3.11東日本大震災以前、自衛隊は基地や海外派遣の問題があり、今とは国民感情が違っていた。戦時中の軍隊を連想させ、嫌悪感を持つ人も少なくなかったように思う。
それが3.11以後一変した。
被災者をおぶって避難所まで運び、津波浸水地域では不明者を捜索する。そんな過酷な任務をこなすんだ、と皆驚いた。
3.11から半年後、被災地で自衛隊を見かけると、自然とお辞儀をするようになった。
今回も、熊本の救援では温かい食事は被災者のためで、自分たちは自衛隊の車の中で缶詰を食べると聞いて驚いた。
被災地で迷惑ばかりかけているマスコミたち、見習え!
・・・・あ~家にテレビがなくて良かった。不愉快な映像を見なくてすむもんね。
3.11の時も津波被災地に行って、家も仕事場も流された人に取材し、「今のお気持ちは?」と尋ねて、怒鳴られてた。マスコミ大嫌いになったからなぁ。
*********************************************************
181億円を当てたアメリカ人男性、二日後に理想の彼女が出来たと喜んでいる。「幸運は続くもんだね」と言うのだが・・・・?
「宝くじのおかげで一気に億万長者になった男性をメディアが直撃したところ、なんと当選の2日後に彼女ができていたことが判明した。」
典型的な金目当て(gold digger)だと思うんですが(笑)
こういう女って、お金に対する嗅覚がすごいと思います。
あまりにも出来過ぎてる映像のため夫は、「フェイク(嘘)だ、でっち上げた」と言っていますが。
東日本大震災でも本震3.11(M9)の前、3.09(M7.3)に大きな地震がありました。
私はこれが35年前後周期でくる「宮城県沖地震」だと思い、停電もせず断水もなく家も壊れなかったので、安堵したのを思い出します。
まさか、その二日後にあの信じられない大災害が来るとは知らずに。
東日本大地震・・・現実とは思えないような日々
↑本震よりも、その後の断続的な余震で船酔い状態になり、体調を崩しました。
地震直後の室内とこんなに変わった生活
有り得ないくらいの揺れです。
地震でライフライン全滅:電気を自分でまかなう
↑まずは、太陽光を手探りで「自家発電」モードにしました。
地震でライフライン全滅:食糧はどうしたか
↑近所のコンビニは休業、自販機はのきなみ「売り切れ」になりました。
地震でライフライン全滅:水とトイレ
↑森に接しているので我が家では「野糞」を奨励しました。
地震でライフライン全滅:暖房がストップして
↑薪ストーブが命綱になりました。
ライフライン全滅:交通と通信(固定電話、インターネット)
↑通信網が全滅になったのには参りました。
大地震のあとの大雨・・・・。3.11の時、家屋に出来た地割れ。あそこに雨水が流れ込んで地盤が崩れたらどうしよう。この恐怖は今でも忘れることができません。
それと崩れた学生アパート。大家が住むことはない「投資」目的の物件は、どうしても耐震が甘くなる。建築基準は満たすだろうが、地盤が緩い場所、例えば農地や池の埋立地などに建ててしまう。仙台の大学周辺にも同じ問題があるのでよくわかる。
先日来たカモシカの鮮明版です。放ったらかしの水仙が満開です。
NHKのブラタモリ、仙台編その1(政宗は地形マニア)を見ました。
私の生家(母の実家)は一番町で、あの井戸水のウナギ屋さんがあるあたりです。
子供時代、遊び場だった場所です。
祖母は戦前に仙台に移り住んだので、私で3代目になります。
その明治生まれの祖母は常々、「政宗の城下町のあったところは地盤が固い」と申しておりました。なので子供の頃から「買ってはいけない住宅地」を知っていたと思います。
いま祖母が生きていたら、自宅の地盤はどうかと聞きたいですが、きっと「カモシカの出る森林は人の住むところではない」と言われてしまいそうです。
ですが、用水路の多い車の通りにくい(一通も多いし)街中に住むのが嫌で、アメリカのように道路が広い、車なしではどこにも行けないような場所に住んでいます。
一番町の生家は祖母が他界して売却し、現在はマンションになっています。私は当時学生でしたが、今なら買い取って何か建ててたかも・・・とすごく残念に思っています。
地ビールならぬ地サイダー「牛タン味」。子供ものけぞって、飲まなかった(笑)
*******************************************************
アメリカのキャンパスに出没した熊が、麻酔打たれて「バイバイ」って。
今日から仙台で「国連防災世界会議」です。晴れて暖かです。街中は外国人のゲストでいっぱいでしたよー。
