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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

2022年5月20日~22日に「第72回姫路お城まつり」が行われます

2022年05月16日 09時42分18秒 | 神戸市以外の兵庫県

恒例の「第72回姫路お城まつり」が2022年5月20日(金)~22日(日)に実施されます。

5月11日に掲示されてポスター、神戸新聞記事などから姫路お城まつりの概要を纏めました。

より詳しい情報は下のリンク公式サイトを参照して下さい。

 姫路市|姫路お城まつり公式サイト (himeji.lg.jp)

上の写真は第72回姫路お城まつりのポスター。撮影:2022-5-11

上の写真は「ひめじ良さ恋まつり」の会場となる大手前公園付近の提灯の飾りつけ

 撮影:2022-5-11

姫路城お城まつりは昭和23年(1948)戦後復興の願いを込めて始まりました。

主催者は地元団体でつくる姫路お城まつり奉賛会です。

一昨年(2020年)は新型コロナウイルス感染症の広まりを受けて中止され、昨年(2021年)は

コロナや東京五輪の影響で規模を縮小して11月の開催となりましたが本年は例年の大手前通り

のパレードが3年ぶりに復活し、通常の5月開催となります。

また姫路城薪能は姫路市民に幽玄の世界に触れてまらおうと昭和46年(1971)に

始まり今年は51回目の開催となります。

 以下の日程について2022年5月18日に改訂しました。

2022年日程

5月20日(金)

 第51回 姫路城薪能 午後5時45分開演 於:三の丸広場(雨天時は市民会館)

   演目:能「半蔀(はんしとみ)」光源氏と夕顔の恋物語、「土蜘蛛」化け物退治

      狂言「鎌腹」怠け者の夫と口うるさい妻との夫婦けんかがテーマ

  加西市子供狂言 16時30分~ 於:三の丸広場(雨天時は市民会館)

 姫路城薪能親子教室発表会 17:00~ 於:三の丸広場(雨天時は市民会館)

 

5月21日(土) 荒天時中止 

 大パレード   11:20~18:00 於:大手前通り 

 姫路大名行列  16:30~17:30 於:大手前通り

 第54代 お城の女王発表会 10:30~11:10 於:大手前公園

 大手前公園ステージ 11:30~15:30 於:大手前公園

 総踊り 17:30~18:30 於:大手前通り

 動物園ナイトZOO 18:00~20:00 於:動物園

 陸上自衛隊姫路駐屯地の装備品等展示 10:30~17:00 於:家老屋敷跡公園

 

5月22日(日)荒天時中止 

 第21回 ひめじ良さ恋まつり 10:00~17:00 於:大手前公園 

 サウンドフェスティバル 13:00~17:00 於:シロトピア記念公園野外音楽ステージ

 キッズイベント 10:00~16:00 三の丸広場

 

第54代 お城の女王

 姫路の魅力を発信する第54代「お城の女王」が5月11日に発表されました

 35人の応募者から下記3人が選ばれました

  宇野音羽さん   (大阪大学2年)

  小西真悠子さん  (東京学芸大学4年)

  安田りかさん   (神戸女学院大学2年)

 お城まつりでは姫路城所縁の千姫、督姫、喜代姫の衣装で登場されます。

詳細は下記サイト

  姫路の魅力PRへ「お城の女王」決まる 21日デビュー|姫路|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)

 

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「兵動大樹今昔さんぽ」で紹介された尼崎・法園寺の佐々成政公供養五輪塔

2022年05月13日 04時20分21秒 | 神戸市以外の兵庫県

2022年4月6日18時からの報道ランナー、「兵動大樹今昔さんぽ」で尼崎の寺町にある

法園寺の佐々成政公供養五輪塔が紹介されていましたのでレビューしたいと思います。

 

上の写真はお題の写真

上の写真は写真に相当する佐々成政公供養五輪塔

現在の設置場所は写真の場所とは違い移設されたそうです。

上の写真は法園寺の入り口にある佐々成政公墳墓之地の石碑

上の写真は法園寺の住職より説明を受けられる兵動大樹さん

肥後国人一揆の責任で豊臣秀吉に幽閉された佐々成政は天正16年(1588)閏5月14日
(新暦換算7月7日)に法園寺で切腹した終焉の地である。

戒名成政寺殿真州大守四品庭月道閑居士

佐々成政(1536-1588)公の生涯をWikipediaと現地説明板より要約紹介します。

佐々氏は尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区)に拠った土豪。
宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。
佐々成政の兄に政次・孫介がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560)
24歳で家督を継ぎ、比良城主となる。

天文5年(1536)2月6日生まれ

永禄4年(1561)森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門(常通。稲葉一鉄の叔父)を
       池田恒興と共に討ち取る大功を立てる。

永禄10年(1567)黒母衣衆の一員に抜擢

元亀元年(1570)6月 姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正・
  中条家忠らと少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加、鉄砲隊を率いて活躍

天正2年(1574)長島一向一揆との戦いで長男・松千代丸を失う

天正3年(1575)5月の長篠の戦いでは前田利家らと共に鉄砲隊を率いて活躍

天正3年(1575)9月 織田信長は越前国制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の
   軍団長とした。その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人
  (府中三人衆)に越前府中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城
   とした。

石山合戦(元亀元年(1570))や播磨国平定(1577-1580)、
荒木村重征伐(1578-1579)に従軍

天正5年(1578)8月、能登に侵入した上杉勢を攻めるために柴田勝家らと共に
          加賀に侵攻したが、七尾城の陥落を受けて撤退。

天正8年(1580年)神保長住の助勢として一向一揆および上杉氏に対する最前線
         であった越中国平定に関わった

天正9年(1581)2月 正式に越中半国を知行
           富山城を居城として大規模な改修

天正10年(1582) 本能寺の変 上杉の魚津城を攻略
         清州会議では柴田勝家方につく

天正11年(1583) 賤ヶ岳の戦いで叔父の佐々平左衛門が率いる兵600の援軍を
         出すにとどまった。合戦中における前田利家の寝返りや
       上杉景勝の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で秀吉に降伏
         越中一国を安堵

天正12年(1584) 小牧・長久手の戦いでは秀吉側につかず
          織田信雄方につき秀吉方に立った利家の末森城を攻撃
          徳川家康に再度挙兵を要請するが失敗
           (さらさら越えとして有名)

天正13年(1585) 秀吉自ら越中に出陣、富山城を10万の大軍で包囲、佐々成政は
         織田信雄の仲介により降伏
         越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に
         大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた

天正15年(1587) 九州征伐で功をあげたことを契機に、肥後一国を知行

秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる
成政は、早速に太閤検地を行おうとするがそれに反発する国人が一斉蜂起し、
これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。
このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、
摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。
  天正16年(1588)閏5月14日(新暦で7月7日)に切腹

 

2015年12月1日、阪神尼崎駅の南側の寺町及び尼崎城跡を奥様と2人で
散策しておりブログを作成していますので最終回のブログにリンクしておきます。

阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その11(最終回・完) 尼崎城跡 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

法園寺にも訪問しています。(下記ブログ)

阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その5 法園寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 

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姫路藩 酒井家筆頭家老「高須隼人 屋敷跡」現在の「家老屋敷跡公園」見学記 on 2022-4-27 

