Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

正妙寺(千手千足観音)。

2011-05-23 | 仏欲万歳

 久しぶりの見仏は、両の手が過労による発疹で埋め尽くされた状態でスタートした。
この度の行程は、近江から若狭。再訪箇所が殆どだが、天然の要害とも言える立地ゆえに護られた、ゆったりした時間の流れのある場所にどうしても行きたかった。

 この日、滋賀県一帯には大雨洪水警報が発令されていた。しかしながら、一度も傘を開いたことはない。屋外にいるときには止む、というわたしの「濡れない雨」現象は、年を重ねるごとにめきめきと顕著になってきている。とはいえ、「そもそも降らせない」ことができないという致命的な欠陥付きの能力ではある。


 滋賀県の仏像は、今も少なくない数が無住の寺や近隣住民が守る収蔵庫に収められている。拝観希望は、当日の朝に電話で予約をする。10年前と変わらない拝観スタイルがわたしを安堵させるとともに、いつまでこのシステムが継続していけるかという不安を覚えさせた。
雨の間を縫って訪れた二件目が、この正妙寺である。

 日枝神社のふもとには、数台の軽トラが泊まっていた。猿よけのための空砲を打ち鳴らす中、鳴り物入りで山腹の御堂に到着。「お堂」というにはあまりに小さく、二畳あるかないかだ。案内のおじさんは、脇に抱えていた段ボールを雨で濡れたお堂の入り口に敷き、「お近くでどうぞ」とわたしを誘った。一般家庭の仏壇よりも小さなお厨司の中から現れたは、世にも珍しい千手千足観音。

 長らく秘仏で、たまのご開帳時も顔を見せる程度だったそうで、こうした特異な姿であることは地元でもほとんど知られていなかったらしい。近年、仏像の盗難が各所で頻発するようになり、「誰かが管理をしなければ」ということで、管理係を決めて輪番で管理することになったそうだ。木の材質も不明(※見たところ、壇像系の堅い木には見えない)、全身に金泥が塗られているが、塗りは非常に新しい。近世の作と思われるが、あるいは中世像で表面のみ江戸時代に補われた可能性も議論されており、詳しい調査が待たれる。

 像は、一言で表現するならば、「キッチュ」である。像の功徳をわかりやすく図像化するとマンガチックになるのは時代を問わず世の必然のようだ。40センチ余りの小さな立像で、一般の千手観音と同様に頭上面を持つが、本面は3眼の忿怒相で、口は大きく開いて牙が覗く。表情や姿勢を見るに、観音というよりは明王のような印象が強い。
第一手は錫杖と戟(げき)を取るが、他の手に持物はない。足は台座を踏みしめる2本のほか、連結しているのか、超高速で動いているのか分からない多数の足がムカデのように連なっている。表現の簡略化のためか、動きを表すためか、あるいは足を個々に掘り出すことによる像の耐久力の低下を防ぐ目的か・・・不明であるが、多数の足は板のようにひとつのカタマリとして掘り出されている。まるでカニだ。あるいはゲジだ。馬鹿にしているわけではないが、等身大ならまだしも40センチの小柄の人にそのポーズを取らせるのは確信犯であろう。だからご希望通りに突っ込みをいれたまでだ。


 千本の足で広い世界を駆けまわり、千本の手であまねく衆生を救うためには、ほっと穏やかな顔をしていられるほど余裕がないものと見える。空気をいっぱいに吸い胸を膨らませ、やや紅潮した顔で息を切らせる小さくて必死の観音。

 せわしなき世に、せわしなき衆生を、せわしなく救う。
造作や材質の裏付けは全く持たないわたしであるが、この像容を見るだに、江戸のちゃきちゃきした時代が脳裏に浮かぶ。この像が近世の作ということで認定される日がくれば、わたしは大きく納得する。

 今の世に相応しい仏像の像容はどんなかたちになるか。
仏像のかたちは、世のありようによって、思い思いに変化する。それが観音であればなおのこと。






俗世からのただいま

2011-05-22 | 徒然雑記
 長らく更新しておらず、まずはお詫び申し上げます。

 ブログを更新しなかった、あるいはできなかった理由を、そろそろ整理できる時期になった。理由(言い訳とも言う)は概ね、以下の2点にまとまった。
数少ない読者の方々には、多大なご迷惑と失望を与えたことを心からお詫びしたいと思う。

<理由>

①本業における責任が大きくなったこと
 これが最も大きい。私的な時間においても、仕事のことを考えざるを得ない時間が格段に増大し、それ以外の脳の箇所を使うことに対してかなりの疲労感を感じるようになってしまった。勿論、深夜まで仕事をする機会が増えたこと、また、ソーシャルネットワークが発展するにつれて、業務上それらを使用することが増え、内省しながらPCに向かうことが難しくなったこともある。とはいえ、最も大きな要因は、時間的な制約よりも、業務増加がもたらす精神的な負荷によるものであることは自覚している。

②近親者が鬱病になったこと
 これも、①に負けず劣らず大きい。
「ツレうつ」という言葉があるように、患者に寄り沿う時間が長ければ長いほど、こちらにかかる負荷が増える。そして、それはわたし自身を大きく蝕んでいく。表向き、通常の社会生活を継続する必要があるわたしが鬱のおこぼれを頂戴してはならない。①の要因もあいまって、自分が平静を保つために、できるだけ心の琴線を震わさず、感情の起伏を最小限で済ませておくことを是としていた。そのために、風景を見つめ、感情を確かめながら書くブログなるものから一定の距離を保ち、表現することを避けることを選択した。


 目下、上記2点の要因が排除されたり緩和されたりしたわけではない。だから、今後定期的な更新を続けることができるかどうかは、はなはだ自信がない。
とはいえ、そろそろ、ふたたび書いてみようと思えるようになった。
思ったときが、多分その適切な時期である。