CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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播磨町散策記 on 2021-11-25 その8 蓮花寺

2022年02月23日 04時59分20秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年11月25日、播磨町を散策してきました。東本荘の庄屋であった梅谷家の4代目当主

の梅谷七右衛門清政(1683-1762)の足跡を辿るというのが今回のメインテーマでありました。

本日はその第8回蓮花寺を写真紹介します。

蓮花寺は梅谷七右衛門清政が正徳2年(1712)に再建し、本堂を修復しています。

また、清政は32歳で亡くなった息子、孟政の供養のため蓮花寺に供養塔を建てています。

蓮花寺は播磨町生まれの偉人として有名なジョセフ・ヒコが両親の為に建てた英文の

墓があることで有名です。

過去の記事

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 第5回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その5 妙智山 少林寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第6回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その6 阿閇神社 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第7回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その7 清澄稲荷神社 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

蓮花寺の基本情報

住所:兵庫県加古郡播磨町北本荘7丁目1−33 TEL:079-437-8615

宗派:高野山真言宗 山号:青雲山 御本尊:阿弥陀如来

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

 

上の2枚の写真は梅谷七右衛門清政が32歳で亡くなった息子、孟政の供養のため建立した供養塔

(宝篋印塔)山門の前横にあります。孟政は延享5年(1748)2月に没した。

以下の文章は令和3年度播磨町郷土資料館特別展「梅谷七右衛門清政と播磨町の先覚者たち

の資料からの引用です。

清政は跡継ぎの男子には恵まれませんでした。梅谷七右衛門孟政(以下「孟政」)は8番目に生まれた男の子でした。それまでに生まれた7人のうち、6人までが女の子、残る1人の男児は満3歳で亡くなりました。したがって孟政が清政にとって希望の星であったことは想像に難くないことでした。孟政は元禄8年(1695)の火事で焼失していた地蔵堂と地蔵菩薩立像を再建・修復しましたが、そのわずか2年半後の延享5年(1748)2月、32歳の若さで亡くなりました。残された父親、清政の悲しみがどんなに深かったか、察するに余りあります。彼は蓮花寺に孟政のための供養塔を建て、菩提を弔いますが、2年後の寛延3年(1750)、地蔵堂の境内に魚類成仏の供養塔として立派な宝篋印塔(魚介類供養塔)を建てて魚類の霊を慰めました。或いは息子の若死にが、自分たちの魚類殺生の祟りとでも考えたのではないでしょうか。

上の2枚の写真は蓮花寺の本堂と「青雲山」と書かれた本堂の扁額

梅谷七右衛門清政が荒廃していた蓮花寺の再建を檀家の人達に呼びかけたのは

享保17年(1732)の頃、あまり協力が得られず、ほとんど独力で妻鹿村にあった

廃寺を買い取り、移築のうえ蓮花寺として再建しています。

阿閇神社より薬師如来坐像を引き取り修理したのもこの頃です。

上の写真は本堂の左手にある大師堂

上の写真は訪問時、工事中の山門。山門の上部に梅谷七右衛門清政が寄進した鐘が

あったが、太平洋戦争で金属供出された。

上の写真は工事前の山門 撮影は2011年頃

上の写真は山門の近くにある梅谷家の墓

梅谷七右衛門清政の直系ではないとお寺の方から聞きました。

上の写真は境内の弘法大師ほか。神仏習合で左手に境内社も写っています。

 

ジョセフ・ヒコによる両親と家族の墓  (通称「横文字の墓」)について

上の写真はジョセフ・ヒコによる両親と家族の墓の正面

心観浄念信士  多分義兄?
弘覚自性信士  多分祖父   安政三丙辰(1856)十二月二十三日
修善即到信女  実母     嘉永三庚戌(1850)五月十有八日
秋覚良秀信士  養父     元治甲子年(1864)七月廿有八日

養父の名前は浜田 吉左衛門
上の右に書いた年月日(旧暦)は没年(墓石の左側に書かれています)です。

 