2022年05月07日 03時53分29秒 | 神戸市以外の兵庫県

姫路城大手門の南に家老屋敷跡公園があります。かっては姫路藩筆頭家老の高須隼人が

屋敷を構えていた土地を整備した公園です。

現在は観光客相手の飲食店、土産物店が建っており「いの屋敷」「ろの屋敷」「はの屋敷」

「にの屋敷」の4棟に分かれています。

2022年4月27日に家老屋敷跡公園に寄り現地説明板などの写真を撮ってきましたので紹介します。

上の写真は家老屋敷跡公園の遠景です。

上の写真は現地説明板の文章部分です。解かりずらいのでそのまま転記しておきます。

姫路藩 酒井家家老(ひめじはんさかいけかろう) 高須隼人 屋敷跡(たかすはやとやしきあと)
 高須家は、酒井家中で家老職を務める家柄です。江戸時代末期には三千石の知行(ちぎょう)

があり、当主は代々「隼人」を名乗りました。
 高須家の屋敷地は、中ノ門から大手門に向かう大手門筋と大名町の通りが交差する個所の北西角に一します。屋敷地は東西約百三十五m・南北約七十五mの広さがありました。大手門筋は屋敷のところで鉤(かぎ)の手状(てじょう)に曲がっているため、中ノ門から大手門筋を城に向かうと、正面に高須家の長屋門(ながやもん)が目に入ります。
 この門は史料から推測すると、敷地の東端から西端におよぶ長大な建物で、石積基壇(いしづみきだん)の上に建てられていました。その外観は、瓦葺(かわらぶき)の漆喰塗籠(しっくいぬりごめ)です。また、他の絵図には東西の建物が三棟、南北の建物が一棟描写され、表書院(おもてしょいん)や奥向きの書院をもつ屋敷だったことが想像できます。さらに、立派な庭木が描かれていますので、庭園も備えた屋敷であったことがうかがえます。
 高須家の屋敷は、明治維新後撤去され、付近一帯は「城南練兵場(じょうなんれんぺいじょう)」として第二次世界大戦が終わるまで使用していました。そして戦後は、引揚者住宅等が建設されました。
 このたび公園整備に伴う発掘調査で、建物の礎石(そせき)・井戸等を確認し、屋敷の遺構が(いこう)が良好に残されていることが判明しました。

上の写真は姫路侍屋敷図の一部を抜粋したものです。 屋敷図の下には下記の文が記載。
上記「姫路侍屋敷図(19世紀初頃)」は姫路市立城郭研究室所蔵

前部の側面には下記の文が記載されています。
寄贈 姫路ライオンズクラブ
平成15年6月

家老屋敷跡公園の所在地住所は姫路市本町68-100

 Goo地図を添付しておきます

 

上の2枚の写真は家老屋敷公園の案内図

姫路藩の筆頭家老「高須隼人」について略歴を記載しておきます。

高須隼人は文化13年(1816)生まれ、没年は慶応3年(1867)10月23日に病死。享年51歳。

文久2年(1862)3月、姫路藩にも攘夷か開国かの議論が起こり、河合惣兵衛(宗元)らの

攘夷派と家老・高須隼人らの佐幕派に分かれます。元治元年(1864)頃までは尊攘派が

藩論の主導権を握っていた。

姫路藩主・酒井忠績(ただしげ)が老中首座になったことで、姫路藩では河合惣兵衛ら

勤王派藩士の過激な行動を快く思っていませんでした。高須隼人は藩主の意を汲み

尊攘派粛清の機会を狙っていました。そこで下に述べる「甲子の獄」を主導していきます。

元治元年(1864)2月、河合惣兵衛の子・河合傳十郎宗貞らが脱藩、すぐに捕らえられると

攘夷派の取り締まりが強まり、惣兵衛も捕らえられるのです。

元治元年(1864)12月26日、惣兵衛以下6名は切腹、2名は打ち首、6名は永久投獄、

のべ76名が処罰を受けました。この事件は「甲子(かっし)の獄」と呼ばれています。

これにより幕末の姫路藩は勤王派の勢力が一掃され佐幕派でまとまり沈静化しています。

譜代藩の宿命であるが明治新政府に姫路無血開城まではなんとかこぎつけたものの

姫路藩存亡の危機は続いていきます。

姫路城の存続危機を救った物語を下記ブログで書いていますので参照頂ければ幸いです。

 姫路城の恩人 北風家の第66代当主 北風荘右衛門正造貞忠(北風正造)と姫路城の危機 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 

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報道ランナー兵動大樹今昔さんぽで別府鉄道の別府口駅が紹介されました on 2022-4-15 

2022年05月06日 04時46分10秒 | 神戸市以外の兵庫県

本日は昭和59年(1984)に廃線となった別府(べふ)鉄道の別府口について、2022年

4月15日18時からの報道ランナー、「兵動大樹今昔さんぽ」で紹介されていましたので

レビューしたいと思います。

番組では1984年(昭和59年)に撮影された写真をもとにJR加古川駅前からスタート‼️ 

写真には列車と「さよなら別府鉄道」と書かれています。(下の写真)

上の写真は偶然出会った「代走みつくに」さんに写真を見てもらっている兵動大樹さん

上の写真は駅前の喫茶店で店主の山本賢さんから情報を得る兵動大樹さん

上の2枚の写真は上述の山本賢さんからの情報で多木肥料という会社があったとの情報を得る

別府(べふ)鉄道は日本の近代化に貢献した化学肥料の輸送に使用された鉄道です。

加古川市にある多木製肥所(現在の多木化学)は肥料王と呼ばれた多木久米次郎が

明治18年(1885)に作った会社で、骨紛などから人造肥料を製造販売していました。

山陽鉄道(現在のJR西日本、山陽本線)の開通に伴い鉄道で製品を配送する計画を立案し

大正4年(1915)7月5日、別府軽便鉄道を資本金14万円で設立。大正10年(1921)9月3日

野口線(3.6km)、大正12年(1923)土山線(4.0km)を開通させました。

その後、多木製肥所の構内に0.1km延長されました。昭和59年(1984)まで存続していた。

上の写真は別府鉄道沿線図 昭和21年(1946)頃

別府土山線と別府野口線に分かれています。

上の写真は昭和30年代まであった別府潮干狩海水浴場 別府鉄道の沿線であった

上の3枚の写真は別府鉄道に関する情報

上の3枚の写真も別府鉄道のありし日の情報

最後に山本賢さんから野口駅跡から遊歩道があるとの情報を得て遊歩道に向かう

上の写真は野口駅跡の場所を示したもの

上の写真は旧国鉄高砂線 野口駅跡付近を歩く兵動大樹さん

上の写真は旧別府鉄道跡の遊歩道

上の2枚の写真は遊歩道「松風こみち」と現地説明板

「松風のみち」の終点に別府鉄道(野口線)の気動車「キハ2号」の展示があります。

上の2枚の写真は現地の説明版

上の写真は「旧別府鉄道キハ2号を守る会」によって月1回実施される修復作業の様子

キハ2号のある位置から多木化学に移動するのですがその位置を示したもの(上の写真)

上の写真は多木化学の建物

上の写真は多木化学で応対した取締役上席常務執行役員の多木勝彦さん

上の2枚の写真は多木化学の創業からの歴史史料を集めた資料室を案内する多木勝彦さん

 