さて、あつれきって程ではないのだけど、日本人にとっては常識でも、外国人には分からないということは多々ある。
例えば敷金。
3ヶ月分を預かって畳を変える費用に充てることが彼らには分からない。ひどい大家さんだと、預かるだけ預かって返さず、畳は変えずに次の外国人を入れるらしい。新しい畳、を外国人は有難がるということもないし、バレない。
漫画の聖地と知られる「トキワ荘」に、空き部屋が出るたびに漫画家が入居した感じと似ています。
・・・・外国人コミュニティは日本人の手によって作れらる・・・・
店屋物の配達。「留学生の寮に出前はしない」と断られた日本人妻。丼を返してくれないから、外国人のすむ地域には届けないのだという。
なんで私がこんなことに詳しいかというと、学生時代、留学生のお手伝いボランティア兼通訳をしてたから。夫とはそうやって知り合って結婚したのです。
あー、今回の国際会議、ボランティア通訳に応募すればよかったな~~。と一瞬思いましたが、家にいる外人の世話で手いっぱいで、そんな気にならないのがホントのところです。
薄化粧の庭・・・・震災の翌日もこんな感じでした。
********************************************************
私の大好きな人・・・・
作家の林真理子、岩井志麻子、中瀬ゆかり(新潮社編集部)・・・・・かな。次点中村うさぎ。
頭の回転が早くて、個性があって、話が面白い人!!!が好きです。
で、岩井&中瀬が出演している「5時に夢中!」の木曜日が面白い。
中瀬さんの30歳の時の高校の同窓会のエピソードが最高です。
高校時代はスポーツができるチョイワル系男子がみんな好きだったけど、ハゲとかデブとか残骸のようになっていた。逆に、頭はいいけどモテない男子が素敵な医師になっていた。みんなで青田買いのできない(株の投資に向いてない)目の無さはなんなのよ!チョイワル男子なんて反社会的勢力になってたりロクなことになってないのに・・・・みたいなトーク!
木曜日だけ楽しみです。
PIHV(プラグインハイブリッド)欲しいなあ・・・・と思っていたんです。
が、最近のTOYOTAの「殿様商売」にもイラついていたところなんで(バカ売れするので、丁寧な営業をしない)、別のメーカーがいいかなあと。プリウスはみんな乗ってるしな。
我が家は海からは遠い山側なんで、雪深い。スキーもするし、やっぱ4WDがいいなあと。
・・・・ということで、来月にはPIHVが我が家にやってくる予定です。
どんな車種かはお楽しみに(って、四駆のPIHVってあれしかないでしょう)。
今は、EV充電用設備設置の段取りやってます。
我が家は120アンペアなのですが(写真は1階のみ、2階にもう60Aあり)。
そこに、200V用がありました。これを車の充電用に使います。
PIHVは200Vですからね。100Vも出来ますが、充電時間が長くなります。
我が家では(数値的には)全て太陽光発電でまかなっています。
オール電化なので、かかる光熱費は水道代のみ(それも、雨水タンクを利用して、節水してます)。
と、ここまで書いていたら、「リチウムイオン電池から発熱し溶損」だって!!納車が遅れる~~~。
・・・・デスブログ?なのかも。
ちょっとこじつけて書いてみると・・・。
〇マレージアでJALの遅延について書いたら、その直後ボーイング787 型機のトラブル発生。
〇アリゾナ(メテオ)クレーターについて書いたら、翌年ロシアに隕石が落ちた。
〇イスラム教と日本人は違うなあ、一緒にやっていくの大変だと書いたら、アルジェリア人質テロが起きた。
ま、偶然でしょうねぇ。
全然更新しないですみません・・・。
年度末(決算や確定申告)で忙しかったのと、子供の学校行事やら、何やかや、書き込む心の余裕がありませんでした。
今日3月11日で2年なんですねぇ・・・・。
昨日の強風に「なんで東北ばっかりいじめるんだ」と子供が言ってましたっけ・・・。
震災の日のように、今朝の仙台は冷え込んで、うっすら雪化粧でした。
会社に来ているスタッフさんと、当日の話をしてました。
金曜日だったねぇー、怖かったねと。
私は当日、学校でベルマークを(のんきに)やった後、マックに昼ご飯を買いに行った。
ガソリンは迷った挙句、入れなかった(T_T)
断水したので、マックのアイスティーを、大事に大事に翌日まで飲んだ(予想もしないことです)。
自宅には太陽光を付けてくれた業者さんが「調子はどうですか?」と、11日の午前中に来て下さった。夫は「つけてよかった」と満足げ。その数時間後地震で3日間停電。
子供は3人とも小学校にいたので、「学校は安全」ということで、安心してました。
