CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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加古川市野口町稲荷神社に残る三木合戦野口城戦の残影

2021年04月11日 05時11分57秒 | 神戸市以外の兵庫県

 

2021年4月2日、加古川市野口の教信寺の近くにある稲荷神社で野口城の戦いに

関する説明書きを見つけましたので写真紹介します。

同時に三木合戦における野口城の戦いまでの経緯についても記載しました。

上の2枚の写真は稲荷神社の遠景

上の写真は野口城主(長井四郎左衛門政重)の守護神「正一位光慧大明神」の神棚

上の写真は現地の説明板

上の写真は現地説明板の本文と同じ文章が掲示されています。

上の写真は現地説明版の右上の「記」の文章 平易な文に訳して記載しておきます。

一、この正一位大明神は長井城主の守護神である

一、長井一族は今もこの境内に移住している

一、長井城主愛用の遺品文函、硯箱は岡田本家に秘蔵している

 昭和34年(1959) 右碑及び遺品について記す 翠雲老人

 

上の写真は境内の石造品

上の2枚の写真は境内の小祠と瓦

 

野口城の戦いは天正6年(1578)4月3・4・5日に行われました。

秀吉側は約3,000の兵で野口城(城主は長井政重)の軍勢は城兵380人に教信寺の

僧兵に近隣の農民を含めて約600人で対抗しましたが秀吉方に寝返った加古川城の

糟屋武則の軍が迫った4月3日に落城しました。城主の長井四郎左衛門政重の切腹

により城兵は助命されました。教信寺はこの時、全焼してしまいました。

以下は三木合戦の経緯(野口城の戦いまで)を記載しました。

天正6年(1578)3月4日、毛利攻めで都を出立した羽柴秀吉は3月7日播磨の
諸将を集めて糟屋氏館(現在の加古川市称名寺)で「加古川評定」が行われた
その直後、これまで織田方であった三木城主・別所長治とそれに呼応した
周辺の諸城主が毛利方へと離反しました。

この時、別所長治の名代として加古川評定に出席したのは毛利びいきで名門意識の
強い別所長治の叔父の別所吉親であった。吉親は下層から立身した秀吉を見下す
ところがあり、評定で秀吉の問いに応じて別所氏の家系から代々の軍功を語る
長談義に及び、秀吉の不興を買う事になった。吉親は憤懣を抱いたまま三木城へ
帰ると長治を説き伏せ、信長からの離反を決意させた。

天正6年(1578)3月14日 丹波八上城の戦い
        3月29日 羽柴秀吉初めて三木城を攻める

秀吉軍は、三木城攻撃の初戦(鳥町の戦い)で手痛い敗北を喫しました。

そこで秀吉は、三木城をとりまく城を攻撃し、城を裸にしてしまう作戦に変更しました。

最初に狙いを定めたのが野口城でした。野口城の城主は、長井四郎左衛門政重です。

上の写真は天正6年(1578)4月3・4・5日の野口城の戦い

三木合戦全体の概要については下記ブログで纏めています。

 三木城跡公園の三木合戦図 on 2015-4-29 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

さらに三木合戦の全体を理解するために三木合戦の絵解きの動画を添付して筆を置きます。

法界寺 三木合戦 絵解き on 2014-4-17 その1

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