上の写真は多木化学の創業者の多木久米次郎 動物の骨などを化学処理して「骨粉肥料」を製造

上の写真は多木化学が多木肥料だった時代の工場周辺

上の写真は多木化学の工場と別府鉄道を1967年(昭和42年)の地図に描いたもの

上の写真は多木化学の資料室にある多木肥料の看板などの展示

次に創業者の多木久米次郎が迎賓館として建設した多木浜洋館(下の写真)が見学

できるとのことでここに出かける。

上の写真は案内してくれた多木学園(別府幼稚園)の多木寛子さん

多木浜洋館は昭和8年(1933)に完成。平成14年(2002)に国の登録有形文化財に指定。

壁や屋根が銅板で覆われています。

上の3枚の写真は多木浜洋館の内部見学

上の写真は案内者の多木寛子さんから播磨町の郷土資料館の情報を得る

上の写真は多木浜洋館と播磨町の郷土資料館の位置を示した地図。

上の写真は兵動大樹さんが写真を見せて播磨町の郷土資料館の館長の井上珠彦さんに説明

上の写真は写真がどこで撮影されたものかが判る写真が展示されている客車

上の写真がその写真で兵動大樹さん持参の写真が別府口駅であることが判明

列車はキハ101(1984年撮影)

そこで最終地点の別府口駅跡地に向かいます

上の2枚の写真は最終地点で写真を撮った場面と撮った写真

上の写真は昭和59年(1984)の写真と対比したもの 左手の建物(民家)が現存しています。

場所は別府鉄道の別府口駅跡地

 

上の写真は播磨町の郷土資料館の屋外展示の客車(ハフ5)の内部展示

撮影:2022-4-28に筆者撮影

上述の別府口駅の写真を除く写真を添付しておきます。

上の写真はキハ2と国鉄高砂線キハ06の連絡(1965) 撮影:2022-4-28

上の写真は6号機の牽引する記念列車(1965)  撮影:2022-4-28

上の写真は5号機の機まわり風景 別府港(P兼先、1965) 撮影:2022-4-28

上の写真はDB201とハフ7 別府鉄道土山線(1973) 撮影:2022-4-28

上の写真は別府鉄道の全駅の表示 撮影:2022-4-28

最後に筆者が以前に書いたブログ(下記サイト)関連事項を再掲載して筆を置きます

別府鉄道 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

蒸気機関車

上の写真は2013-6-28 NHKニュース神戸発の18:25頃 播磨町を
紹介した映像から採ったもの。

別府鉄道では5両の蒸気機関車が在籍しており写真の蒸気機関車は5号機

大正14年日立製作所が製造し昭和2年(1927)4月~昭和42年(1967)5月に走っていた

ディーゼル機関車

上の写真も2013-6-28 NHKニュース神戸発の18:25頃 播磨町を
紹介した映像から採ったもの。

写真の機関車はDC1351号で昭和32年12月汽車製造大阪製作所で作られ昭和45年(1970)

2月から昭和59年(1979)1月まで運行されていました。

客車はキハ2、ハフ2・4の3両

上の写真は播磨町郷土資料館の屋外展示の機関車DC302号(昭和28年川崎車輛製)で

昭和41年(1966)9月から昭和59年1月まで運行

客車はハフ5 撮影:2020-12-19

上の2枚の写真は播磨町郷土資料館の屋外展示の説明板からのディーゼル機関車

 

客車

上の2枚の写真は播磨町郷土資料館に展示の客車ハフ5の外観と車内

上の写真は客車ハフ5の説明文(現地説明板より)

 

別府鉄道の機関車一覧

上の写真は別府鉄道を走ってきた機関車一覧表

出典:播磨町郷土資料館が作製した資料

 

沿革

Wikipediaより沿革の年譜を引用させていただきます。

1911年(明治44年)10月18日 - 軽便鉄道免許状下付(加古川-別府間)[6]。
1913年(大正2年)
8月22日 - 軽便鉄道免許失効(指定ノ期限内ニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)[7]。
11月21日 - 軽便鉄道免許状下付(加古郡野口村-同郡別府村間)[8]。
1915年(大正4年)7月5日 - 別府軽便鉄道株式会社として設立[9][10]。
1920年(大正9年)1月29日 - 鉄道免許状下付(加古郡別府村-同郡阿閇村間)[11]。
1921年(大正10年)9月3日 - 野口線 野口駅 - 別府港駅 - 港口駅間が開業[12]。
1923年(大正12年)3月18日 - 土山線 別府港駅 - 新土山駅(のちの土山駅)間が開業[13]。
1932年(昭和7年)4月8日 - 瓦斯倫動力併用認可[9]。
1946年(昭和21年)4月2日 - 別府鉄道株式会社に社名変更。
1961年(昭和36年) - タクシー部門を設立。

  今は歩道として整備されている別府鉄道野口線跡
1984年(昭和59年)2月1日 - 野口線・土山線廃止、鉄道事業から撤退。
2009年(平成21年)11月 - 木下運輸株式会社と多木化学株式会社の合資により「別府タクシー株式会社」設立。
2010年(平成22年)1月 - 別府鉄道のタクシー事業・派遣事業・運行管理事業を別府タクシーへ譲渡。不動産管理事業部門のみ存続。
2012年(平成24年)10月26日 - 取締役会において多木化学の完全子会社化を決議[1]。
2012年(平成24年)11月29日 - 多木化学の完全子会社化の中止[14]。

 

播磨町郷土資料館の屋外展示の説明板

 

関連情報として別府鉄道 野口駅の古い写真についてひろかずのブログ2で紹介されていますのでリンクさせていただきました。

 野口町をゆく(48) 懐かしい野口の風景(7) 別府鉄道「野口駅舎」の写真が見つかりました - ひろかずのブログ・2 (goo.ne.jp)

同じくひろかずのブログ・2で別府鉄道 円長寺駅、坂井駅、野口製作所駅、野口駅の古写真についても紹介されていました。

 野口町をゆく(43) 懐かしい野口の風景(2) 別府鉄道「円長寺駅」 - ひろかずのブログ・2 (goo.ne.jp)

 野口町をゆく(42) 懐かしい野口の風景(1) 別府鉄道坂井駅 - ひろかずのブログ・2 (goo.ne.jp)

 野口町をゆく(47) 懐かしい野口の風景(6) 別府鉄道・野口駅 - ひろかずのブログ・2 (goo.ne.jp)

 野口町をゆく(45) 懐かしい野口の風景(4) 別府鉄道「藤原製作所前駅」 - ひろかずのブログ・2 (goo.ne.jp)

 

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兵庫県立考古博物館 春季特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」観覧記 on 2022-4-28

2022年04月30日 06時12分58秒 | 神戸市以外の兵庫県

播磨町にある兵庫県立考古博物館で春季特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」

が開催中です。開催要項は以下の通りです。

 開催日 :2022年4月23日(土)~2022年7月3日(日)
 開催場所 :兵庫県立考古博物館(加古郡播磨町大中1-1-1)
 開催時間 :午前9時30分~午後5時(入場は午後4時30分まで)
 定休日: 月曜日
 アクセス: JR土山駅南出口から「であいのみち」を徒歩15分
      山陽電車播磨町駅から喜瀬川に沿って徒歩25分
 料金: 大人 500円(400円) 大学生 400円(300円) (  )内は団体料金

