2023年4月12日、会下山小公園にある牧野富太郎の 植物学研究所跡 の写真を撮ってきました。
今年の4月から始まったNHK総合テレビの朝ドラ「らんまん」の影響もあり神戸市は
新たに説明版やパーゴラなどを整備されており以前より充実した展示になっています。
以前の訪問記にリンクしておきます。
上の写真は牧野富太郎 植物研究所跡の石碑のアップ写真です。撮影:2023-4-12
上の写真は牧野富太郎 植物研究所石碑の遠景。周囲にはスエコザサが植えられています。
碑の説明文には、下記のように書かれています。
世界的な植物学者“牧野富太郎”博士の研究所が大正七年から昭和十六年までこの地にあった。
植物研究所は、南蛮美術収集家として著名な池長孟が牧野富太郎のために提供したものである。
日本の植物分類学の先駆者である牧野富太郎は「ヤマトグサ」を初め数々の新種を
発見し、独学で研究の結果六十六才で理学博士、九十才で文化功労者となり、
昭和三十二年九十六才で没した。
昭和三十二年九十六才で没した。
上の写真は神戸市兵庫区役所が作成した地図で牧野富太郎の 植物学研究所跡 (池長植物研究所跡)
までの経路が示されています。
上の3枚の写真は現地に掲示の説明板。植物研究所の開所式の記念写真。
開所式は大正7年(1918)10月31日から11月3日に行われています。
池長植物研究所は明治44年(1911)校舎改築により売却されることとなった「兵庫尋常小学校」の
講堂を会下山に移築し、大正元年(1912)11月10日、「正元館」と命名され落成した。
この「正元館(しょうげんかん)」が池長植物研究所として活用されることとなった。
大正7年(1918)に池長植物研究所として開所し、昭和16年(1941)まで使用されました。
池長孟(いけながはじめ)は大正5年(1916)牧野博士が3万円の借金を抱え貧乏で
絶体絶命になりそれが新聞記事に掲載されたのを知り久野房之介とともに援助を申し出た。
その後、上述のように植物研究所の開所とともに牧野博士の生活も支えた。
その後、上述のように植物研究所の開所とともに牧野博士の生活も支えた。
牧野博士も最大の恩人として池長孟に感謝の意を表しています。
上の写真は新たに整備されたスエコザサ
上の写真はスエコザサの学名などが書かれた銘板
上の2枚の写真は現地説明板
上の写真はスエコザサの説明部
上の2枚の写真は新たに設置されたパーゴラなどの近遠景
この周辺を通称「牧野公園」と命名されています。
また牧野公園への入口から会下山小公園を周回している坂道を「牧野坂」と命名されています。
牧野坂は古い木の銘板がかかっていました。
上の2枚の写真は池長植物研究所の後に建てられた構造物
上の写真は上述構造物より撮った神戸市兵庫区の街並み
上の写真は牧野博士が神戸に来た時の宿舎とした会下山館の入口の写真と説明文。
上の2枚の写真は新たに植栽されたアリマウマノスズクリと説明板
アリマウマノスズクリは昭和12年(1937)牧野博士が有馬温泉近郊で発見命名されたもの。
上の写真は牧野公園に植栽又は植栽予定の植物のリスト
上の写真は4月3日から始まったNHK朝ドラ「らんまん」の最後に紹介の植物
「ヤマトグサ」は牧野博士が27歳のの明治22年(1889)「植物学雑誌」第3巻
第28号に
大久保三郎と日本で初めて新種として学名がつけられました。
最後に牧野富太郎博士の年譜を添付して筆を置きます
青字は神戸関連の事象
文久2年(1862)4月24日、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まれた。幼名は成太郎。幼い頃、両親をなくし祖母に育てられた。
幼少のころから植物に興味を示していた。
明治5年(1872)10歳、寺小屋で習字を学ぶ
明治6年(1873)11歳、明教館(めいこうかん)で西洋の学問に触れる
明治7年(1874)12歳、佐川小学校に入学
明治9年(1876)14歳、佐川小学校を自主退学
地元の学校の教師などから英語を学び、植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、気ままな生活を送っていた。
欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。
明治12年(1879)17歳、高知市に出て五松学舎に学ぶ。コレラを罹患し帰郷
明治13年(1880)18歳、永沼小一郎(地元の旧制中学教師)と知り合う
明治14年(1881)19歳、第2回内国博覧会の見学のため東京へ。
書籍や顕微鏡が欲しくなるなど研究心が固まったのも東京行きの理由である。
田中芳男などと知り合う
明治17年(1884)22歳、2回目の上京。東京大学植物学教室に出入りする。理科大学で谷田部良吉、松村任三と知り合う
明治20年(1887)25歳、「植物学雑誌」の創刊に関わる。祖母の浪子が病死。神戸の裏山、布引の滝周辺で植物採集する。
明治21年(1888)26歳、壽衛(すえ)と暮らし始める。
「日本植物志図篇」刊行開始。今で言う植物図鑑のはしりである。
明治22年(1889)27歳、日本で初めて新種「ヤマトグサ」に学名をつける。
『植物学雑誌』に発表
明治23年(1890)28歳、水草のムジナモ発見。谷田部教授に教室への出入りを禁止される
