちょっと待ち合わせ、あるいは歩きつかれたらここで一服。私が通う珈琲屋の中では比較的明るい店内とジャズが流れる軽快さが、今日は銀座で遊んだわ!というテンションを否定しない。通常はカウンタ派だがここでは異例にもテーブルを選択する。ハワイコナとハイチをよく頼む。

ミロンガ・ヌォーバ
 神保町に数々立ち並ぶ珈琲屋のひとつ。ビール屋でもあるので珈琲を飲んでいる私の向かいで連れにビールを飲ませることが可能という稀有な店でもある。最近あまり行く機会がないが、今回のリストではイノダコーヒと並ぶ程度の淡いマイルドな味。気合の抜けた感じがビールを飲んでいる相手に合わせるには丁度いいのか。

プリマベーラ
 すりガラスとカーテンで店内が見えず、営業しているのかしていないのか判りにくい外装に、生い茂る植物。入口に猫もいたりする。中に入ってしまえば小さな可愛らしい喫茶店。数種のブレンドがなかなか秀逸で、気に入りはニレブレンド。実は、冬メニューのホワイトシチューが絶品だったりもする。
 
【その他地域】


 鎌倉に来たら必ずここに立ち寄る。毎回道に迷いそうになりながらもきちんと辿り着けるから不思議だ。カウンタに座ると、カップを選ぶことができる。黙々と無口なマスターが客を放ったらかしてくれているのがいい。カップが陶器中心であるのも、たまにはいい。

イノダコーヒ
 京都のお約束。味が好みというわけではないけれど、なんとなく昭和の味がする。難点をひとつ云えば、ミルクを入れるかどうかを最初に決めなければならなくて、途中でブラックに飽きたからミルクを入れたいなー、という際にはわざわざお願いをしなければいけないところ。

六曜社珈琲店
 京都のもうひとつ。ここは何曜日の何時に行ってもスーツのサラリーマンや作業服のおじさまがたで賑わっている。混んでくると問答無用で相席となる。古めかしいまだらな赤のビニール椅子がところどころ破れているさまと、客の回転の良さがひと昔前の喫茶店のあり方を物語っている。友人とここで待ち合わせをした際、私は1階の席で友人を40分も待っていたが、同じ時間に彼女は呑気に地下席にいた。勘弁して。

友明堂
 ここの本業は老舗もいいとこ、大御所の骨董屋。何故だか知らないが骨董のガラスケースの並ぶ土間の周囲にぐるりと畳席を作って、珈琲や抹茶を出してくれる。東大寺や興福寺、奈良博に寄った際には必ず立ち寄る。「骨董」の暖簾が仰々しくて、なかなか客は入ってこない。夏の暑い盛りにどうにも我慢ができなくて逃げ込んでからのお付き合いだ。

好きな鉱物・金属をただ並べてみた

2005-06-04 | 物質偏愛
 当初、別々にいこうかと思っていた鉱物と金属なのだが、金属だと合金になったり化合物になったりもしてややこしいので、えぇい面倒だということで一緒くたにしてみた。こういうところにがさつさが出る。
つくば市に地質標本館というのがあって、無料で見学できる。昨年、足を骨折していた折にリハビリ代わりに内部を歩いたら、結構へとへとになった。鉱物標本のサンプル数が凄まじく、暗い部屋でガラスケースに取り囲まれている時間はなかなかに愉しかった。

【金属】
マグネシウム
 今はまずないけど、やっぱりフラッシュでしょう。マグネシウム爆発。マグネシウムリボンを発火させたあの一瞬の閃光は失明の恐怖さえ感じる程に鮮やかだった。くさくさしている今日この頃、手元にあってはいけない金属だ。

ナトリウム
 まず、カッターでナトリウムを切るときの感触がぞくっとする。とても肌理の細かい羊羹を切っているのに似た感覚。水面を走らせるとピンクの炎を尻尾のようにたなびかせる。短気な同級生がカッターにくっ付いたナトリウム片を振り落とそうとした為に、隣のテーブルから私の白衣にナトリウムが飛んできた。自分の腕からぼっと発火したあのビックリを忘れない。

【鉱物】
閃亜鉛鉱
 別名「べっこう亜鉛」というだけあって、誠に美味しそうではないか。硫黄化合物は大抵黄色系の色彩を帯びるが、こんなに透明度の高い結晶を見ていると、昔おばぁちゃんの家にあった甘露飴を思い出してしまう。

