Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

天守閣に降る雨。

2008-09-19 | 異国憧憬
 出張中の仮宿のバスアメニティが偶然ロクシタンだったということだけで、こうして仕事中の自分の髪からそれが香るということだけで、こんなにも心が緩む自分に少々の腹立たしさを覚える。その腹立たしさは、それが意図して欲した癒しではないということと、明らかに人工的なその上質さのせいだ。

苛立ちの源、それはきまって複合的であるから今更それを分解してどうこうしようという気はない。苛立ちは唯、苛立ちとしてそこに確かに巣食っているのだから、それを体感しその存在を肯定することだけで充分にそれを理解したことにも繋がろう。
そんなわたしの諦めを差し置いて、たかが偶然の香りひとつに勝手にそれを緩和されたことが多分に、不愉快なのだ。

ホテルのロビーで打ち合わせの時間調整をしている今でさえ、うっかり目を閉じれば眠ってしまうだろう自身の体力の覚束なさが、新鮮な不愉快さごと、自分自身を慰める。
こんな日には、音さえ聞こえないくらいの細い雨が日がな降り続いていることがむしろ嬉しい。



 雨にけぶる名城の天守閣の首ばかりが、木々の向こうににゅっと出ている。古代エジプトの女性がするように、その頭部を飾る金の彩りだけが痛烈に眩しい。天守閣特有の、巻貝の構造でぐるぐる回る階段で頂きに上る。高い窓からは、梳られた女性の髪のような甍も、それを束ねる金飾りも見えない。その代わりに、風と雨粒とで波立つ堀の水面がやけにくっきりと見える。

 打ち鳴らされた太鼓の皮のように、あるいは小さないきものの腹が痙攣するように、その水の表面はただ黙って小さく震えている。鏡のように凍った水面よりも、ミクロなざわめきを醸す水面のほうに人の心が吸い寄せられるのはどうしてか、と思う。

城下を散歩する物好きもおらず、灰白色をした秋雨の柔らかいヴェールに包まれたやさしい風景の中で、ただそこにたんまりと留められた水だけがそのやさしさを放棄する如くにざわざわとおびえている。





おもしろ画像分析

2008-09-18 | 徒然雑記
 おもしろ画像と云われるところの風景なり人なりを自分で見つけ出そうとすると、これがなかなか難しい。ほんとうなら、加工が加えられていないおかしな風景がもっとも諧謔的で好きなのだけれど、最近出回っているおもしろ画像は往々にして手の込んだ細工物だ。



というわけで、本名でやってみたところの結果が上の写真だ。


画像に似合う似合わないがあるというのも不思議なはなしだが、さもありなん、という画像である。

この標識群を見ている人がわたしだったとして、
それを見た挙句の行動は消去法的に「えいや」にならざるを得ないだろう。
この標識群がわたしで、見ている人が周囲にいるとして、
それの発するメッセージの錯乱したさまに嘆息するしかないだろう。



おもしろ画像



恐怖がなくならないわけ

2008-09-15 | 徒然雑記
 お月見も過ぎ、夏は仕方なく過ぎ去ろうとしている。
 ホラーは一年を通じて開店中だが怪談は暫くお預けだ。


 -- あなたにとって、怖いものとはなんですか。
 -- 恐怖って、なんですか。


 例えば、私は二度も被害に遭っているせいもあって、交通事故がとても怖い。
 幽霊とかそれに類するものを見たことがあるわけではないが、幽霊がとても怖い。
 もともとが美術屋だから、なにかのはずみで視力を失うことを想像すると大層怖い。
 もっと大雑把な括りの中で云うと、幸せになりすぎるのも不幸になりすぎるのも非常に怖い。
 もっと小さな事柄で云うと、お化け屋敷が怖い。


 -- なぜ、あなたはその怖いものたちを怖いのですか。

 交通事故の場合、過去の事例を振り返ってみても、避け方がわからないから。
 幽霊の場合、どんなものか全くわからないから。
 視力の場合、それを失ったあとの芸術への接し方がわからないから。
 幸不幸の場合、その環境の中での自分の生き方がわからないから。
 お化け屋敷の場合、どこからどんな異形のものが出てくるかわからないから。


 -- 恐怖をなくすことはできますか。

 「わからない」ことの手前には、それをわかろうとする努力と想像がある。更に、できるなら自分にとってデメリットを被らないようにという本能があり、多分に人は知識や経験を駆使して、それを分析したり対策を立てたりすることを試みる。
想像はすべからく既出、既知のなにかの次の次元や時間帯にある。だから、全ての想像の向こうには期待があって(たとえそれがどれだけ消極的な青写真であろうとも)、期待の裏側には等しく「未知数」なるものが存在する。
恐怖とは恐らく、その未知数のすべてだ。だから日本ではその恐怖に妖怪という名前を付け、且つキャラクターとしての姿を与え、表層的にもせよ既知とできるよう試みた。
その意味において恐怖とスリルは全く異なり、我々が「怖い」という言葉で指し示すものを決定的に分割する。

人が想像をし、期待をする生き物である以上、恐怖を失くして生きることは多分できない。
 


 

大町雑感。

2008-09-08 | 異国憧憬
 一週間のうちに二度も信州に行ってきた。これまで信州という土地は故郷と中途半端に近いからこそ逆に馴染みがなく、齢30を超えるまで足を踏み入れたことが殆どなかったと思う。通り抜けたことくらいはあったかもしれないが。


 坊やよいこだ・・・の歌で知られる日本むかしばなしのオープニング、龍の子太郎の民話の舞台は黒部ダムのふもとにある。恥ずかしながら、ここを訪れるまで私は「龍の子、太郎」だと思っていたのだが、大町では「小太郎」とのみ呼ばれている。区切り方を間違ったまま数十年きていたようだ。

 大町周辺にはダムが多いのだが、そのひとつ「七倉ダム」でできた湖はいまでも竜神湖と呼ばれている。このあたりは広葉樹が多く、初夏にはさまざまに輝くみどりと、秋には赤に橙に黄色にと色を変える木々が眼を楽しませる。とくに、夏にも秋にもひと色違った色目をみせるななかまどの木は、その枝の華奢さにまさる華やかさを備えていて、性別を与えるならばきっと女性に違いない。

 黒部ダムまで登るふもとの扇沢駅に、ここらの土地でもっとも早くに色づいたというななかまどがぽつんと一本ある。トンネルからの冷気によって、山肌にある木々よりも一足先に秋とみとめたのであろう。多少の勘違いといえなくも無いが、最初の一木とか最後の一枝というのは、それ自体が取り立てて美しい形状でなくとも、どうしてこう特別な存在感を得ること能うのだろう。
数ある山肌の一本であるときには決して凝視することのない葉脈の流れや枝ぶりの流れにまで人は眼を遣る。きっと、山肌が紅葉で燃えているときにはこの一本は既に枯れ落ちて、その禿げた枝に誰も見向きをしない。

 車に乗っていると、満開の蕎麦の白い花が風に揺れてさわさわと音をたてる。その脇にはりんご畑があって、紅く色づく寸前の濁りかけた薄緑色をした重たげな実がたくさんぶら下がっている。こちらは、少しばかり風が吹こうがびくともしない。
約2メートルの空間を挟んで地面に吸引される重たい実が食べごろになる頃には、蕎麦の白い花が茶色く枯れて、さわさわという爽やかな音もカサカサという貧しい音になっているはずだ。

そしてその頃にはきっと、遠くに見える日本アルプスは白い冠をかぶって、高い空を見上げる人の肩をぶるっとすくませるのに違いない。