自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。
明治24年(1891)29歳、実家の整理のために佐川へ帰る
牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に家産も傾いて行った。
明治26年(1893)31歳、長女・園子が急死
帝国大学理科大学の助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。
その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。
ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、
参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり
厚遇はされず、さらに子供が次々に生まれ経済的にも苦しかった。
明治33年(1900)38歳、「大日本植物志」刊行開始
明治34年(1901)39歳 コヤスノキの記載をする
明治40年(1907)45歳 飯沼慾斉原「増訂草木図説」第1巻を出版する
明治42年(1909)47歳、横浜植物会を立ち上げ、観察会など指導する
明治43年(1910)48歳、大学の助手を休職になる。
明治44年(1911)49歳、東京植物同好会を作る
明治45年(1912)50歳、東京帝国大学理科大学講師として復帰(昭和14年(1939)まで勤務)
大正5年(1916)54歳、貧乏で絶体絶命になりそれが新聞記事に掲載。
青字は神戸関連の事象
文久2年(1862)4月24日、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まれた。幼名は成太郎。幼い頃、両親をなくし祖母に育てられた。
幼少のころから植物に興味を示していた。
明治5年(1872)10歳、寺小屋で習字を学ぶ
明治6年(1873)11歳、明教館(めいこうかん)で西洋の学問に触れる
明治7年(1874)12歳、佐川小学校に入学
明治9年(1876)14歳、佐川小学校を自主退学
地元の学校の教師などから英語を学び、植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、気ままな生活を送っていた。
欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。
明治12年(1879)17歳、高知市に出て五松学舎に学ぶ。コレラを罹患し帰郷
明治13年(1880)18歳、永沼小一郎(地元の旧制中学教師)と知り合う
明治14年(1881)19歳、第2回内国博覧会の見学のため東京へ。
書籍や顕微鏡が欲しくなるなど研究心が固まったのも東京行きの理由である。
田中芳男などと知り合う
明治17年(1884)22歳、2回目の上京。東京大学植物学教室に出入りする。理科大学で谷田部良吉、松村任三と知り合う
明治20年(1887)25歳、「植物学雑誌」の創刊に関わる。祖母の浪子が病死。神戸の裏山、布引の滝周辺で植物採集する。
明治21年(1888)26歳、壽衛(すえ)と暮らし始める。
「日本植物志図篇」刊行開始。今で言う植物図鑑のはしりである。
明治22年(1889)27歳、日本で初めて新種「ヤマトグサ」に学名をつける。
『植物学雑誌』に発表
明治23年(1890)28歳、水草のムジナモ発見。谷田部教授に教室への出入りを禁止される
自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。
明治24年(1891)29歳、実家の整理のために佐川へ帰る
牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に家産も傾いて行った。
明治26年(1893)31歳、長女・園子が急死
帝国大学理科大学の助手となったが、その時には生家は完全に没落していた。
その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。
ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、
参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり
厚遇はされず、さらに子供が次々に生まれ経済的にも苦しかった。
明治33年(1900)38歳、「大日本植物志」刊行開始
明治34年(1901)39歳 コヤスノキの記載をする
明治40年(1907)45歳 飯沼慾斉原「増訂草木図説」第1巻を出版する
明治42年(1909)47歳、横浜植物会を立ち上げ、観察会など指導する
明治43年(1910)48歳、大学の助手を休職になる。
明治44年(1911)49歳、東京植物同好会を作る
明治45年(1912)50歳、東京帝国大学理科大学講師として復帰(昭和14年(1939)まで勤務)
大正5年(1916)54歳、貧乏で絶体絶命になりそれが新聞記事に掲載。
上の写真は大正5年(1916)12月18日大阪朝日新聞の記事
当時、東京大学の講師であった牧野富太郎の月給が35円で高額の書籍などの購入で
借金がかさみ収集した植物標本約10万点を海外に売却することを計画。これを知った
