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いもりんのヒルズ的生活+貧乏昔話

教師から起業家へ。無一文の外国人夫との超ビンボーな暮しから脱出、奮闘の末つかんだ、ちょこリッチな生活をおバカ調で公開。

悲しい話が出た卒業式:地元民なら知り合いに被災者がいる

2011年03月29日 07時18分44秒 | 東日本大震災311

小学校の卒業式が1週間遅れであった。
体育館が避難所として使われていたので、延びたのだ。

うちの地域は山側(カモシカサルが出る)で海とは遠く、津波の被害はない。
だからライフラインが全滅しただけで、被災者という言い方は違うのかもしれない。

しかし親類や知り合いが被災者になるケースが多く、間接的な被災者になっているのだなと、ライフラインが落ち着いた今、感じる。

我が子の担任の先生は、新任時代の志津川※の教え子を亡くした。
  ※南三陸町ってどこ?宮城県人には志津川と言ってくれた方が分かる。
新任教師は3年間、仙台から遠く離れた、児童数の少ない学校に赴任する場合が多い。

地震直後、その教え子の「無事だけど、宿泊施設にお客がいるので戻る」というメールを最後に、津波に流されたらしい。彼は高校卒業後、海沿いの旅館で働いていた。

クラス担任の、涙なくしては語れない話で、小学校最後の日は終わったのだった。

その他にも「大学で知り合った夫の実家は大船渡だから帰省が大変」とか、
東京より遠いと言われる、気仙沼(以前は仙台から3~4時間かかった)の美術館に赴任する、とか、
私の高校には、松島、塩釜、多賀城からの通学者も多かったので、無事かな~と今でも心配だし(高校の同期会から無事ですか?の一斉メールが届いたのは嬉しかったね)。

被災した地名と全く縁のない宮城県人など、いないだろう・・・と思う。
だから何をやっても、気分が落ち込むんです。

デパートの前に被災地の写真が貼られていました。

情報が少なかったので

見た時は驚きました。(地震から10日後)

これらスクープ的な写真は、かなり後になって地元に出回ったように思う。
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河北新報から拝借してきました。※仙台市周辺の津波による浸水エリアを薄い赤色で示した浸水状況図。内陸部の赤色は中心市街地(国土地理院提供)

読めない地名がないくらい、馴染みのある場所です。
秋には海岸公園でテニスの試合をしたし、仙台空港はよく使うし、仙台港にも遊びに行く。
とても信じられない気持ちです。


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