Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

Hotel Lover (6).

2007-09-28 | 異国憧憬
 言葉に不便のない南の島に行って、自宅よりもはるかに広いホテルの部屋に引き篭もる。
そんなときに優先的に欲しいものは、静寂とダークオークのファニチャー、窓から見える鬱蒼としたみどり、そしてなによりも、こちらがいつか打つかもしれないタイミングまで待機して、打ったと同時に涼やかに響いてくれるサービスだ。
 リゾートにビーチは必須ではない。たまに散歩風情で海の脇を歩くこともあろうが、裏庭が亜熱帯の雑木林に繋がっていて、それを眺めながら伸びやかなチェアに寝転んだりしていたほうがずっといい。静寂が確保できるのであれば部屋はもとあった土と繋がっているフロアのほうが心地よく、屋外で寒さを感じるほどでなければ、南国らしい強い日差しさえ必要ない。
 
 自宅からさして遠くもない都内のホテルに引き篭もるときには、高層階の客室と、そこからの眺めを邪魔することのない大きな窓。そして繊細な調整の可能な照明。加えて、質のいい音響があればなおよい。どうやら、都内のホテルに求めるものは、静寂と暗い湿度で護られた、硬質かつ高質な閉鎖空間らしい。

実際にこれらの要望に合致するホテルがあるのかどうか、わたしはまだ知らないけれど、これらの身勝手なイメージを充たすだけの空間がもしあるとしたら、それはホテルを除いて他にない。

 旅のついでに、あるいは旅を遂行するためにホテルを利用する場合ではなく、ホテルに宿泊すること自体が目的であるとき、宿泊者によってホテルは満喫されるべきで、ホテルは宿泊者を充足させるだけのいろいろを持ち合わせていなければならない。そして、持ち合わせているものの内容を説明する必要はなく、持ち合わせていますよというメッセージだけをやんわりと伝えることができればよいのだ。なぜなら、宿泊者が消費するものは各内容についての知識や実体験ではなく、それらを包含する空気に包み込まれることであるから。それは、見知らぬ不慣れな空間で人に安らぎを与えるために必要な、穏やかなる緊張感。宿泊者にはそれを消費し賞味させてこそあれ、その緊張感に同調させてはならない。

 時折、無償にわたしがホテルに行きたくなる理由のひとつ。
それは、柔らかい待機という他者の緊張の中に埋もれることで自らの緊張を緩和させ、強固なバリアで囲まれた安堵の中にすっぽりと隔離されたいがためなのかもしれない。




月を忘れる。

2007-09-26 | 春夏秋冬
 「お前はほんとうに愚痴を云わないやつだな。」
煙草を吸う私の横顔に向かって、同僚が云った。
あなたの愚痴を先に聞かされちゃ、わたしは誰に云えばいいっていうのよ、という言葉は心の中に留めて、「愚痴を云うタイミングをいつも逃しちゃうだけよ。」と煙を吐き出しながら笑った。
結局のところ、さぁ愚痴を云ってごらん、と誰かが両手を広げて待機してくれていたとして、わたしがそれに口を開くかといえば怪しいものだ。殆どの愚痴には生産性がないし、なにより政治の邪魔になる。わたしがどこかで不用意に発した言葉が巡り巡っていつかわたしの足を掬うかもしれないなんて、まっぴらだ。

 夜遅く帰宅すると、部屋は暖かい食事の匂いで満ちていた。
「お疲れさま。今日の月は見たかい。」と声が掛かった。
「見てないわ。空に月があることすら忘れかけてる。」
「今日は中秋の名月だから、お団子を買ってきたよ。薄はお掃除が大変そうだからやめたけど。」
 ひとときわたしは黙った。