東京朝日新聞が記事を掲載、その翌日に大阪朝日新聞が同様の記事を掲載した。
神戸の南蛮美術の収集家として著名な池長孟(はじめ)が援助を申し出る
神戸の南蛮美術の収集家として著名な池長孟(はじめ)が援助を申し出る
池長孟は牧野博士の10万点の植物標本を3万円で買い取り
植物研究所を会下山「正元館」に設立することが決まった。
津村順天堂(現ツムラ)の協力を得て「植物研究雑誌」を創刊
大正6年(1917)「植物研究雑誌」に「余が年少時代に抱懐した意見」を発表。池長植物研究所の開館準備。
大正7年(1918)56歳、神戸牧野富太郎植物研究所が完成(昭和16年まで続く)
津村順天堂(現ツムラ)の協力を得て「植物研究雑誌」を創刊
大正6年(1917)「植物研究雑誌」に「余が年少時代に抱懐した意見」を発表。池長植物研究所の開館準備。
大正7年(1918)56歳、神戸牧野富太郎植物研究所が完成(昭和16年まで続く)
開所式が会下山で行われる。牧野が所長、池長が正元館主に就任
大正8年(1919)57歳、池長植物研究所に保管していた標本が京都帝大に寄贈される話が浮上
大正10年(1921)59歳 高砂市石宝殿、新宮などでノジギク、コヤスノキの自生地に出かける。
大正10年(1921)59歳 高砂市石宝殿、新宮などでノジギク、コヤスノキの自生地に出かける。
須磨寺の池で「スマフサモ(現在はオオフサモ)」を採集
大正15年(1926)64歳、現在の東京都練馬区東大泉に自宅を建てる
昭和2年(1927)65歳、東京大学から理学博士の学位を授与される。
昭和3年(1928)66歳、妻の壽衛(すえ)が死去。
新種の笹に亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。
大正15年(1926)64歳、現在の東京都練馬区東大泉に自宅を建てる
昭和2年(1927)65歳、東京大学から理学博士の学位を授与される。
昭和3年(1928)66歳、妻の壽衛(すえ)が死去。
新種の笹に亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。
昭和4年(1929)67歳、西村旅館(栄町)で南国の植物について講演
昭和6年(1931)69歳、2月、6月、9月に摩耶山温泉ホテルで講演
昭和8年(1933)70歳、兵庫区制始まる。六甲高山植物園が開設
昭和9年(1934)72歳、「牧野植物学全集」刊行開始
昭和10年(1935)73歳、神戸女子薬科専門学校、神戸市立諏訪山小学校で講演
昭和11年(1936)74歳、西村旅館(栄町)で講演
昭和12年(1937)75歳、「牧野植物学全集」によって朝日文化賞を受賞
氷の山で植物採集。岡部芳郎が同行した映像が現存
有馬近郊で「アリマウマノスズクリ」を発見、命名
昭和13年(1938)76歳、神戸女子薬科専門学校、神戸市立諏訪山小学校で講演
池永孟が「池長美術館」を竣工。阪神大水害が発生。
昭和14年(1939)77歳、東京帝国大学理科大学講師を辞任
昭和15年(1940)78歳、「牧野日本植物図鑑」刊行
昭和15年(1940)78歳、「牧野日本植物図鑑」刊行
六甲高山植物園で講演。池長美術館が開館。
昭和16年(1941)79歳、満州へサクラの調査に行く。池長孟より標本が返される。
安達氏より標品館が寄付される
昭和20年(1945)83歳、山梨県北巨摩郡保坂村へ疎開
昭和23年(1948)86歳、天皇陛下へご進講
昭和24年(1949)87歳、病気で危篤となるが、奇跡的に復活する
昭和26年(1951)89歳、第1回文化功労者に選ばれる。
文部省に「牧野富太郎博士標本保存委員会」ができる
昭和16年(1941)79歳、満州へサクラの調査に行く。池長孟より標本が返される。
安達氏より標品館が寄付される
昭和20年(1945)83歳、山梨県北巨摩郡保坂村へ疎開
昭和23年(1948)86歳、天皇陛下へご進講
昭和24年(1949)87歳、病気で危篤となるが、奇跡的に復活する
昭和26年(1951)89歳、第1回文化功労者に選ばれる。
文部省に「牧野富太郎博士標本保存委員会」ができる
池長美術館が神戸市に移譲され、神戸市美術館となる
昭和29年(1954)92歳、風邪をこじらせ、床に臥せることが多くなる
昭和32年(1957)94歳、家族に見守られて永眠 墓所は谷中霊園
昭和33年(1958) 高知県立牧野植物園が開園、東京都立大学牧野標本館が開館
東京都練馬区立牧野記念庭園が開園
平成20年(2008)東京都練馬区の名誉区民となる
平成24年(2012)生誕150年
令和4年(2022) 生誕160年
昭和29年(1954)92歳、風邪をこじらせ、床に臥せることが多くなる
昭和32年(1957)94歳、家族に見守られて永眠 墓所は谷中霊園
昭和33年(1958) 高知県立牧野植物園が開園、東京都立大学牧野標本館が開館
東京都練馬区立牧野記念庭園が開園
平成20年(2008)東京都練馬区の名誉区民となる
平成24年(2012)生誕150年
令和4年(2022) 生誕160年
「牧野富太郎と神戸」の関係については下記ブログで書いています。
池長孟氏と牧野博士のツーショットの写真も掲載しています。
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