    高校生以下無料  高齢者(70歳以上)割引あり
 問い合わせ先: 兵庫県立考古博物館
 TEL: 079-437-5589

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

私は4月28日に観覧しました。

上の2枚の写真は特別展の遠景

弥生時代や古代の世界に興味のある方は是非、ご観覧ください。

今回の特別展は大中遺跡が発見された1962年から60周年を記念して企画されました。

憶えの為、展示内容の概略を記しておきます。

展示は下記の4つの章から構成されています

第1章 弥生集落のイメージ  玉津田中遺跡

第2章 生まれ変わる弥生集落 日輪寺遺跡、手末遺跡、美乃利遺跡、西条53号墳

第3章 大中遺跡の盛行 大中遺跡

    トピック;大中遺跡の鉄器事情 大中遺跡、五斗長垣内遺跡、妙楽寺墳墓群

         百間川原尾島遺跡、奥坂遺跡、金谷1号墳、浅後谷南墳墓

第4章 大中遺跡とその時代 大中遺跡、五斗長垣内遺跡、妙楽寺墳墓群、栄根銅鐸、

             久田谷銅鐸、銅鐸破壊実験で砕いた構造銅鐸

    トピック;大中遺跡と鏡の広がり 大中遺跡、長慶寺山1号墳、森北町遺跡

             吉田南遺跡、鳥居遺跡、表山遺跡、玉津田中遺跡、新方遺跡、

             松本遺跡、鈩田遺跡、奥山遺跡

上の写真は会場入り口の大中遺跡の復元予想図を作図したもの(リーフレットの表紙と同じ)

上の2枚の写真は現在の大中遺跡周辺(手前は潰目池)の航空写真

上の写真は別府鉄道(1915年-1984年)が走っていた時代の大中遺跡周辺の地形図

昭和41年(1966)頃に撮影された写真です。

大中遺跡の概要

大中遺跡は兵庫県加古郡播磨町大中に所在する弥生時代後期から末期を中心とする集落跡を

中心とする遺跡です。昭和37年(1962)6月に地元播磨中学の生徒3人(浅原重利、

大辻真一、大辻要二)によって発見されました。

地形としては印南野台地端部で標高は12~14mに位置しています。

第1次の発掘調査は昭和37年(1962)12月25日から昭和38年(1963)1月15日に行われ

1号(SH0102 13.6㎡)と2号(SH0102 39.3㎡)の住居跡や土器、砥石、紡錘車などが

出土しています。以降これまで24次にわたる発掘調査が実施されています。

昭和42年(1967)6月22日には国指定の史跡になっています。

大中遺跡とその周辺の山之上遺跡・潰目池(つぶれめいけ)では旧石器時代から人々の

活動があったことがわかっており、旧石器時代のナイフ形石器や縄文時代の石鏃などが

出土したり採集されたりしています。古墳時代(4世紀から7世紀前半)になるとそれまでの

大集落は姿を消し、大中遺跡での人々の活動は縮小していきます。

竈(かまど)を持つ古墳時代中期の竪穴住居が数棟見つかっており、古墳時代中期や後期

にも人々が暮らしていたことがわかります。さらに後の中世にも、東播系須恵器甕をはじめ

とする土器などが出土し、掘立柱建物跡が見つかっており、その時期も人の活動があった

ことがわかっています。

 

上の写真は展示での大中遺跡の説明パネル

 


 


上の3枚の写真は大中遺跡に関する説明版です。

上の2枚の写真は大中遺跡と大中遺跡公園の環境整備に関する年表

上の写真は播磨町郷土資料館の展示

弥生時代の概説

弥生時代は2300年前から1700年前の約600年間であると覚えていましたが、
最近は佐倉市の国立歴史民俗博物館が2003年頃から提唱されている説で
500年くらい古い年代から弥生時代が始るということも言われています。

県考古博の展示では下記のように早期、前期、中期、後期・終末期の年代を規定。
また縄文晩期を弥生時代に入れるという説もあります。

  早期 2800年前~2600年前 

  前期 2600年前~2350年前

  中期 2350年前~2000年前

  後期・終末期 2000年前~1700年前

弥生時代全般について吉野ケ里歴史公園のサイトが面白いのでリンクさせていただきます。
    弥生ミュージアム (yoshinogari.jp)

 

弥生の名称についてWikipediaによれば
「「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)
の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来」
発見者は有坂しょう蔵、坪井正五郎、白井光太郎

出土した土器は東京大学総合研究所博物館に保管されています。(弥生時代終末期の土器)
東京大学の農学部と工学部の境に「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑がある

 

弥生時代の特色は以下のとおりです。
 -水稲耕作の開始
 -金属器の使用  鉄器:主に武器、加工具  青銅器:主に祭祀に使用
 -朝鮮半島系(大陸系)磨製石器(石斧、石包丁)の使用
 -機織り技術の導入
 -弥生土器の製作

さらに詳細は下記サイトで記載しています。

 兵庫県立考古博物館の2021年春季特別展「弥生時代って知ってる?」観覧記 on 2021-7-4 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

展示内容詳細

第1章 弥生集落のイメージ 

上の2枚の写真は神戸市西区の玉津田中遺跡の遺物の展示

上の3枚の写真は説明パネル

玉津田中遺跡の概要については下記ブログで書いています。

 玉津田中遺跡から弥生時代前期のお墓の跡見つかる - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第2章 生まれ変わる弥生集落 

上の写真は第2章生まれ変わる弥生集落の展示全景

上の4枚の写真は説明パネル

第3章 大中遺跡の盛行 

    トピック;大中遺跡の鉄器事情 

上の写真は大中遺跡の盛行の展示全景

上の写真は大中遺跡から出土の弥生時代後期後半の土器

上の写真は大中遺跡から出土の弥生時代終末期の土器

上の写真は弥生時代後期の土器(Ⅴ様式)と終末期(庄内式併行)の土器の特徴

上の写真は大中遺跡出土のイイダコ壺と土錘などの漁具の展示

上の写真は大中遺跡から出土の砥石、台石、異形土器、皿型土器、鏡形土製品、鳥形土製品

L字状石杵の展示

 

上の4枚の写真は説明パネル

上の5枚の写真は大中遺跡の鉄器事情の展示

上の写真は大中遺跡と弥生時代の鉄剣の説明パネル

 

第4章 大中遺跡とその時代 

    トピック;大中遺跡と鏡の広がり 

上の写真は第4章 大中遺跡とその時代の展示遠景

上の2枚の写真は五斗長垣内遺跡の弥生土器、砥石、台石、敲石(たたきいし)の展示と説明パネル

上の写真は旧練兵場遺跡の北部九州の展示

上の写真は旧練兵場遺跡の絵画土器の展示

上の写真は旧練兵場遺跡の弥生土器、鉄鏃・板状鉄斧・ヤリガンナ・ヤスの鉄製品、

勾玉・管・ガラス小玉などの玉類、小形仿製鏡・破鏡、銅鏃、銅鐸片の展示

 

上の写真は旧練兵場遺跡の説明パネル

 

上の写真は2本柱の竪穴住居の説明パネル

上の写真は栄根銅鐸(複製品)の展示 原品は東京国立博物館蔵

上の写真は豊岡市の久田谷銅鐸(右)と銅鐸破壊実験で砕いた模造銅鐸(左)

上の写真は銅鐸時代の終焉に関する説明パネル

上の2枚の写真は破鏡と鏡に関する展示

上の2枚の写真は小形仿製鏡に関する展示

 

上の写真は大中遺跡と破鏡・小形仿製鏡の説明パネル

 

大中遺跡をもっと詳しく

上の写真は竪穴住居の移り変わりの説明パネル

上の写真は大中遺跡と山之上遺跡で見つかった竪穴住居跡のパネル

 

中途半端な記事となってしまいましたが出掛ける時間となってしまいましたのでこのへんで

投稿します。

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明石市魚住 住吉神社の藤が見頃です on 2022-4-27