季節の移り変わりを、ただ衣服の変化や風呂の適正温度を通じてしか受容できないことは非常に淋しいことだ。しかし、日々を生きるのではなく日々をやり過ごすやり方でしか時間を通過できなくなると、わたしの視覚には自動的に蓋がなされる。できるだけさりげなく今を通過してゆくためには、心を揺さぶらせてわたしの歩みを留める様々な誘惑者の存在が疎ましい。その誘惑に惑いつつも諦める我慢が厭わしく、その誘惑に万一心を乱されなかった場合の落胆が恐ろしい。だからこそ、「今だけだから」という言い訳を添えて、わたしは視覚に蓋をする。

月のかたちをした黄色い団子と、うさぎのかたちをした白い団子は、理想的に可愛らしくわたしの目に映った。
そして、今日の月を見ることができなくて非常に残念だ、と思えたことに僅かな満足を感じた。

 さぁ眠ろうと床についたとき、カーテンが僅かに開かれた。
「ほら、月がでているよ。」
眼鏡をとったわたしの心許ない目にも、高いマンションが並ぶ合間の僅かな空に、ちょうど収まるように月が座っているのが見えた。暫くそれを見詰めたのち、わたしはさっとカーテンを閉じた。部屋は再び暗くなった。
常に月が空にあることを忘れずにいることは難しい。けれど、忘れている間にもやはり月はそこにきちんと居るのだ。

 閉じた目の中にぼんやりと月が残っている。





ささやかな余剰。

2007-09-18 | 徒然雑記
 三連休を仕事に投じることは嫌いだ。嫌いだけれど、珍しいことではない。
 代休を半分だけ使って午前中を寝て過ごしたが、土曜も日曜も夜明けに寝ていたわけなので、それくらい休息を取ったとしても罪にはあたらないはずだと思っている。
 
 忙しいのが判っていて、自分の時間を1分でも多く使いたくなるときまって、私はどこへ行くにもすぐにタクシーを拾ってしまう癖がある。とはいえ、ただでさえ体力のない私は、1分でも長くその日の活動を行うことができるために、そして体力を温存して集中力を浪費しないようにという意図でタクシーを頻繁に使う。

 先週の金曜日は、想定した通り、友をいきつけの店で待たせたまま予定の時刻を大幅に過ぎてしまった。数百円で友と過ごす時間を20分だけ買えるのならば、安いものだと思う。
「今タクシー乗ったから、あと10分で着く!」と電話を入れると、ええ~と気弱げに恐縮した声が返ってきた。すかさず、「これとこれをオーダーしておいて!」と遠隔操作で記憶にあるいくつかのメニューを指示すると、「任務完了!」という妙に威勢よく即答が帰ってきた。あと3分で店に着く。


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 土曜日は、その週の疲れのためかどうやら昼すぎまで眠っていたらしい。金曜日の夜、帰宅してからの記憶は殆どない。
「おはよう。」
その声の一瞬前に扉を開けたことによる空気圧の音が聞こえて、私は眼を覚ました。自分の家を縄張りとして死守してきた私にとって、眠っている間に誰かが家の扉を開ける、という現象には全く慣れていない。その瞬間は必ずびくっとして、一瞬の恐怖が過ぎるのだ。

「はい、お土産。」
そういって、おかしな形の箱を渡された。洗練からは程遠い箱はそのせいで妙に可愛らしく、おまけにそのファニィな箱にはご丁寧に私の名前まで入っていた。私が自分に抱いているイメージとこの箱の形状との格差が、私を笑わせた。


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笑いは仕事の餌になる。
笑うためには、仕事以外のなにかのことをちょっとだけでも想わなくてはいけない。








クローバーの10。

2007-09-11 | 徒然雑記
「あのう、すみません。今朝このあたりにクローバーの10を落としたのですけれど、届いていませんか?」
「えっと・・・お待ちくださいね。あぁ、残念ですがダイヤの6とキングが届いてはいるのですが、クローバーは今日はひとつもありませんね・・」
「そうですか。もし今後届け出があったら、ここにお電話くださいね。」
「かしこまりました。」