防災訓練で学習していた夫は、(ほぼ一番乗りで)迎えに行っていた。ほとんど条件反射。
家に帰って、まき集め。ストーブで暖を取るためだったが、料理もできた。
この時点まで、自分が被災者だと思っていた。
夜のラジオで「若林区に300体の遺体」というニュースを聞くまで、沿岸部で起こっていることを全く知らずにいたのが、今でも思い出すと泣けてくる。
海外の報道では、細長い日本列島のこと、まるで宮城県全域が水没したかのような地図で大騒ぎだった。向こうの親族には多大なる心配をかけてしまった。
今日はそんなことを思いながら過ごします。
アリゾナ州だったかなあ・・・・、レジのお兄さんが「どこから来た」と聞くんです。
それで「Japan....Miyagi,,,,仙台って、ほら、地震と津波があった所ですよ」と答えた。
すると「俺はニュースは見ないもんで、分かんないです、すみません」というお返事。
それが当然なのだろうと思う。
人って、自分に関連のないものには、興味を示さないもの。
「大変でしたね。ご家族やご自宅は無事でしたか?」という答えを期待するのは、酷なのである。
出産した時、こちらが「人生の一大事」と奮闘している時に、そばの看護師はあくびをしていたので驚いたことがあった。
その時の感想に似ている。
キャサリン・セタ・ジョーンズが震災直後、「アメリカに放射能が来たら怖いわ」とおびえ、夫のマイケルダグラスが「大丈夫だよ、アメリカには来ないよ」となだめたと聞いて、心底ムッとした。
折しも、アメリカ軍隊が「トモダチ作戦」で、被災地入りしていた頃である。
しかし今は、その自分勝手さを許そうと思える(笑)。
何故なら、かくゆう私も「2004年のスマトラ島沖地震」の大津波には、関心を持たなかった。日本には影響がなかったから。
しかしつい先日起きた「2012年のスマトラ島沖地震」は、「東日本大震災」との比較研究(アウターライズ地震)が出来るのではないか?と、地元の事ばっかり考えていたからである。
さてこちらは、デンバーで食べたレッドロブスター。
日本国内にも結構店舗があるんですねぇ・・・・東北にはないけど。
このブロッコリー、アメリカ産だろうなあ(埼玉県産の訳ない)と思いながら食べました。繊細な味の、国産野菜が懐かしいよ。
土地も資源もない日本・・・誇れるべきは、技術と日本語と美味しい野菜!!
震災が起きてからの1年、小学校から大学時代までの同級生と一生懸命会っていた。
人はいつ死ぬかわからないから、今のうちに会っておこうという心情。
そうしているうちに、知り合いに結構被災者がいることが分かった。
私は街の中心部の小・中学校(学校の敷地をぐるりとマンションが囲むようなイメージ)に通っていたので、津波の被災者はいないと思っていた。
ところが山元町の海の近くに家を買って移り住み、そこから仙台市にJR通勤していた同級生がいたのである。ご家族は無事だったが、家は全壊してしまった。
中学校では、当時より石巻から通勤していた恩師が、東松島で被災された。幸い先生はご無事だったが、奥様のご親族が多数亡くなられた。うち一人だけ残された小学生を、親代わりになって育てている。
高校では、多賀城、塩釜、松島からJRで通ってきていた人も多かったので、彼女たちの実家がどうなっているか気になる。同級生で亡くなった人は聞かない。それでも結婚相手が、大船渡や釜石、相馬だったりするから、夫実家が被災されているケースも多いと思う。
大学の友人では、海岸部出身の人が結構いる。若林区荒浜の後輩(♂)は実家が流された。みな無事だったが、放射能を恐れた奥さんが、まだ小さい子供を連れて北海道の実家に帰ってしまった。気仙沼の先輩は、海のそばに建てた家が全壊。仮設から小学校に出勤されていると聞いた。
学校の先生になっている友人たち。採用後は海岸部の過疎地に赴任することが多い。それで、教え子の安否確認やボランティアをしに、週末になると被災地に入って忙しそうだった。
福島県伊達市の叔母さんの家。避難区域ではなく今も住んでいるけれど、小さい子供のいる従妹は実家に帰れずにいる。子供が訪問できない家というのは何とも寂しい。
そして・・・・石巻の牡鹿半島の姻戚。家は流され丘の上に引っかかって見つかった。今は仙台市の2LDKに住んでいるが、集落全体が知り合いのような所からの移転、しかも年取ってからでは、精神的にもつらく、大変だろうと思う。
そんなことを思って、今日1日を過ごします。
子供の日記。誤字もありますが、彼なりに震災について感じたことを書いています。
ビデオ→映像、木とう→黙とう、石のまき→石巻
今晩、震災で亡くなられたり行方不明になった方2万人が、天国から見てくれるようにと、約2万発の花火が上がりました。