2022年04月28日 03時53分01秒 | 神戸市以外の兵庫県

2022年4月27日、姫路に出かけた帰りに山陽電車の魚住で下車し住吉神社の藤棚を

観覧してきましたので写真紹介します。

魚住住吉神社へは過去、2012年10月17日と2012年11月21日の2度訪問していますが

ブログ記事を書いていないので住吉神社の概要も纏めていきます。

まず、藤棚の写真を添付します。

上の7枚の写真は色々な角度から撮った藤棚です。

上の写真は藤棚に関する現地説明板です。

神木 祓除の藤(はらいのふじ)の由来

古昔摂津の堺に祀られた住吉大神があるとき「播磨の国に渡り住はむ、藤の枝の流れ着いた

ところに我をいわい祀れ」とお告げを出された。そこで藤の大枝を切って海に浮べた藤は

当地方に流れ着いたので明石郡魚次浜一処(現在の魚住町と大久保町南部)を神領地と定められて

当神社がお祀りされました(住吉大社神代記より)住吉大神はお祓いの御神徳を有せられる

神様であり藤は住吉大神の神木であります。この藤は明治中期頃に中尾村 西海音助宮総代が

名木を探して献樹したものである。

上の写真は藤の花を題材とした歌碑

上村孫作の歌碑(アララギ派歌人)

「藤の下潮の香さして 降りゆけば家島 つばらに赤穂の崎も」

2022年の開花状況と住吉神社についてYoutubeで紹介されていましたのでGoode共有させていただきました。

2022年4月22日撮影 住吉神社の藤棚 もうすぐ見ごろ

 

ここから、魚住住吉神社の境内紹介に移ります。

魚住住吉神社の基本情報

住所:明石市魚住町中尾1031 TEL:078-946-0417

御祭神:底筒男命(そこつつのをのみこと)、中筒男命(なかつつのをのみこと)、

   表筒男命(うはつつのをのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)

創建:雄略天皇8年(464)4月初卯月

年中祭事:

公式サイト:明石市魚住鎮座 住吉神社 - 住吉神社 ホームページ (sumiyoshijinjya.com)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

 

現地説明板

 

本殿

上の写真は拝殿の右側面から撮った本殿

上の写真は拝殿の左側面から撮った本殿

 

拝殿

上の2枚の写真は拝殿の正面と右側面

 

社務所

 

手水舎

 

能舞台

上の写真は能舞台の遠景

正面からは人の写真が写るので避けました

上の写真は能舞台の現地説明板

上の写真は能舞台での能奉納 2012年10月17日撮影

上の写真は2012年10月17日撮影の能舞台内写真など

上の写真は裏側から観た能舞台

楼門(神門)

上の写真は海側から観た神門

上の写真は境内側から観た神門

上の2枚の写真は神門の中にある御神像

上の2枚の写真は神門内の狛犬

上の写真は楼門の現地説明板

山門

摂社

上の写真は拝殿の左側の摂社

上の写真は海側の鳥居の横にある摂社

上の写真は藤棚の近く(西側)の摂社

境内灯籠と拝殿改築記念碑

 

海側鳥居からの遠景

 

万葉歌碑

神亀3年(726)、聖武天皇行幸の折、笠朝臣金村がこの地で詠んだ歌が記されています。

往きめぐり 見とも飽かめや 名寸隅の 船瀬の浜に しきる白波

常夜燈

 

入口看板

 

住吉神社の周辺図

上の写真は2012年10月17日に撮影した魚住住吉神社の周辺図です

上の写真は山陽電車魚住駅周辺の地図

 

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盲杖桜 in 人丸山柿本神社 on 2022-3-15

2022年04月03日 05時55分50秒 | 神戸市以外の兵庫県

柿本神社の拝殿の右手前に玉垣で囲まれた若木の桜があります。

この桜は盲杖桜(もうじょうざくら)と呼ばれる有名な「昔話」が伝承されています。

2022年3月15日に人丸山の柿本神社を訪問し写真を撮ってきましたので紹介します。

上の写真が盲杖桜の全景。

上の写真は昔からある盲杖櫻の石碑

盲杖桜の言い伝えられている内容を簡単に記します。

 むかし柿本神社に、九州の筑紫の国からある盲人が参篭して、目が見えるようと祈った。

十七日間、人麿の塚に籠り満願の日に下記の歌を詠んだ。

 「ほのぼのとまこと明石の神ならば、ひと目は見せよ、人麿の塚

すると一瞬だけ目が開いたが、喜びは束の間ですぐに閉ぢた。「ひと目は」の文句が

悪かったのだと思ひ、再び七日間籠って歌を詠み直しました。

今度は「ほのぼのとまこと明石の神ならば、我にも見せよ、人麿の塚」と詠むと

すっかり目が明きました。目が見えた喜びは天にものぼるここちです。もう杖にすがって

歩く必要がありません。もはや不要となった杖を、社前に突き刺して筑紫へ帰って行った。

杖は桜の枝で作られてゐた。すると、あくる年の春、その杖から芽が吹き出して一本の

サクラとなり、花が咲き実がなるようになりました。このサクラはどんどん大きくなり、

のとの世まで「盲杖桜」として知られるようになりました。

明石城がまだできていない頃の昔話です。

このはなしの舞台になっている人麿の塚(人丸塚)現在の明石城本丸の位置にありました。

 

上の写真はげんちの説明板です。その内容をそのまま転記しておきます。

盲杖桜(もうじょうざくら)

昔ひとりの盲人が九州からこの社に詣でて

ほのぼのとまことあかしの神ならばわれにも見せよ人丸の塚

と詠じるとたちどころに両眼がひらいて物を見ることができるようになった

その人は光明を得たよろこびのあまり社前の庭に桜の杖を献じて去って行った

やがてその杖に枝が生じ葉が茂って春になると花を咲かせたので

これを盲杖桜と名づけて後の世に伝えたものである

最後となりましたが柿本神社の基本情報を添付しておきます。

柿本神社の基本情報
住所:明石市人丸町1−26 TEL:078-911-3930
主祭神:柿本人麻呂朝臣  創建:伝・仁和3年(887) 
境内社:五社稲荷社、天神社(菅原道真公)、三宝荒神社(竈神)
元和6年(1620)明石城築城にあたり楊柳寺(後の月照寺)と共に現在地に遷座

887年和歌を好んだ楊柳寺(後の月照寺)の覚証和尚が寺の背後に柿本人麻呂を祀る祠を
建立したのが柿本神社(人丸社)の始まり。

公式サイト:柿本神社 - 明石市 (kakinomoto-jinja.or.jp)

 

全般の訪問記にリンクしておきます。

 柿本神社のロウバイと梅 on 2019-1-27 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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明石市の雲晴寺への訪問記 on 2021-3-7

2022年03月21日 18時15分22秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年3月7日に訪問した明石市の雲晴寺(うんせいじ)を写真紹介します。

雲晴寺の基本情報

住所:明石市人丸町5−23 TEL:078-911-6460

宗派:曹洞宗 山号:月江山 御本尊:釈迦牟尼佛

開山:寛永16年(1639)能山侃藝大和尚

公式サイト:曹洞宗 月江山 雲晴寺(兵庫県明石市) (unseiji.or.jp)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