 そんなやりとりを想像して、頭痛と吐き気にまみれた通勤の途でふふふとひとり笑った。
白いガードレールの脇に一枚だけ落ちていたクローバーの10は、灰色のくせして裏のほうから輝きが透けて見えるアルミのような変哲な空の日には丁度いい落し物だ、と思った。

 自分がしてしまうとひどく気が滅入るけれど、落し物というものは地下鉄の構内やとくに行き着けでもないどこかの喫茶店でではなくて、白日の空の下にあるからこそ滑稽だ。そして、それが原っぱや公園ではなくて、アスファルトで固められた道路の上であれば言うことない。

 室内や原っぱや公園では、行動の自由が比較的確保される。だから、そこで何らかの行動を起こした際に何らかの一部を落としてしまったとしても不思議はない。それよりも、そこは「人が座る」ことをある程度予期された場所であるから、人ではないにせよ物質がちょこんとひとりで座っていたとしても、なかなかそれを咎めるべき論理を持たない。


 塵を掃かれ、歩道や植え込みを整備され、何かから何かを護る柵が設置された道路は、絶え間ないそのメンテナンスのゆえに、人の自由が介入しにくい統制のとれた空間だ。その統制の隙間を縫って置かれたクローバーの10は、してやったりの顔をしているように見えた。クローバーの10が一枚欠けた残りの集団は統制機能としての名を失い、てんでばらばらのシートの集積となる。仮にこの1枚が発見されて元の位置に収まったとしても、個人的な旅の証拠がその身に刻まれたあとでは、もとあった統制をふたたび取り戻すことはできない。

 私はそれができるだけ長い時間そこに留まっていてくれることを望んだ。それは、子供が道路に描いた奔放な落書きを眺めるような気分と少し似ていた。


「すみません。昨夜だと思うんですけど・・この交差点近くで毬藻を落としたと思うのですが、届いてませんか?」
「マリモ・・・今日はないねえ。ダルマなら昨日届いたけど、赤くちゃ駄目だもんねぇ・・」




美味しい珈琲が足りない。

2007-09-04 | 徒然雑記
「君にはいま、美味しい珈琲が足りないんだね。40分くらい時間をかけて飲むようなやつがね。だから、泣いちゃうんだよ。」

うっかり私は、笑った。
この男はよくわかっている。泣きたいときには泣けばよい、でもなく、泣くな、でもないその悠長な言葉がどれだけ私の張り詰めた心を解いてしまうかを。

 家から歩ける範囲にも、タクシーで10分圏内にも、私が心を緩ませる珈琲屋はない。だから、仕事の忙しさにかまけてこのかたずっと、美味しい珈琲にはご無沙汰なままだ。そして最早、それが欲しいということまで忘れかけている。このひと月にわたって部屋に花が飾られることはなく、無駄な本を読んだことはなく、娯楽的なお買い物すらしていない。そうしてやはり、どんな花を飾りたいだとか、どんな服が欲しいだとか思うことはなかった。

 それはある意味において心の平安を意味するものであるが、欲求ゲージを常時リセットにするという代償を払って、一緒に不満ゲージをリセットしようとする試みが無意識下で行われているということだ。決して望まれるべき対応ではないが、それに代わる日々の避け方を私は多分まだ知らない。

 特にそんな状況下において、ひとりで歩いているときに自分の身体が溶けて思考体だけになってしまうような感覚に襲われるのは私だけではないはずだ。思考だけになった自分がゆらゆらと街の中を漂っているつもりである(なぜかそういう時に限って、人とぶつかることが殆どないのだ)ので、うっかり誰かに呼び止められたり誰かとばっちり目が合ったりすると、ぎょっとするくらいに慌てる。慌ててしまった後で、自分の身体が自分のところに戻ってきて、ああまたか、と嘆息する。


