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Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

化猫幻想。

2007-12-27 | 徒然雑記
 僕がはじめて彼女に逢ったとき、彼女は僕の車のボンネットに腰掛けるような恰好で寄りかかって煙草を吸っていた。ちょっと、と云おうとして立ち止まった僕に気付くと、吸いさしの煙草のやり場に困りながら、さして悪びれるふうでもなく「ごめんなさい。」と云って笑った。
 その風情は、寒い日にまだエンジンの熱が冷めやらない車に纏いつく猫の様子によく似ていた。そうしてなぜか僕は、「そこよりも中のほうが座り心地がよいはずですが。」と云った。彼女は大して驚くわけでもなく、「多分そうでしょうね。でも、カギがかかっているものだから。」と答えた。女はその1時間もあとには既に僕の運転する車の助手席で気持ちよさそうに眠っていた。僕は半分呆れたような気持ちで、猫みたいな女もいるものだ、と思ったのだった。

 その日の用事を既に済ませてしまっていた僕は、よせばいいものを、その女の猫っぷりがどこまでのものかを確かめてみてもいいかという安易で安っぽい好奇心に駆られていた。
「どこか行きたいところはありますか?」と訊くと、女は「私の思いつかないところがいいわ。」と答えた。
普段であれば、大丈夫かこいつ、と思うところだが、その時の僕にとって彼女の回答は期待に違わず、むしろ大歓迎なのであった。つくづく、あの時の僕はどうかしていた。

 そういうわけで、僕は道端で(文字通りだ)拾ったばかりの名も知れない女を連れてゆくにはいささか不似合いであろうと推測される場所 -- お台場の夜景だとか小洒落たレストランやバー、ラブホテルに至ってはもってのほかなのだ – として、北関東まで足を伸ばした挙句、真っ暗な山間の悪くない老舗の温泉旅館に辿り着いた。驚くなり喜ぶなり、あるいは警戒して慄くなりしてくれるといい、と思ったのだが女は至って無感動な風情で、「真っ暗で何も見えないけれどきっといいところね、夏ならもっといい感じでしょうね。」などと云っている。とはいえ、彼女がここに来ることを「思いついていた」訳でもなかろうし、その証拠に先ほどよりはご機嫌そうに鼻歌なんぞ口ずさんでいる。あてが外れたような、かといって計算通りのようなどうにも座りの悪い感じではありながら、確かに僕は女の反応に少なからぬ満足を覚えていた。

 夜遅くの食事を女はぺろりと綺麗に平らげ、その後に行われる遊戯を女は至極当然のもののように受け入れた。会話と反比例してまるで思いのままに素直な動作をする女の身体は僕をとても安心させた。僕は会話のぎくしゃくや思惑の食い違いに掛ける疑念を払拭するかのように、会話を放棄してなかば暴力的な気分で女の身体と対峙した。冬の遅い夜明けとともに、女は果たして猫のように丸くなって顔を隠すようにして、短い眠りに落ちた。

 それを確認してから、自分も眼を閉じていざ眠りに落ちようとするとき、脇に寝ていた女がくすりと笑って身をゆすったような気がした。ぺろり。何か暖かいものが僕の頬に少しだけ触れた。突如僕は恐ろしくなり、眼を開けることができなかった。女が猫であるはずがない。こんなのは僕の酔狂だ。誰にも迷惑をかけていない酔狂に罰が当たるなんてことがこのご時勢にあるものか。僕の身体に女の肌が一箇所たりとも触れていないことがまた恐ろしかった。ふいにするりと僕の胸を撫でた刷毛のような感触は、女の髪であろうか、それとも。手を伸ばして確かめる勇気すらないままに、僕は固まったように眠ったふりを続けた。




祭りという穴あき風呂敷。

2007-12-25 | 春夏秋冬
 クリスマスのイルミネーションは無条件に人の心をうきうきさせる。
 祭囃子がうっかり人の足を向けてしまうのと同じくらいの洗脳効果だ。

 自分の努力や不幸や日々の財布の算段や、そういうところから超越したどこか高いところから降ってくる「お祭り」という大騒ぎは、それを避ける気力すら生まれないくらいに問答無用な現れかたをする。それは、各々の個人的な苦しみや幸せ、隠し事に対する後ろめたさや息苦しさを平等にくるんでくれる大らかさと無頓着とを引き連れてやってくる。


 エチオピアの暦では、クリスマスは今日ではない。信仰深い人々によって教会のお祭りの日には人の出が多いし、信仰よりもその日の食糧が重要事項である人々にとっても、その日はいつもより多くの喜捨が望めるだろうから、教会が近くにある村ではきっとクリスマスという行事は浸透していよう。しかし一方で、クリスマスの存在すら知らない人が確実に居る。大らかな風呂敷が覆い尽くせない空が、さして巨大でもない地球のあちこちに沢山ある。