仙台市内を一望できる泉ケ岳から。うちの住宅地からはこんな風に見えます。
それで考えました。3月10日(木)は何をしていたのかなぁと。
会社の決算を終え、個人の確定申告を出し終わった頃・・・。
午前中に生協の宅配があった(←これがその後の兵糧攻めを、大いに助けることになる)
我が家を立ててくれたハウスメーカーの社長さんが、11日(金)の夜に「仙台で最高のステーキをご馳走します」とおっしゃって下さった。
たぶん2月に太陽光パネルを購入したお礼だと思う。
なのに、どうしても気持ちが動かず(何かが起こるという予感?)、速攻でお断りしていた(←仙台の財界の大物の招待を断るか?フツー。仲介者は呆れていた)。
小学校のPTA役員の仕事が終わり、打ち上げでもしようか、という話になった。
「最近地震が多くて心配だから行けない」という意見もあったが、とりあえず12日(土)に飲み会をすることに決め、店を予約した。
12日(土)の午前中は、町内のお仲間とテニスをする約束だった。
そして震災当日の11日(金)の午前中は、9時半からベルマーク活動が家庭科室であった。
また私は留守だったが、太陽光パネルを付けてくれた人が、「調子はどうですか?」と家を訪ねて夫が「とてもイイです」と返事をしたのが11日で、大地震の数時間前。
そういう、学校や家庭の予定をぎっちり組み、準備をして、「さあ明日は忙しくなる、早く寝よう」と3月10日が終わった。それを昨日のように克明に覚えている。
そして、とても現実とは思えない 3.11の朝を迎えるのである。
大工さんがいない。いないので家の修繕ができない、という話をよく聞く。
資材も人件費も値上がりし、工事代金が高額になっている、とも聞く。
仙台市内は相変わらず、家族で住める不動産が足りない。
3LDK以上の一軒家は、50軒くらいしかヒットしない。
津波被災地、都市部の壊れたマンション、福島原発からの避難者が引っ越してくるからだ。
街中は週末は人でごった返す。
デパートは勿論、飲み屋街も、人という人で埋め尽くされている。
仙台以外の方言も、多く聞こえる。
震災前の仙台市中心部とは違う!と実感する。
復興費とか地震保険とか、仙台市に多くのお金が回ってきている、と感じる。
そんな疑問が記事になって、明確になった。
下記は河北新報の記事から 2012年01月15日日曜日
***********************************************************
仙台市の人口105万人突破 被災者ら転入 11年11月
東日本大震災後、仙台市の推計人口は増加傾向が続いている。市の想定以上のペースで、2011年11月に初めて105万人を突破。現在は105万2476人に伸び、震災前より5739人(0.55%)増えた。他の自治体の被災者や復興業務の従事者が転入したのが主な要因とみられる。被災地では人口流出に歯止めがかからない中、東北の中枢機能を持つ仙台への一極集中が強まっている。
***********************************************************
・・・・とはいえ、津波被災地域の復興への道は遠い・・・・。
本来お金を落とすべき地域に落ちず、仙台市が受け取っていいのか、という申し訳なさ感があるのである。
朝スキーを1時間やってから出勤・・・・という冬の日々を楽しんでいます。
遠くに仙台市街地が見えます。
が、このスキー場は震災の影響で、レストランのあったロッジは取り壊しに。
ご飯のないスキー場になってしまったのです。
仙台はめっきり寒くなった。
節電と石油節約のため、なんとなく家は寒くて暗い。
そして思い出すのは、3月11日もこんな感じの寒さだったなと。
真冬のようなきりきりとした寒さではないけれど、防寒着を着て火にあたりたいような、寒さ。
震災当日の金曜日、午前中は小学校でベルマーク活動をしていた。
12時に終わってから、車で昼食を買いに行った。
ガソリンがないので、コンビニにでおにぎりを買って、ガソリンを入れよう。そしてオフィスで食べよう。
しかしマクドナルドの誘惑に負けてしまい、ドライブスルーに立ち寄ってしまった。(←この選択を、のちに激しく後悔。怒られるので夫には言ってない)
震災前の最後のご飯がこれ↑
温かいうちに食べたくて、ガソリンを入れずにオフィスに向かう。
そしてオフィスで大地震。全ての活動が止まった。
あの時、ガソリンを入れていたら(1/4しか入っていなかった)、被災後もいろいろ活動できたのに。
飲料水が足りない!しかも寒い。でどうしたか?
