つれづれ日記

チェリスト秋津のつれづれな日記です。

ちょっといい話

2008年11月08日 07時04分33秒 | Weblog
このところ、法務(お坊さん)で門徒の方々に報恩講(ほうおんこう)のお参りをしています。
その時に、法話というのをしていますが、その中での話です。

以前、東京の山の手線の大久保駅だったか、韓国人の青年が駅のホームから転落した人を助けようと、電車が来ているにも関わらず、とっさに飛び降りて亡くなった、という話がありました。
この話は、結構人々の記憶に残っているのですが、何故でしょう?
多分、なかなか出来ることじゃないですよね。
あの行為は、仏教的に見たら、菩薩の行のひとつに布施というのがありますが、正にそれを身をもって示したということになるのではないかなあ?と僕は思うんです。布施の行の中で最も優れたものが、他の命のために自分の命を捧げる、という行為なのだそうです。

そういえば、うちの幼稚園に仏参というのがありまして、児童がお寺の本堂にみんなでお参りをします。
その時に、住職がみんなにお話をするんです。
多分、僕のじいちゃんが話してくれたなかに、こんなのがありました。
あるひとが森を歩いていたら、何日も何も食べてなくて、飢えで今にも死にそうな動物がいたのです。それを見たこの人は、「かわいそうに! あなたはこのままではもう死んでしまいまいますよね。それじゃあ、どうぞ私を食べなさい。」
と言って、すすんで自分の命をその動物に捧げた。という話です。
この行為は、「とても尊い」ということを解ってもらうのが肝心なわけです。
誰でもが出来ることじゃない。
もし自分だったら、どうするでしょう?

全ての生き物の中で自ら死を選ぶことが出来るのは、多分人間だけです。
普通は、生きようとすることはあっても、死のうとするものはないはずです。
でも、人は何か理由があって死を選ぶ場合がありますよね。
一人で死ねば自殺。二人で死ねば心中。複数で死ねば集団自殺。
また、世界で今も起きているテロの事件での自爆テロ。
でも、これらの死に対して、人は決して「尊い」とは言いません。
もっとも、イスラムの教えに則っての自爆においては、神の思し召しによっての死という考えなら、「尊い」と本人も思い、すすんで死んでいったかも知れません。でも、親はどうでしょうか?
また、理由無く殺された人の家族、友達はどう思ったらいいのでしょうか?

先ほどの韓国の青年は、今何処におられるか知る由もありませんが、多分この生を受けた時、既にかなりの徳を積んで生まれられ、あの事件は更に高いところに行くための「布施の行」をされたのではないのかなあ? と僕は思います。

涙にもいろいろありますが、この手のはいいですよね!

南無阿弥陀仏

P.S. どなたか、この韓国の青年の名前を知っている方おられたら、教えてくださいませんか?

おわり