全世界で同じ暦のもとにクリスマスが今日の1日だけに限定されていなくてよかった、と思う。
暦が異なるという論理的な事情によって、今日の日をともに楽しまない人が大勢いることを。

どれだけ明るいイルミネーションでも、ひとつひとつの粒の隙間の闇を埋め尽くすことができず、眼に映る多くのうきうきした人に隠された裏通りまでもを照らし尽くすことができない。誰もがそれを知りながら、派手なイルミネーションはその灯を弱めずに幻影を投じ続ける。
祭りは無頓着であるからこそ、その灯に溺れる人に優しく、その灯の届かない人には無関心にできている。




夜に泳ぐ人。

2007-12-21 | 異国憧憬
 仕事を終えて上司と別れ、ひとり那覇から北へ一時間。豪雨の中、恩納の森へ向かう。
 そうえいば世間はクリスマスも間近の連休前の金曜日だ。ディナーの席、どことなく居心地の悪そうな、良さそうな、どっちつかずの風情でただこの雰囲気を味わうことに無邪気なカップルの姿が多いことでそれと知る。

 光に浮かび上がる屋外プールを眺める特等席に案内された私はその場に不似合いなスーツ姿で、おまけにひとりきりだ。ひとりきりのホテルステイに慣れきっている私にとってはその場の雰囲気などはどうでもよく、ただひとえに周囲のカップルが私との目線を敢えて外しにかかるのが可笑しくて仕方なかった。

 まるで自分が幸せであることに対して無意味な罪悪感を感じているように、また、日常らしい私の姿を見ることで、自らの時間や意識が日常へと引き戻されるのを恐れるように。彼等はてんでに、意図的に彼等の世界に没頭し、私を風景の奥のほうへ押しやろうとする。背景に埋め込まれた私の目線は、オープンテラスの天井に張り付いた一匹の守宮に釘付けだったりするにも拘わらず。
 
 
 遠く下方に海を望める(はずの)プールは、夜には小高い丘の上の闇に溶け込み、ライトで照らされた水中だけが青くぼんやりと浮かび上がる。闇から四角く区切られた世界はまるでショーウィンドウのようで、その中が空っぽであることにむしろ違和感と物足りなさを覚える。

 この大きな水の箱の中に、全裸の上に色鮮やかで煌く化粧を纏った男女が2、3人でもいいから、ただ泳いでいてくれたらいいのに。日暮れた後のプールできらきらと光をその身に反射させながら泳ぐだけが仕事の、まるでおしのように黙りこくったスタッフがもしこのホテルに居たとしたら(そういうスタッフは遥か遠い時代には奴隷という役職で呼ばれたかもしれない)、まさに森に浮かぶ小さな宝石箱のようなホテルになるだろうに、と思った。

 
 部屋に戻ってソファに腰掛けると、極東には不似合いなシーリングファンが目の端にちらついて邪魔なことが判った。ソファで寛ぐことを断念して、浴槽に浸かりながら持ってきた読みかけのボードレールを開いた。
自意識過剰な夢想家の真摯で無邪気な嘆きのしらべは、生活に対してひどく無関心なリゾートホテルにぴったりだと思ったわけなのだ。


「一人きりでいることのできぬ、この大いなる不幸!」
有り体な、精一杯の彼の皮肉に図らずも共感したくなる嵐の夜。


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 夜が明ける。
厚く垂れ込めた灰色の雲が所々で破れ、午前の日が差し込む。
闇という平等な暖かいものにみなが等しく包まれていた時間は去った。バルコニーを全開にして部屋の中とこの森を取り囲む全ての空気との隔てを無くする。空に浮かぶこの部屋が、森から孤立してしまうことのないように。

癒しという言葉は陳腐すぎて、行為や環境の全貌を決して示さない。
しかし確かに、南国には再生が似合うらしい。






上海は霧の中にあった

2007-12-15 | 異国憧憬
ひとりでぶらついていると、中国語で道を聞かれる。
「地下鉄の駅はどこですか。」
私は上海人じゃないからわからない。

空き時間にスターバックスで仕事をしていると、中国語で話しかけられる。
「いい天気だね。外の席は寒いだろう?」
私は上海人じゃないから答えられない。

それでも仕事をしていると、マレーシア人に英語で話しかけられる。
「たとえ寒くても、煙草吸いには外のほうが居心地いいよね。」
私も英語でそうよね、だけど北京だったらさすがに屋内のほうがましだわ、と答える。

こんなに近くてどれだけ顔が似ていても、電光掲示板に流れるニュースの意味が半分くらいわかったとしても、ここは別の国。三菱のエレベーターに乗って、日立のテレビがあったとしても、どうやらここは私が暮らしているのとは別の国。

そもそも国とはなんだったっけ。
なんのために定められたのだっけ。
同じ時間を、同じ寒さを共有して、同じ皿からご飯を食べたりするのに、そこには「こちらの国の人」と「あちらの国の人」がいる。そこには、どのような意味があるのだっけ。