酒を飲んで内風呂をたく(体の中から温める)・・・です。
震災時、水代わりに飲んだ(オイ)お酒がこれ。
ドンシモン・サングリア(1500ml)
販売価格(税込): 680 円
うまいです。でもがぶがぶ飲めちゃうので、翌朝に額にきます・・・・。
東名駅で先生に会って、そのままご自宅に案内されました。
玄関はべニア板で打ちつけられていたので使わず、庭側から開けて入りました。
「ここの1階天井付近まで津波が来た」。
壁には黒い津波の跡がありました。
畳は板になっていましたが、電気と水は通じているようです。
私はコートを着たまま靴を脱いで、スリッパに履き替えて上がりました。
そして、地震の時は石巻の職場(引退後の仕事)にいて無事だったこと、
奥様のご親族6名が東名地区で亡くなったこと、
一人残された奥様の姪のお子さん(小学生の男児)を引き取って、3人で松島のアパートに住んでいること、
・・・・を聞きました。
泣けてきた・・・・。70歳近くなって、なんでこんなにつらい思いをしなくてはならないんだろう。
15歳の私には、貫録のある30代の男性教師に思えたけど、先生ってこんなに小さかったかな。
中学卒業以来の再会は、とても切なかったです。
帰ってから私はまず、津波で喪失したという「卒業アルバム」をカラーコピーして送りました。
次に、連絡のつく同級生(1学年4クラスありました)+同窓会サイト登録者、合計で60名くらいかな?先生に「お見舞いメールをしてね」と書きこみました。
教え子って財産だと思うんですよ。津波で人や財産をなくされた先生には特に。
国語の先生らしく、ご自宅の1階には立派な書物庫があったが、天井まで津波が。
週末は、泥をかぶった書物の整理をされているそう。
どうかお元気でいてほしい。
運河にかかった橋から東名地区を見る。手前が陸方向です。
震災前はこんな感じ。
**********************************************************
授業参観があり、図工でした。
幻の鳥を描くというテーマだったので、1枚もらって私も描いてみました。
夫が描きました。Happy Birdなら俺にも描けるって。楽しそうです。
*****************************************************
町内の住民専用のテニスコートですが・・・・
暴風で空の便が欠航する中、テニス部OG会の納会をし、顧問2名を入れて15名で3試合やりました。
ボールがうまく飛ばなかったよ。町内会の人も呆れてた。
豚汁でもてなしましたが、生まれて初めて里芋を料理した(爆)。茹で方はネットで検索。
やっぱ、ガイジンと結婚する女は・・・。
さて顧問の先生(60代)ですが先日、先生の行きつけのバーで、OG八名と夜中まで飲んだのですが・・・。
天童よしみ似ママの店で、水割りとツマミで一人3,000円。
「え、これ割り勘?」と一瞬ムッとしたんですが、「先生のおごり~~」にホッ(←納得いかない事にはカネ払いたくない)。
駅には、3畳ぐらいのプレハブ事務所があって、連絡要員(?)の詰所になっていました。
安否確認などで訪ねてきた人に情報を提供する場所、のような役割。
それで私は、再度「先生からの手紙」を見せて、事のいきさつを話しました。
そして先生の携帯電話番号をもらい、かけたところ、先生と話すことができました!
先生「今どこにいるの?」
私「東名駅です」
先生「じゃ、30分くらいで行くから、そこにいて」
みたいな感じ。
それで30分間、私は東名周辺を歩いてみました。
震災前の東名地区
同じ角度から撮った、今回の訪問時の写真です。
ここに家が建っていたとは信じられないくらい、衝撃的な光景が広がっていたのでした。
続きます。
***************************************************
例年より早く、今日から定禅寺通りで「光のページェント」が始まりました。
仙台は「復興バブル」と言われ、かなり賑わっていると聞きます。
これは地元の老舗デパート。ミネラリエ?ルミナリオ?なんだっけ(笑)みたい。
地震保険やその他もろもろのお金が入ったから、復興関係者が仙台に滞在しているから、と言われています。
しかし地震保険に入ってなかった我が家は、修繕費が大変(泣)で関係ないし~。