上の写真は雲晴寺の山門から観た本堂の遠景です。

昭和20年(1945)の空襲で山門以外が全焼し、宮本武蔵作と伝えられる庭も埋まって

しまいましたが、平成18年(2006)の発掘調査で庭の一部が発見されました。

上の写真は雲晴寺の由緒などを記載した現地説明書です。

読み難いのでそのまま転記します。

雲晴寺 -その成立と概要-

宗派・・・曹洞宗(そうとうしゅう)
山号・・・月江山(げっこうざん)
本尊・・・釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)
雲晴寺は慶長十八年(一六一三)に本堂がわら葺きから瓦葺きに葺き替えられたと伝承されています。 この年が雲晴寺の開基とされています。このずっと以前から、ここに寺院(現在のところ寺院名・宗派不詳)があって、それが雲晴寺の開山に利用されたことがわかっています。開基は信濃国出身の「牧野家」と伝えられています。
寛永十六年(一六三九)明石藩主大久保忠職公とその姉桃源院(東丸さま)が南総里見八犬伝のモデルとなった里見忠義公の菩提を弔うため、雲晴寺の伽藍を整備し寺領を増やし、加納(岐阜県)より能山侃藝大和尚(当寺開山)を招き供養されました。里見忠義公の戒名は 雲晴院殿心叟(窓)賢凉大居士と授けられました。
天和二年(一六八二)に越前松平より入封の藩主松平直明公は、義理の母で松平直良公(直明の父で徳川家康の孫)夫人清光院(豊姫さま)の位牌を当山に納めて永代供養を願い、清光院の実家である本多家の「丸に立葵」の家紋を与え当山の寺紋となりました。
雲晴寺は代々の藩主より寺領の保証や土地の寄附を受け、墓地の拡張などの整備が進められていくようになります。越前松平家の家老職を代々務めた「織田家」「津田家」や多くの藩士たちの菩提寺になり、墓地に眠る石塔がそれらの人たちの歴史を物語っています。戦前は鐘楼堂、奥の院、茶室、坐禅堂など伽藍が整った広大な寺領を持つ寺院でありました。
本堂裏には戦前まで宮本武蔵作の庭がありましたが、昭和二十年七月の大空襲にて、当山は山門を残して全焼し、庭も戦後の復興事情により埋められてしまいました。平成十五年本堂建設に伴う発掘調査により庭園の一部が見つかり復元。その後武蔵の孫弟子にあたる柴任三左衛門(固岳道隨居士)と夫人の墓石が発見されたことでも、武蔵ゆかりの寺院であることが言えます。
又、初代内閣総理大臣、伊藤博文(伊藤俊輔)は慶応二年(一八六六)、譜代大名松平氏が治める明石藩の動静を探るためこの地に派遣され、その当時の住職が長州藩の武士出身だった縁で当山に滞在し、その住職によって、手塚又右衛門の馬丁として潜り込まされました。つまり間者であります。この年に起こった第二次幕長戦争(長州征討)に、幕府方の明石藩も出兵していたため、今後の動向を探る上でも伊藤の役目は重大であったと言えます。
現在の雲晴寺は、二十五世悟道幸雄大和尚が平成四年に山門修復と客殿建設、平成十六年に本堂を再建し、戦災復興から立ち上がり、その意思を引き継ぐ第二十六世悟照幸導大和尚が、令和二年に仁王門を建立、歴史を守りながら、坐禅会や縁結び行事なども積極的に行い、人々に寄り添うお寺を目指しています。

本堂

上の3枚の写真は本堂

現在の本堂は平成16年(2004)に再建されたもので、御本尊は釈迦牟尼佛如来像が

安置されています。

山門と金剛力士像

上の3枚の写真は山門と金剛力士像

上の写真は山門(仁王門)と金剛力士像(仁王像)の現地説明板

そのまま転記しておきます。

山門(仁王門)

昭和二十年七月七日の大空襲により、雲晴寺の伽藍で唯一残ったのが中央の山門です。この山門は元禄十三年(一七〇〇)に当山第四世玉盤工雪大和尚により再築されました。その後享和年間(一八〇一~一八〇三)に第十二世魯山黒龍大和尚が補修を加えられました。
このことは第十七世覺巌實明大和尚が山門の棟板に記されており、第二十五世悟道幸雄大和尚が平成四年に山門修復された時に発見されました。(平成の修復以前の山門はもう少し高さが有り、扉が閉まる造りでした)
戦災により多くの宝物や重要書籍などが焼けてしまったなかで、数少ない大切な資料であります。歴史が移り変わるなかで、ここに立ち続ける山門は雲晴寺の歴史を脈々と感じられます。

金剛力士像(仁王像)

両側の金剛力士像は、令和二年(二〇二〇)の建立で、お寺の繁栄を願う第二十六世悟照幸導大和尚に共感された施主様が、両親の供養の為、住職の晋山結制式に合わせて寄進されたものです。
従来の山門も補強され、仁王門として改修されました。(新型コロナウイルス感染症の流行により式は令和三年に延期)

里見忠義公の供養碑

上の写真は里見忠義公の供養碑(1番手前)

上の写真は里見忠義公の墓碑の背後にある夫人(桃源院と娘(圓光院)の墓碑

墓碑には里見忠義公の夫人で大久保忠職の姉(戒名は桃源院殿仙應壽大姉)の戒名と

里見忠義公の娘の豊後国日出藩立石領主木下延由人(戒名は圓光院殿寶月貞璃大姉

の戒名が刻まれています。

夫人の没年は明暦元年乙未(1655)8月晦日

娘の没年は慶安3年庚寅(1650)正月20日

上の写真は「里見安房守忠義」供養碑の現地説明板 現代字に直して転記

「里見安房守忠義」供養碑

雲晴院殿前拾遺心賢涼大居士元和3年6月19日没里見安房守忠義の墓所は鳥取県倉吉市の

大岳院にあり、法名は「雲晴院殿前拾遺心賢涼大居士」没年月日は「元和8年(1622)6月19日」

である。忠義が徳川幕府に対する「謀反人」とされたため法名の文字と没年が故意に

変えられている。里見安房守忠義は、安房国(千葉県)館山12万石の藩主であったが、

慶長19年(1614)大久保長安、大久保忠隣事件との関連により、幕府への謀反の嫌疑をかけられ、

無実を訴えたが聞き入れられず螯居、改易された。

伯耆国(鳥取県)倉吉に移された忠義は、元和8年(1622)6月19日に無念のうちに亡くなり、

これにより関東の名門里見家は断絶した。忠義29歳であった。この時、忠義の家臣

八人が殉死して、「八賢士」と呼ばれている。滝沢馬琴作の「南総里見八犬伝」は、

この里見家断絶とその家臣をモデルにした物語である。大久保忠隣の孫で、第4代

明石藩主大久保忠職の姉は里見忠義に嫁いでいたが、忠義が亡くなると弟忠職の元で

夫里見忠義の菩提を弔っていた。大久保忠職は寛永16年(1639)に明石藩主となると

前任地である美濃国(岐阜県)加納の久運寺から能山侃藝和尚を伴って来て、姉と共に

里見忠義の供養のため当地にあった寺院を忠義の法名に因んで「雲晴寺」と名付け安堵した。

碑の背後には、里見忠義の夫人とその娘の法名が刻まれた石碑があり、里見忠義親子3人の

供養を当「雲晴寺」で行っていたことがわかる。

桃源院殿仙應壽大姉(夫人)          圓光院殿寶月貞璃大姉(娘)

