幼いころ、「共鳴」とか「共感」とかいう感情の快楽を初めて知った場所は多分ここだった。
その感情の名前や性質、理由もわからないから、その感情はただ衝撃的で、包み込まれるように優しくて、自分が在ることを赦して貰えるような甘えた思い込みと安心感を、わたしに与えた。その頃、わたしは多分10歳かそこらだった。
大学生も後半になった頃、わたしに「共鳴」という快感と赦しとをくれた画家は、この世から居なくなった。わたしは彼が消えたことに大きな衝撃を受けつつも、彼が死の扉を自らの手で開けたこと自体が当然のなりゆきのように感じた。「私がここまで歩いてくるあいだに、彼の時計はそういう時刻まで進んでいたのだ」とだけ思った。ビニール袋を頭からかぶるという全く演劇性のない方法で、彼はこの世界から、ひいては絵を描くことからバイバイをした。
生前、彼は画家として揺ぎ無い評価を得ていたとは思わないし、死後もその評価はさまざまだ。偶然にも、彼の大ファンとなった人が日本人で、彼の個人美術館を建設し、その大ファンが美術を見せることとはどうあるべきかを知っていた人だったから、子供のころのわたしは正しく彼に触れられた。
美術館の警備員たちはこっそりと赤外線センサーのスイッチを切って、子供のわたしにもっと絵に近づいて見られるように促してくれた。警備員はどの絵が好きかを訊ねてくれ、彼らが好きな絵も教えてくれた。絵の説明は誰もしてくれなかった。その空間でどのように過ごし、どのようにそれが好きかだけでよいのだということをわたしは自然に知った。
階段のかわりにスロープがあって、展示物と自分を隔てる柵やアクリル板のかわりに赤外線があって、順路が曖昧で、天井から自然光が差し込む美術館。わたしが思う美術館の「理想の環境」は、この館内をうろついていたときの充たされた気持ちを原点としている。美術を本気で好きなひとが作り出したものは、一見すればわかる。聞けば、併設されている「こども美術館」は日本初の試みであったようだ(当時はなかった)。
死への直球的なベクトルを隠しもせず、冷徹とした視線で生の美しさと生の孤独を描き続けたその作品群に囲まれながら、嬉々として館内をパタパタと駆けていた記憶。死がどこにでもあること、ひとと表現物との間には死というフィルターが漏れなく掛っていてもよいこと、ひとが孤独であってもよいこと、それらをひっくるめても世界はとっても美しいこと、そのすべてが嬉しくてたまらなかった。当時は言葉にならなかった彼の絵に対する愛着の理由は、今となれば言葉にしてはっきりとわかる。
約20年前、いつ行っても貸切状態だった美術館には今や子供の声が響いていて、ベビーカーを押す人の姿も多い。無邪気であることを気取って館内を駆ける子供たちのひとりと目が合う。にまっと笑った少年の笑顔に昔の自分が重なる。
その感情の名前や性質、理由もわからないから、その感情はただ衝撃的で、包み込まれるように優しくて、自分が在ることを赦して貰えるような甘えた思い込みと安心感を、わたしに与えた。その頃、わたしは多分10歳かそこらだった。
大学生も後半になった頃、わたしに「共鳴」という快感と赦しとをくれた画家は、この世から居なくなった。わたしは彼が消えたことに大きな衝撃を受けつつも、彼が死の扉を自らの手で開けたこと自体が当然のなりゆきのように感じた。「私がここまで歩いてくるあいだに、彼の時計はそういう時刻まで進んでいたのだ」とだけ思った。ビニール袋を頭からかぶるという全く演劇性のない方法で、彼はこの世界から、ひいては絵を描くことからバイバイをした。
生前、彼は画家として揺ぎ無い評価を得ていたとは思わないし、死後もその評価はさまざまだ。偶然にも、彼の大ファンとなった人が日本人で、彼の個人美術館を建設し、その大ファンが美術を見せることとはどうあるべきかを知っていた人だったから、子供のころのわたしは正しく彼に触れられた。
美術館の警備員たちはこっそりと赤外線センサーのスイッチを切って、子供のわたしにもっと絵に近づいて見られるように促してくれた。警備員はどの絵が好きかを訊ねてくれ、彼らが好きな絵も教えてくれた。絵の説明は誰もしてくれなかった。その空間でどのように過ごし、どのようにそれが好きかだけでよいのだということをわたしは自然に知った。
階段のかわりにスロープがあって、展示物と自分を隔てる柵やアクリル板のかわりに赤外線があって、順路が曖昧で、天井から自然光が差し込む美術館。わたしが思う美術館の「理想の環境」は、この館内をうろついていたときの充たされた気持ちを原点としている。美術を本気で好きなひとが作り出したものは、一見すればわかる。聞けば、併設されている「こども美術館」は日本初の試みであったようだ(当時はなかった)。
死への直球的なベクトルを隠しもせず、冷徹とした視線で生の美しさと生の孤独を描き続けたその作品群に囲まれながら、嬉々として館内をパタパタと駆けていた記憶。死がどこにでもあること、ひとと表現物との間には死というフィルターが漏れなく掛っていてもよいこと、ひとが孤独であってもよいこと、それらをひっくるめても世界はとっても美しいこと、そのすべてが嬉しくてたまらなかった。当時は言葉にならなかった彼の絵に対する愛着の理由は、今となれば言葉にしてはっきりとわかる。
約20年前、いつ行っても貸切状態だった美術館には今や子供の声が響いていて、ベビーカーを押す人の姿も多い。無邪気であることを気取って館内を駆ける子供たちのひとりと目が合う。にまっと笑った少年の笑顔に昔の自分が重なる。