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神戸開港を主導した外国奉行「柴田剛中」について

2021年04月24日 03時52分54秒 | 神戸情報

神戸開港を主導した外国奉行兼大坂町奉行所兼兵庫奉行の柴田剛中(1823-1877)

について神戸でも名前は聞いたことがあるが詳しいことは判らないという人が多い。

私もその一人である。そこで柴田剛中(しばたたけなか)について調べてみました。

まず、Wikipedia(一部加筆)より柴田剛中の一生を俯瞰することとします。

柴田 剛中(しばた たけなか、文政6年1月17日(1823年2月27日)-
明治10年(1877年)8月24日)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府
旗本・外国奉行。文久遣欧使節。通称は貞太郎・日向守。雅号は恬斎。

生涯・人物

江戸小石川に徒目付・柴田良通の長男として生まれる。幼名は真太郎。
10歳のときに父が急逝し、天保13年(1842年)に徒目付となる。
子供の頃より頭脳明晰で昌平黌(しょうへいこう)=湯島聖堂に入門、推薦で
幕府官僚の道を選んだ。

上の写真は湯島聖堂=昌平黌  撮影:2007年
嘉永6年(1853年)に評定所配属となり、安政元年(1854年)に留役助、
翌年には留役になった。安政5年(1858年)8月に外国奉行支配組頭となり
100俵を給され(計125石)、神奈川開港問題の交渉にあたって、横浜開港を実現させた。
その後も外国人殺傷問題(生麦事件など)や通貨問題などで欧米外交団との
交渉の窓口となり、文久元年(1861年)には100俵の加増を受ける。

文久遣欧使節

文久2年(1862年)12月に幕府が派遣した遣欧使節(文久遣欧使節)の組頭として
ヨーロッパに渡り、開港開市の延期交渉にあたった。翌年12月に帰国後直ちに
外国奉行並に任じられ、翌年11月に外国奉行として箱館派遣が決定され、
翌月には諸大夫に任じられた。慶応元年(1865年)閏5月に製鉄所建設及び
軍制調査の正使として再度フランス・イギリスに派遣された。
7月にフランスに入った柴田らはフランスとの製鉄所建設と軍事教練に
必要な協定を締結することに成功するが、薩摩藩との関係を強めつつあった
イギリスとの交渉には成功しなかった。11月にフランスを出発し、翌年1月に帰国した。

帰国後

帰国直後、外国奉行並(場所高千石)に昇任し、文久3年に外国奉行として函館に赴任し、
諸太夫になった[1]。慶応元年、製鉄所建設と軍事調査のため再び仏英に派遣され、
同年末帰国[1]。慶応3年(1867年)5月13日には大坂町奉行、7月9日には兵庫奉行を兼務して、
当時八部郡二茶屋村にあった善福寺を宿所とし、もっぱら外国人居留地問題などの
外交問題を担当した。神戸港に関しては、運上所や埠頭・居留地の造成、
西国往還の付け替え工事(徳川道の造成)などを進め、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、
大坂・兵庫開港市の式典を迎えている。開港当日、柴田剛中は、まず税館(運上所)を開き、
英、米、仏、晋、蘭等の公使・領事等出席の下、開港式典が行われ、西洋の新年への賀と
兵庫開港・大坂開市の賀を申し述べる旨の宣言書を読み上げた。

慶応4年(明治元年/1868年)の鳥羽・伏見の戦いでの幕府軍の敗北と徳川慶喜の江戸城引揚
に際して運上所施設の明け渡しなど対外的な事後処理を終えた後の1月17日に外国奉行以下を
罷免され、隠居願を提出、同年4月に認められて所領のある上総国山辺郡富田幸谷村に退いた。
その後もその見識と人物を評価されて明治政府より出仕要請が出されるが、これを辞退する。
ただし、政府に請われて上京して外交問題に関する諮問に応じたという。

引退後、東京では神田淡路町に屋敷を構え、こちらで亡くなっている。 
墓は台東区下谷の随徳寺にあったが、関東大震災で損壊し、
現在は過去帳のみにその名前が記載されている。

柴田家は三河の忍を配下に持つ家系で、家訓は「生延びよ。」 イギリスの学者ストーム
によると柴田剛中はグラバーに対抗するために隠密を暗躍させており、それらの中には
廻国者集団の「柴田連中」などがあった。

赤字は神戸開港に関する記述

上の写真は文久2年(1862年)オランダにて文久遣欧使節の仲間とともに。

右から柴田剛中、福澤諭吉、太田源三郎、福田作太郎

出典:Wikipedia

 

神戸開港、正式には兵庫開港を迫る欧米列強に屈した幕府は慶応3年(1867)5月、

勅許を得て柴田剛中を兵庫開港主管者に任じます。

柴田剛中は遅延がちな工事の督促や施設計画、開港関連の外交諸務などを懸命に行い

「ビードロの家」と呼ぶ運上所や倉庫の建設さらに3本の波止場、外国居留地の整地

なども期限内に完成させた。いわば神戸の恩人の一人でもある。

慶応3年(1867)12月7日(新暦換算1868年1月1日)神戸開港のセレモニーを取り

仕切った柴田剛中はセレモニー終了後、何故か漁民に変装し江戸へと逃亡した。

「ええじゃないか」の大騒音と狂乱の踊りに追われるように海上に消えたという。

上の写真は青山大介氏の力作です。 撮影:2017-1-13

神戸開港当時の絵(原画は1968年3月28日号のイラストレイテッド ロンドン 
ニュースで英国海軍 F・J・パーマー中尉代理が描いたもの)では神戸開港を祝う
18隻の英米仏の艦船が描かれて精巧に描かれています。

旗艦「ロドニー」は1833年にイギリスのベンブロークの造船所で進水した英国海軍の
第2級戦艦です。建造当初は98門の大砲を装備した帆船でしたが1860年にイギリスの
チャタム造船所で蒸気機関によるスクリュウ推進に改造。その後、中国駐留艦隊の所属となる。
1868年1月1日(慶応3年12月7日)の神戸開港を祝うために集まった英米仏の外国艦船
18隻のうちイギリス艦船12隻の旗艦として神戸に来航し、21発の祝砲を放ち世界に向け
神戸の開港を祝いました。1882年にその役目を終え解体されました。

ロイヤル・サルート(祝砲による儀礼)とイラストレイテッド ロンドン紙に関して

詳細は下記ブログで記載。


 神戸開港150年 祝砲 「ロイヤル・サルート」 on 2017-1-1

動画も添付しておきます。

神戸開港150年 祝砲 「ロイヤル・サルート」 on 2017-1-1

 

開港当時の波止場や居留地の様子については下記ブログで書いています。

 明治40年(1907)第一期修築工事起工以前の神戸港 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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