東京では見たことのない木々の上を小鳥が飛んでいて、車はそれを横目にハイウェイをただまっすぐ進んで行く。空港に向かう車窓の景色は、郊外に近づくにつれて徐々に殺風景なものとなり、私の眠気を誘う。なんの変哲もない光景なのに、ただなんとなく、目を閉じてしまうのがひどくもったいなく感じる。
たぶん、国が違うということは、そういう気分にさせることなのだ。

そういえば、こちらのガスった低い空には切れそうに紅い三日月はなかった。



雪の北京。

2007-12-11 | 春夏秋冬
 北京に住む友に北京で逢うのは、これでまだ二度目だ。
 そして、そのいずれもが冬である。

 今日は今年初めての雪が北京に降った。
 国を跨いでまで、雨を連れてゆくことができたことを少しだけ嬉しく思う。
 雨を連れてゆくということは、わたしの気持ちを連れて行けていることだ。


 夏と半袖と下駄が似合う友だけれど
 それは日本でのおはなし。

 色鮮やかなネオンが広大な都市部に散り散りになって
 そのお陰でむしろ暗闇が冴えざえとして淋しげな印象すら与える北京の冬。
 友の背景としてこれから脳裡に浮かぶのは、
 寒いのだか暖かいのだか釈然としないこの薄暗がりと夕暮れが似合う街だ。


 部屋に戻ると、そんな外の景色や氷点下の気温からも隔絶されて
 小奇麗なデスクとゆったりしたソファがわたしを迎える。

 食べかけの青い林檎に再び手を伸ばし、
 色の変わりかけた噛み跡のちょうど裏側を
 今日、街では一度も出会うことのなかった爽やかな薄緑色の皮をがりりと齧った。





 


 
 

こんな夢をみた【14】。 - 猫に餌をやる男 -

2007-12-07 | 夢十六夜
 我が家の周りには、猫が多い。手足の先だけ白く、口ひげをたくわえたように鼻の下が黒いコミカルな猫の兄弟が近頃のわたしのお気に入りだ。隣の家にはシルバーグレイの尊大な猫が居て、わたしが通りかかっても一瞥もくれないで悠々としている。

仕事を終えてちょうど23時を回る頃に家路につくと、近所のマンション前の駐車場で猫に餌をやっている男性の姿をよく見かける。その男性はいつもスーツを着ていて、狭い駐車場を照らす一本の外灯に照らされた背を道に向けていた。餌やり相手の猫は1匹か2匹で、彼は別段猫と会話を交わすようなこともなく、ただ黙々と餌をやっていた。それはパンの切れ端などであることが多かった。
2秒で彼の横を通り過ぎるわたしがその場面から読み取れることなど殆どないに等しいとは思いつつ、なんとなく、ほんとうになんとなくなのだが、無言の男性は心の中でなにか猫への呼びかけや語りかけを行っているに違いない、と思った。時折見かける2秒の風景からは、ルーティンという響きは似つかわしくないように見えたのだ。

 その日に限ってなぜ気が向いたのかは判らないが、わたしは男に一方的に声をかけてみることにした。いつも道に背を向けている男性のことだから、これまでに何度もわたしがその脇を通り過ぎていたからといって、わたしに見覚えがあるはずもない。相手を無駄に驚かせてはいけないだろうな、という一瞬の躊躇はさほどの根拠を持たなかった。
「あなたが飼ってらっしゃる猫なのですか。」
声を掛けられることがあるとは夢にも思っていませんでした、という風情で、はっとしたように男性は無言で振り向いた。

   その顔は、わたしの思うところの「顔」をしていなかった。
焼け焦げたような、皮を剥がされたような、あるいは爛れ崩れたような形状をしていて、一瞬で血の気が引いたわたしはぐっと息を呑んだ。本来、首の上に載る頭部のうちの身体前面という場所にあるべきものは「顔」のなりをしていなければならぬ。とは云っても、無意識に規定している「顔」の形状を大いに逸脱してそこに腹や足があったならば、これほどまでに恐怖を感じないであろう。正確には、「かつて顔であったかもしれない」もの、あるいは「顔になりそうでなりそこねたもの」という「顔」の下位概念がそこにいることが心細く、恐怖と嫌悪を感じさせるのだ。

男性は、そこでわたしを見上げ(眼球があるのかどうかも定かでないが)ながら、口を開いた。しかし、裂け立たれている口から発せられる音は明瞭な言葉とならず、そのハウリングのような音声からは何らかの感情を読み取ることもできなかった。

 わたしは恐怖のあまりに家に向けて駆け出した。
 もうこの時間に同じ場所で彼を見かけることはないだろう。ごめんなさい、ごめんなさいと心の中で何度も呟きながら、わたしはそれを声に出して伝えることができなかった。