 そんな自身の状況を確認したところで私は至極ゆっくりと、しかも少しだけ自虐的に喜びながら慌てて、この季節に自分がどんな花を買う「べき」であったかを思い出そうとしたのだ。

優先的上位にのぼるのは、もっとも好きな花である竜胆、そして秋のはじまりを紅く彩る鶏頭。けれどなぜか最終的に、それらより少しだけ優しい風情のトルコ桔梗が窓辺に飾られた。
トルコ桔梗の白と紫が揺れる姿をみて、今実に飲みたいのが自分の生まれ年よりも古いコロンビアのデミタスであることがようやくわかった。




指先の記憶。

2007-09-03 | 徒然雑記
 私の仕草の中にもし、過去に出逢った誰かのそれが混じっている場合があるとしたら、それはあの人のもの以外にはあり得ない。
この身に写しとる意志こそなかったが、無意識にその欠片を拾ってしまってもおかしくないくらい、私はその指先ばかりを見ていた。私の記憶の中には、その人の表情や衣服よりも、指先や腕の形の画像がより沢山詰まっていたのだということを今更ながらに知った。
想定の範疇を超えた場所で7年ぶりにばったりと出会ってしまった、それは確かに私の恩師であった。

 大学構内のゴミ廃棄場から美しいフォルムの椅子や古めかしい天秤量りや使い方すら判らない木製円筒状の計算機などを拾ってきては「君の眼にはこれらがゴミに見えるか?これらがゴミに見える人間の神経が僕には信じられない」と大仰に首を振って遺憾の意を示した。

 古い正教のイコンが架かった煙草の煙が充満する彼の研究室は既に本でいっぱいであるのに、それにも増して使途不明の美しいガラクタで浸蝕されていった。地上の論理では恐らく無秩序で無計画なその増殖は、全く別の必然に導かれたエッサイの樹のように、なにかを花開かせていった。
私は彼の言葉を聞きたいからというよりむしろ、どんな形に育つのか判らないその枝葉の広がりの進捗と行方が見たくて、用もないのに頻繁に研究室を訪れた。

 彼は、
 モンブランのボルドー色のボールペンを愛用していた。
 研究室の壁を黄色に染める煙草は、赤いマルボロだった。
 ホワイトボードを指差すときには、殆どきまって中指を用いた。
 紙になにかを殴り書きにするとき、書かれる紙の角度はばらばらであった。

彼の長い指先が動く映像ばかりが、記憶の中になぜだかこんなにも鮮やかだ。
間違いなく気障に見えるその動きは非常に繊細な感性で構築されたことが明らかで、だからこそ私はそれに敬意を払いこそすれ、笑うことは決してできなかったのだ。自分の仕草ひとつにこれほどの注意を払うことが不可能だった学生ふぜいでも、彼の仕草の成り立ちと自らのそれとが同じ土俵に居ないことに、きっと薄々なり気付いていたからであろう。

 彼は、
 栗色ともワイン色ともつかない、「名前を持たない」私の髪色を褒めてくれた。
 爪色が群青色で似合うという理由で、撮影のために蜥蜴の液浸標本を持たされた。
 一方で、課題や授業でいかなる評価をされたかについては全く記憶にない。

どこまでも個人的な美の基準を堂々と振りかざす奔放な研究者は、決して学会から歓迎されていた訳ではないことを知っている。だけれど、彼の嬉々とした我が儘な言葉は学会に安住する教授陣よりも一層研究者らしく私の眼に映った。そうして、私が自分で「美」であると判断し選択した身体表現を、この尖った研究者の感性が等しく「美」であると認識したことに、同じ何かを目指す者として私は非常に安堵し、喜んだのだ。


今日の日に自身が美しいスーツを着ていなかったことを少しだけ悔やんだ。
今日の服装が彼に褒めて貰えるものではないことを、私は知っているからだ。
そうして、彼がそのことに多少なり落胆するかもしれないということも。

別の日に、美しいスーツを着て改めて逢いに行こうと決めた。