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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

カフェ すまいる おおなか でのランチ in 兵庫県立考古博物館 on 2022-7-30

2022年08月02日 03時21分04秒 | 神戸市以外の兵庫県

2022年7月30日(土)、兵庫県立考古博物館のカフェ すまいる おおなか でランチ

を頂きましたので写真紹介します。

当日は夏季企画展「ひょうご発掘速報2022-五国に逸品-」の観覧と13:30からの

講演会に出席するために訪問していました。

以前は神戸風月堂が入っていましたが2019年の4月からこのお店が入っています。

 

カフェ すまいる おおなかの基本情報

住所:兵庫県加古郡播磨町大中1丁目1−1 兵庫県立考古博物館内 TEL:079-436-8188

営業時間:4月~9月 10:00~18:00 10月~3月 10:00~17:00

定休日:月曜日   オープン年月日:2019年4月13日

 

上の写真は営業時間などの情報が書かれたパネル

 

当日、五目ピラフ(りんごジュース付) 600円(税込)を注文

上の写真は当日いただいた五目ピラフ(りんごジュース付)600円(税込)

美味しくいただきました。

上の写真はアップルジュースについてきた勾玉の形状をしたクッキー

 

上の6枚の写真はお昼のメニュー表

かつめし(写真を撮るのを失念)が無いのでかつめしを食べた時の写真を添付。

2020年8月29日(土)、カツめし(アップルジュース付) 700円(税込)を注文

上の写真は当日、注文した加古川名物 カツめし 10食限定

上の写真はドリンクメニュー

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吉野家 JR明石駅店でのランチ on 2022-7-6

2022年07月18日 04時59分47秒 | 神戸市以外の兵庫県

2022年7月6日(水)吉野家 JR明石駅店でランチをいただきましたので写真紹介します。

この店では朝のモーニングや牛丼をよく食べていますがブログ記事にしたのは初めてです。

 

吉野家 JR明石駅店の基本情報

住所:明石市大明石町1丁目1−23 TEL:078-919-5995

営業時間:7:00~23:00  定休日:なし(無休)

公式サイト:吉野家 JR明石駅店 | 兵庫県 明石市 | 吉野家公式 (yoshinoya.com)

 

上の写真は当日、注文した牛皿麦とろ御膳 712円(税込)

夏のランチとしてはスタミナ回復に良いと思います。美味しくいただきました。

上の写真は牛皿麦とろ御膳が掲載されているメニュー表

 

 

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播州名所巡覧絵図で描かれた「六騎武者の塚」比定地

2022年07月13日 04時06分00秒 | 神戸市以外の兵庫県

本日は表題のテーマで記事を書いていきます。

六騎武者の塚とは、児島高徳の父児島範長主従の六人が自害した跡に建てられた墓のことです。

児島範長(こじま のりなが)は生年不明-1336年没 鎌倉-南北朝時代の武将。

児島高徳(たかのり)の父。建武3年=延元元年(1336)新田義貞に呼応し,足利尊氏方の

赤松則村の動きを牽制するため、高徳らと備前(岡山県)熊山で挙兵。

播磨(兵庫県)で赤松軍に敗れ,同年5月に自害した。通称は和田二郎。

児島範長の墓については下記サイトに詳しく書かれています。

 児島範長墳墓考 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

自害した場所には諸説あり本日紹介する播州名所巡覧絵図で描かれた「六騎武者の塚」は

その候補地の一つです。

播州名所巡覧絵図の六騎塚は現在の住所で高砂市阿弥陀町1985。大日寺があった場所です。

 