 明暦元年乙未(1655)8月晦日         慶安3年庚寅(1650)正月20日

 里見忠義公の夫人で大久保忠職の姉    里見忠義娘 豊後国日出藩立石領主木下延由人

        平成13年(2001)6月吉日

        当山二十五世 悟道幸雄 謹書

里見忠義夫人(桃源院)は、夫忠義の33回忌にあたる承応3年(1654)に、高野山奥之院

近くに忠義のために五輪塔を建てました。雲晴寺に現存する里見忠義の石碑もこの時に

建立されたとみられます。雲晴寺には里見忠義夫人(桃源院)、里見忠義娘(圓光院)の

供養塔もあります。また高野山にも1652年に圓光院の供養塔が、1661年に桃源院の供養塔

がそれぞれ建てられ、里見忠義親子の供養塔が並んで建てられています。

柴任重矩(しばとうしげのり)と岩の墓

柴任重矩は宮本武蔵の孫弟子です。

柴任重矩(しばとうしげのり)と岩の墓碑の現地説明板 現代語に直し転記

柴任道隋重矩と岩の墓碑

柴任道隋重矩は、宮本武蔵の兵法二天一流の三代目である。本姓は本庄氏、名は三左衛門、

美矩とも記されている。号は国岳道隋。

(二天一流系統)

宮本武蔵(祖)-寺尾孫之丞-柴任重矩-吉田実連-丹治峯均 系統上では孫弟子にあたるが

武蔵在命中に熊本にいたことから、宮本武蔵伝記書の中でも最も古い「兵法大祖武州玄信公伝来」

は、この柴任重矩からの聞き書きによるところが多いとされている。承応2年(1653)熊本にて、

寺尾孫之丞より二天一流免許と「五輪書」の相伝を受けた。その後福岡黒田家、大和郡山

本多家(本多政勝)、明石本多家(本多政利)、姫路本多家(本多忠国)に仕え、武蔵の兵法を指南した。

特に本多政利時代の延宝8年(1680)には、明石において吉田実連に二天一流を免許し、

「五輪書」を相伝している。妻の岩は、大和郡山本多家の家臣大原惣右衛門の妹である。

重矩と岩の間には子はなかったため、岩の実家大原家から養女を迎え、明石松平家の家臣で

郡代や奉行職を勤める橋本七郎兵衛と縁組した。姫路本多家を最後に隠居剃髪した重矩は、

この娘婿を頼り、再び明石に移り住む。

重矩の隠居所には明石藩主松平直常が度々立寄っていて隠居後も丁重な待遇を受けていた

と思われる。元禄15年(1702)10月18日に岩が亡くなり、宝永7年(1710)8月20日に重矩が

85歳で亡くなった。宮本武蔵が庭を作ったという伝承がある当寺に葬られたのは、

重矩の師を慕う心を考えてのことであろう。この二つの墓碑は頂部の形状から、

以前は笠を伴っていたと考えられる。

    当山25世 悟道幸雄謹書 平成21年(2009)3月吉日

 

宮本武蔵作庭(復元)

初代明石藩主、小笠原忠真は元和4年(1618)年より明石川東岸に新しい城と城下町を建設しました。
雲晴寺は、この時建設された明石城武家屋敷の東側、「大蔵門」の東に位置し、周囲の三ヶ寺とともに、城下町東部における寺町を形成していました。
この明石の城下町は小笠原忠真の客分であった宮本武蔵が設計し、城内の庭園設計も行ったことが記録に残っています。

雲晴寺にも武蔵作のひょうたん型の池を伴う庭園がありましたが、戦争の爆撃により傷んだ庭は戦後の復興事情により埋められてしまいました。しかし、平成15年(2003)の新本堂建設に伴う発掘調査により、池の一部と「護岸を伴う島」の一部、その島へ渡るための「石橋」が確認され、広い庭園であったことが明らかとなりました。現在は元の庭をいかしながら復元されています。

上の写真は宮本武蔵作庭と幸運稲荷堂(後出)の遠景

幸運稲荷堂

平成7年の阪神大震災にて倒壊し、平成8年に新しく落慶された稲荷堂です。訪れる皆様に幸福が訪れますようにと、幸運稲荷と名付けられました。
愛知県豊川市にある通称豊川稲荷で親しまれる妙厳寺より分霊されました鎮守・豊川吒枳尼真天(とよかわだきにしんてん)をお祀りしております。

地蔵菩薩像(子宝地蔵)と六地蔵

上の2枚の写真は地蔵菩薩像(子宝地蔵)と六地蔵

現地の説明板より「正面の地蔵菩薩様は花崗岩製で、高さ1.5mの舟形光背面に浮彫され、

左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。これは江戸時代前期のもので、地蔵菩薩像として

非常に貴重なものです。子宝地蔵としても親しまれており、子宝の御縁を結ぶといわれる

お地蔵様です。地蔵真言は おん か か か び さんま えい そわか」

永代供養墓

 

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播磨町 material cafe (マテリアル カフェ)でのランチ on 2022-3-3

2022年03月04日 15時37分33秒 | 神戸市以外の兵庫県

2022年3月3日、播磨町のマテリアル・カフェで頂いたランチを写真紹介します。

初訪問のお店です。

material cafe (マテリアル カフェ)の基本情報

住所:兵庫県加古郡播磨町南野添2丁目6−9 TEL:079-490-2083

営業日:ランチは木曜~土曜のみ営業 Cafeタイム11:30~17:00

    Barタイムは月曜~土曜に営業  Barタイム17:00~22:00

休業日:日曜日、祝日

関連企業:セイエイカン(和歌山おでんと焼酎専門店)

特色:紅茶と梅酒  Tea and Umesyu

開業年月日:2021年4月21日

公式サイト:Tea and Umeshu | Materialcafe | 播磨町 | カフェ、飲食店、バー

公式Instagram:Tea and Umeshu material cafe(@materialcafe_harima) • Instagram写真と動画

食べログ:Tea and Umeshu material cafe (ティー アンド ウメシュ マテリアル カフェ) - 播磨町/カフェ | 食べログ (tabelog.com)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

当日いただいたランチの内容

上の写真は週替わりのマテリアルランチ 全体写真 990円(税込)

上の写真は当日の週替わりランチの中身

上の写真は淡路産の玉ねぎを使用したスープ

上の写真は右上より黒豆の煮かた、右下は、ひと口豆腐 中華ソース掛け、左上は

ネギのザーサイのサラダ、左下は紅茶鴨の紅茶ソース和え

 

上の写真はチーズちくわの肉巻き サラダ盛り合わせ ハニーマスタードソース、

 

上の写真は店頭の看板に掲げられたランチ時のメニュー表

週替わりのランチの他にエッグワッフルプレート 880円(税込)があります。

上の2枚の写真はメニュー表に掲載のランチメニュー

上の写真は当日、デザートとして注文したチーズケーキ440円(税込)とホットコーヒー385円(税込)

上の2枚の写真はメニュー表に掲載のデザートメニューとセットドリンク

上記以外のメニュー表

上の写真はハーブティー 770円(税込)のメニュー表

上の写真はTea(紅茶)660円(税込)のメニュー表

お店からのPR

 

梅酒の棚

 

店内の写真

上の写真は店内の椅子席

上の写真はお店の猫のロゴ集 梅酒の種類も掲示

上の写真の奥には子供達にも居心地の良いスペースがあります。

2021年11月25日に撮った写真

上の写真はお店の外観

上の2枚の写真は店頭の看板

 

最後にマテリアルカフェについて詳しく記述されているブログにリンクし、筆を置きます。

マテリアルカフェ(兵庫県加古郡播磨町南野添) | 播磨のランチ~大衆食道しまや~ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

 

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播磨町散策記 on 2021-11-25 その13(最終回) 無量壽院