黄鉄鉱 
 鉄と硫黄という大層単純な組成だが、どうやら鉄化合物と銅化合物に弱いようなので、その代表としてこれとその次の2つを挙げてみた。色が魅力的な訳でなし、結晶が出易い訳でもなし、美的な観点からは程遠いが、多分その程遠さがほっとすることもあるのだろう。

黄銅鉱
 鉱物を「ミネラル」と呼んでしまうとこの鉱物の魅力は半減する。ギラギラした安っぽい金色の輝きと、手にしたときの予想を裏切るずしっとした重さがいい。金でないのに金を上回る不透明極まりない反射光。人間の感傷の入り込む余地なし。

鶏冠石
 いい名前を付けたものだねと思う。光にも当てられない繊細な鉱物は地中に居る間は安全なのだろうけれど、地中に居る限りはその鮮やかな色彩は漆黒も同然だ。
最近は鶏をアップで見た記憶がないが、若冲の鶏絵を思い出してならない。

蛍石
 フローライトという名でアクセサリーにもなっているが、その場合は黄色、緑、紫、ブルーなど多色の縞がよく出ている部分をカットして愉しむのが普通らしい。不思議なもので、カットされたアクセサリーになるとこの石には全く興味がなくなってしまう。存在感って恐るべきものだ。

瑪瑙
 縞の美しさといったらこれ以外にない。かつては、田舎のちょっと大きめな家に行ったりするとよく玄関に飾ってあったりもしたものだ。水と気泡が内部でちゃぷちゃぷしているのが見えるものもある。これも不思議なことに、縞が両方から見えるようにスライスされていると、色つきタマネギのような気がして浪漫が失せる。

孔雀石
 縞、もういっちょう。銅の化合物が持つ緑色は得意分野だ。化学室で銅の化合物を勝手に取り出しては眺めていたものだ。不透明だが艶があって、手にもしっとり馴染む。これもアクセサリーになると急にオバサン臭くなってしまうので難しい。

黒曜石
 古代人も槍先に用いていた天然のガラス。うっかり触ると簡単に指先がするっと切れてしまう。急速に冷えて固まったものには虹色の輝きが生まれる場合があり、虹色部分をうまく使ってアクセサリーにもなっている。トルコの度田舎の崖で拾ってきた石は、どっかいっちゃったかな。

杉石
 紫色の石は様々あるし、ぬめっとした絹糸光沢のあるチャロアイトのほうを好む人が多いが、杉石(スギライト)の結晶がハッキリしない無骨でかさかさした表面が妙に控えめで、京和紙のテクスチャを思い出させて気になるのだ。


好きな宝石をただ並べてみた

2005-06-04 | 物質偏愛
 今回は突然にもスケールの小さなものになった。女性陣は目を輝かせるだろうけれど男性陣には嘆息されるのがオチ、というジェムストーン(今回有機物は除外)。いずれジェム系ではない鉱物シリーズも取り上げるつもりではいるが、鉱物や岩石全般となると俄然男性陣のほうが詳しくなったりするから不思議だ。鉱物でもキラキラ光っているものが結構多いのに、女性は現金なものだ。
そういう私も実は宝石の目利きだったりする。騙されないように同伴でお店に連れてゆくにはいい人材だと我ながら思っているので、ご用命の方はいつでもどうぞ。


レッドスピネル
 ルビーの甘ったるい赤にはあまり興味がない。それよりも、スパッと指先が切れそうな赤、フェラーリの赤とも云えそうな切れ味鋭くインクルージョン(内包物)のないクリアーな煌きが、怨念のようではない綺麗な炎を思わせて好きだ。力を与えてくれそうな気がする。

タンザナイト
 強いて云うなら群青色。青ともつかず、紫ともつかず、そして深い深い透明感を伴うものが好きだ。色の薄いものなら沢山流通しているがそれらには魅力を感じない。なんとも上品で、セクシーで、アイシャドウとお揃いにでもしたくなるような色だ。

アレキサンドライト
 個人的にはブラジル産を押す。スリランカ産は全般的に色が淡く、赤は茶系で緑は抹茶系。ブラジル産の高品質なものは赤はワイン色に、緑は深い常緑樹の色にまでなる。色目は地味だが、昼間と夜の室内で別の顔を見せる石なんて、存在自体がミステリアス。