上の写真はジョセフ・ヒコによる両親と家族の墓の裏面

英文で書かれていますので通称「横文字の墓」と呼ばれています。

Erected
to the
Memory
of his
Parents &
Family
by
Joseph Heco
December
1870

上の写真は右側面で明治庚午年(1870)11月の銘が刻まれています。

上の写真は左側面。上述したように没年が書かれています。

上の写真は現地説明板

ジョセフ・ヒコの一生

ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)は日本で最初に民間新聞を発刊したことで知られています。洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)でここではメインとしてこの名前を踏襲するが、アメリカ彦蔵(アメ彦)、浜田彦蔵、ジョセフ彦、浜田彦太郎、墓碑に彫られた浄世夫彦などの別名もある。日本名では浜田彦蔵で幼名は彦太郎天保8年(1837)9月20日に現在の播磨町古宮に生まれました。嘉永4年(1851)、満13歳のときに漂流し、アメリカ船(オークランド号)に助けられてアメリカサンフランシスコに行きます。1年後に香港経由で日本に帰還させられる予定であったが、その年(嘉永5年)10月に香港より再びアメリカへ渡航(2度目)しそして、安政6年(1859)22歳で日本に帰国し領事館通訳などの職につきます。しかし翌年(安政7年)2月に職を辞め、貿易商館を開く。当時は尊皇攘夷思想が支配しており外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、ジョセフ・ヒコは身の危険を感じて文久元年(1861)9月17日に3度目のアメリカに戻った。文久2年 (1862)10月13日、横浜に帰り再び米国領事館通訳の仕事を始めるが、文久3年( 1863) 9月30日、領事館を辞任し商売を始める。この年の秋には漂流記を上梓。さらに元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。慶応2年( 1866) 12月25日(新暦換算)、横浜を去り長崎に向うここで伊藤博文や木戸孝充と知り合いとなる。慶応4年(1868)9月22日生まれ故郷の古宮に帰郷した。東京を中心に活動した。以下の略歴を略す。明治30年( 1897) 12月12日、心臓病で死去。青山の外国人墓地に葬られる。

播磨町が作製したジョセフ・ヒコの生涯を解説したYoutube動画

 播磨町(兵庫県)『新聞の父ジョセフ・ヒコ物語』

 

ジョセフ・ヒコの年表(外部リンク)

 播磨町 ジョセフヒコ年表 (harima.lg.jp)

 

ジョセフ・ヒコのはじめ物語
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)はギネスブックに残るようなはじめ物語が多数
ありますので紹介します。

1)日本人として禁教後最初にキリスト教の洗礼を受けた。
    1854年10月30日 USA ボルチモアの教会
    名前は Cathedral of The Assumption B.V.M
B.V.Mはラテン語でBeata Virgo Maria出英語では
    Blessed Virgin Maryとなり聖少女マリアと直訳できる。
    この教会は1806年に建てられたものであるが現在もある由緒ある
    教会である。

2)日本人として初めてUSAの大統領(ブキャナン大統領)と合う
    1857年 11月25日

   1962年3月12日にはリンカーン大統領とも会っています。

3)日本人として初めてアメリカの市民権を得る
   1858年6月30日

4)日本人で初めて6,000mの深さの海底を調査。
   1858年9月~11月 測量船の小帆船 クーパー号(ブルック艦長)

5)日本のアメリカ領事館で初めての日本人通訳
   1859年 5月29日 事前に駐日公使ハリスと上海で合流

6)日本で初めて新聞 海外新聞を発刊
   新暦で元治元年(1864)6月28日 旧暦では1864年5月25日

7)初めての国立銀行条例をつくる。
   1872年渋沢栄一の下で英国人のシャンド(Alexander Allan Shand)と協働でつくった。

8)神戸で初めての電灯にヒコの精米所の蒸気機関が使用される。
    1884年12月

9)日本人初めての英文の自伝書 The narrative of a Japaneseを発刊
    上巻は1892年 下巻は1895年に刊行
 
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