2022年03月01日 05時04分07秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年11月25日、播磨町を散策してきました。東本荘の庄屋であった梅谷家の4代目当主

梅谷七右衛門清政(1683-1762)の足跡を辿るというのが今回のメインテーマでありました。

本日はその第13回(最終回無量壽院を写真紹介します。

これまで12回にわたり巡ってきた場所の写真を紹介してきました。本日はその最終回で

梅谷七右衛門清政が妻の死を悼んで建立した「三界萬霊地蔵尊」をはじめ清政所縁の

無量寿院を紹介してこのシリーズを閉めたいと思います。

無量寿院の表記は正しくは無量壽院が正式名だと思いますがここからは簡易的にこちらを

採用して書いていきます。

参照資料

 1)「歩いてみよう播磨町の歴史」を編集する会・編『播磨町の歴史』(2005)

 2)現地説明板

 3)令和3年度 播磨町郷土資料館 特別展「梅谷七右衛門清政と播磨町の先覚者たち」

過去の記事

 第1回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その1 播磨小学校のクスノキ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その2 新聞の父濱田彦蔵の碑 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第3回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その3 金泉寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第4回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その4 魚介類供養塔 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第5回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その5 妙智山 少林寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第6回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その6 阿閇神社 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第7回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その7 清澄稲荷神社 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第8回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その8 蓮花寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第9回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その9 大歳神社 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第10回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その10 上の池 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第11回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その11 お好み焼き夢工房でのランチ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第12回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その12 野添大西の塞の神 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

無量寿院の基本情報

住所:兵庫県加古郡播磨町西野添3丁目8−16 TEL:078-942-3866

宗派:高野山真言宗 山号:光明遍照山 

御本尊:無量壽如来(阿弥陀仏)7世紀中頃、高羅の仏工の稽主勲の作

開基:弘法大師(空海 774~835) 

再興:覚鑁(かくばん)上人(興教大師)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

現地説明板

 

本堂を中心とした境内

上の写真は本堂の遠景

 

上の写真は大門から観た無量寿院の遠景

 

無量寿院は真言密教道場で播磨国に末寺53ヶ寺を持つ中本山でした。

明治期の廃仏毀釈の試練により末寺の吸収や寺院合併を経て現在に至っています。

通称、野添の大寺と呼ばれ親しまれています。高禅寺と呼称する場合もある。

 

上の写真は明治8年(1875)頃の無量寿院の伽藍配置 出典:2)現地説明版より

真言宗の寺ということで大師堂、護摩堂、鬼堂、弁天堂などが特徴的

上の写真は大寺の明治初期までの寺領 出典:2)現地説明版より

 

無量寿院境内の梅谷七右衛門清政関連遺構

 三界萬霊地蔵尊

 

上の写真は一番右の三界萬霊地蔵尊をはじめとする石造品

 

上の写真は三界萬霊地蔵尊のアップ

三界萬霊地蔵尊は寛保3年(1743)、梅谷七右衛門清政が60歳の秋、庄屋で魚問屋で財を

成していたものの普段から質素な生活を共にしてきた愛妻を失ったので信仰の篤い

清政は妻の霊を慰めるため、三界萬霊地蔵尊を無量寿院に寄進しました。

 

宝篋印塔

上の写真は梅谷七右衛門清政が寛延2年(1749)に奉納した宝篋印塔(一番右手)です

この年が寛延の大一揆が一夜にして終息を迎えた年月と一致するため、「魚介類供養塔」

と同様、両者の関連がいろいろと想像されています。

寺伝による阿弥陀如来及び寺の由緒

 この項は1)の『播磨町の歴史』Page64に説明がありますので引用紹介します。

 寺伝には本尊・無量壽如来(阿陀如来)は、第37代の孝徳天皇の時代(7世紀中頃)

 高麗の仏師が作ったと言われています。この尊像は、播磨国明石郡西島村(現在の

 明石市大久保町西島)の六郎右衛門の家に伝わっていたものである。その尊像が、

 岩光(いわみつ)へ行きたいとたびたび言ったので、六郎右衛門はついに尊像を

 背負って岩光村へ行った。現在の野添地区は「岩光」と呼ばれていた。

 ここは、弘仁年中(810824)に弘法大師が播磨国に同歴の時に立ち寄った所で、

 老松が茂り岩は苔むし、深林中に忽然と光明を放つ岩があり、この霊験によって、

 大師はここに草庵を造りました。これよりこの地を岩光といいました。大師が草庵を

 作ってからも長い間荒れていた。その後に覚鑁(かくばん)上人が、当地に来て、

 この不思議な話を聞き、康和5(1103)に梵宇(寺院)を修造し、光明遍照山無量壽院

 と言うようになりました。それ以後、寺は繁栄し、真言密教の道場となり、修業僧で

 にぎわったといいます。

 

本堂前の石燈籠

上の写真は本堂と本堂前です。 
 この石燈籠は、1)の『播磨町の歴史』Page52に説明がありますので引用紹介します。
 ・・・本堂前には石灯籠があります。寛文4(1664)の銘があり、播磨町でもっとも

 古い石灯籠である。石灯籠は仏堂や社祠に献灯するための器具で、照明用ではない。

 いずれも正しい規格をもち、下から基礎、竿、中台、火袋、笠、宝珠の各部で

 構成されてる。無量壽院の石灯籠は、竿が四角柱状になっているのが特徴です。

 古い石塔類の部を再利用したのかもしれません。

 

弘法大師の石像

本堂の西側(左側)には石造りの弘法大師像があります。(上の2枚の写真)

石像の下部には下の写真のような文章が刻まれています。

 

手水舎

新四国八十八ケ所霊場めぐり

上の3枚の写真は境内の四国八十八ヶ寺めぐり

 無量寿院の墓地の中に八十八ヶ寺を模した88の仏があります。

 無量寿院のこれらの八十八ヶ寺の仏をめぐると、四国八十八ヵ寺を巡るのと同じ功徳が

 あるとされています。
 
 

  中世の版木5
Img
 

上の写真は野添の大寺の縁起を刻んだ版木

上の写真は版木の訳文 出典:1)の『播磨町の歴史』Page55

以下の文章は1)の『播磨町の歴史』Page54からの要約引用です。

江戸時代の歴史書である『播磨鑑(はりまかがみ)』(宝暦12年・1762年)によれば、

「無量壽院が建立されたのは、平安末期と言われ、光明遍照山高禅寺、真言宗、

寺領30石で無量壽院といい、高野山無量壽院の末寺である。また、本尊は、阿弥陀如来で、

境内5丁四方あり、竹やぶや木が繁茂していいました」と記しています。

この無量壽院には、播磨町の平安時代から中世を語る貴重なものがあります。

播磨町指定文化財の、版木『理趣経(りしゅきょう)』と『播州賀古郡野添村

光明遍照山無量壽院本尊略縁起』です。版木とは、木版用の刷り板のことで、この版木は、

文明19(1487)の銘の入った『理趣経』の4(8)と『本尊略縁起』1枚と合わせて5枚です。

5枚とも厚いサクラの一枚板に文字が彫り込まれています。

『理趣経』は、密教独特の経文で悟りの真実の知恵を説いたもので、『本尊略縁起』は、

無量壽院について、古代からその当時までの口碑や記録を要約したものが、それぞれ

彫刻されています。いずれも、中・近世の仏教史を知る上で貴重なものです。

この版木で刷られたものは、この寺で修行していた多くの僧侶に配布され、読経され、

また、野添の人びとやお参りに来た人びとに手渡されたことであろう。

 

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