ツァボライト・ガーネット
 ガーネットの仲間には沢山あって、同じ緑でもより深い通称クロム・ガーネットと呼ばれるものもある。ツァボライトはその若草のような緑色と、照りのある石質ならではのキラキラが皐月のそよ風に揺れる下草や木の葉を思わせる爽やかさだ。

パライバトルマリン
 ネオンカラーの刺激。南国の海のエメラルドグリーンから生命を排除して、そこに火花を加えたらこんな風になるだろうか。青がかったもの、緑がかったものもあるが、丁度中間の色を私は愛する。産出量が少なくて、お気に入りの色は最早底をつきかけているらしいが。

翡翠
 ご存知カワセミの色、翡翠。硬玉と軟玉があるが、ここでは硬玉に限定する。因みに翡翠にはラベンダー色という珍しいものもあるが、「ろうかん」と呼ばれる最上級の緑のとろっとして魅力的なこと。光を半分反射し、半分は吸い込んで、繊細な藻が繁茂した清い池を彷彿とさせる。

スフェーン
 またも緑系。そういえば、幼い頃12色色鉛筆の緑色だけ半分程度にちびていたな。それだけ緑に執着があるのだろう。これは高価ではないが稀少な石。抹茶の色の内部に陽光を反射すると何故、深いオレンジ色に瞬くのか?誰もいないはずの石の中をつい覗いてしまう。

クリソベリルキャッツアイ
 結晶の向きで、ルビーやサファイアならスターが出るし、ベリルやアレキサンドライトにはキャッツが浮かぶ。最もベーシックなものを挙げてみた。本来ベリルなので色は様々で、赤系や高価とされるグリーンアップルなど様々だが、ベーシックなハチミツ色が好きだ。まぁ、ハチミツと呼べるくらいに透明度が高いものは稀少この上ない訳だが。

ダイヤモンド
 誕生石なので最後に載せてみた。淡いピンクダイヤやコニャック色をしたダイヤが好きだ。この屈折率には勝てる石はないし、美しいことに異論はないだろう。
だけども私は色石派。


一家に一枚周期表。

2005-06-02 | 徒然雑記
水兵リーベボクの船・・・
根っからの文系だったにも関わらず、高校時代には周期表の美しさに打たれて無機化学を選択していた時期もあったっけ。文系の私にも理由なく伝わってくる整頓された美がそこにはあった。引き出しを開けたときに元素標本が並んでいたらそれこそ狂喜するだろうが、それを紙っぺら一枚で妄想させてくれる、とてもイイモノであった。

だが。2002年の春、周期表が中学理科の教科書から削除されてしまった。「ゆとり教育」の名のもとに。確かに元素をあまりいじくることのない中学時代では周期表は必要ないといえばない。
だけども、あの美しさをきっかけとして化学に興味を持ったような人間も少なからずいるのだよ。この私のように。
周期表が子供たちに要求するものは決して暗記ではなく、「綺麗だね」と言って貰うことや、色を思い浮かべて貰うこと。知らない元素を見つけては、自分の暮らしの中にそれを探そうとする試み。

それを、なにを思ったか文科省が周期表を作って教育機関に無料配布したところ、大人気の大フィーバーであっという間に印刷部数の全てが捌けてしまった。現在慌てて追加印刷をし、今度は有料で広く一般にも配布することとなった。
まぁその詳細はこちら

これほどのフィーバーになるとは文科省でも予想していなかったことと思う。
ここで喜ぶべきでは本来なく、周期表を中学の教科書から削除してしまったことを憂えて欲しい。周期表に心をくすぐられた大人たちと、「なんかきれい」と興味をそそられる子供たちから、大事で高価な遊び道具をひとつ取り上げてしまったことを。

ついでなので周期表の覚え方も載せておこう。
地域や学校によって覚え方は様々なことと思うが、懐かしいあのフレーズとあなたは出会えただろうか。ま、殆どが使えないものばかりであるが。


 さて、周期表請求フォームも返信用封筒も記入した。友人との共同購入だ。
 
 届くのが愉しみだなぁ。
 パネルに入れようかな。どこに貼ろうかな。