上の写真は播州名所巡覧絵図(作者は秦石田、絵師:中井藍江)文化元年(1804)刊
で描かれた

「六騎武者の塚」の図絵です。第3巻三十五

本文に「豆崎村の西駅、道の傍」と書かれているので、この場所は西国街道沿いの大日寺五輪塔

であると結論。

人が往来しているのは西国街道で男2人は歩行で東に向かい、その背後の女性は傘に手をやっています。

歩く方向から豆崎より南に分岐する曽根道・十輪寺道に向かうのであろと思われます。

宿駕籠で西に向かっているのは俳諧師であろうか。案内役のお付きの人もついている。

掲載ページの前に編照山・時光寺、石宝殿が記載されページの後には曽根天神が掲載されて

いることからも高砂市の大日寺・五輪塔と石仏であると推論できます。

ここからは、現在の大日寺跡の五輪塔と石仏をバーチャル訪問します。

上の3枚の写真はGoogleストリートビューに掲載の大日寺跡の五輪塔と石仏及び現地説明板です。

上の写真は大日寺跡の遠景 出典:Googleストリートビュー

上の2枚の写真は石造五輪塔と石仏さらに大日池(阿弥陀池)を中心に撮ったGoogle地図

下台公民館のGoo地図も添付しておきます。

以下の文は大日池と大日寺に関して書かれた神戸新聞NEXT(2021年8月5日 21:07)からの引用です。

高砂市のJR曽根駅から北東へ数百メートルの所に、大日池という小さな池がある。この池の表面が今、真っ赤な藻に覆われ、水面が見えなくなっている。

 池の隣には、かつて大日寺という寺があったが、2009年に火災で本堂が全焼した。境内には、南北朝時代の軍記物語「太平記」で英雄の武将、児島範長(のりなが)らを弔った六騎塚という碑が立つ。範長は1336年、新田義貞に呼応し、足利尊氏が大軍を率いて九州から東上してくるのを迎え撃ったが、最後に主従6騎となり、播磨・阿弥陀宿の辻堂(つじどう、現在の大日寺跡)で自害したという。

 この時期になると赤く染まる大日池を見て、地元では範長ら6騎の怨念ではないかと、おののいている。

六騎塚の伝承地としては姫路市別所町にも残っています。紹介記事は下記サイト。

 歴史の風景-播磨伝説異聞-206消された英雄 六騎塚 (dti.ne.jp)

 

児島範長の子、児島高徳は坂越のお寺に留っていたので難を免れることができました。

児島高徳は湊川の戦いで戦死した楠木正成と共に天皇の忠臣として知られています。
後醍醐天皇が隠岐から還幸した元弘2年(1332)以降、南朝方の武士として活躍
したとされ太平記で多く記載されています。
児島高徳の別称としては三郎、備後三郎の他に三宅三郎高徳、児島三郎入道志順
などがあります。

児島高徳の墓(供養塔)は坂越にあり以前ブログ記事を作成しています。(下記リンク)

 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その24 児島高徳の墓 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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加古川市 浜の宮天神社 訪問記 on 2021-4-2

2022年07月12日 06時41分28秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年4月2日、加古川市の「浜の宮天神社」を訪問しましたので写真紹介します。

浜の宮天神社の基本情報

住所:加古川市尾上町口里770 TEL:079-424-6908

御祭神:菅原道真、大国主命、少彦名命  創建:長和元年(1012)

公式サイト:学神菅公の宮 浜宮天神社 (hamanomiyatenjinsha.com)

公式サイトでは浜宮神社と表記していますが当ブログでは浜の宮神社として書いていきます。

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

拝殿

上の2枚の写真は拝殿です。

本殿

二代目鹿児之浜松

上の2枚の写真は拝殿脇の鹿児之濱松と石碑

石碑には二代目 鹿児之濱松 樹齢 約550年 宝徳2年(1450)と書かれています。

上の2枚の写真は二代目鹿児浜之松の中に建てられた「菅公霊松」の石碑と木魂社の祠

木魂社は長寿と無病息災の御利益があるそうです。

 

境内案内板

上の2枚の写真は境内の浜の宮神社の由緒や年間行事などが書かれた案内板

文安元年(1444)に社殿が建立されたこと。年間行事として、

 1月1日~5日 初詣

 1月25日   初天神祭

 6月30日   輪抜祭(夏越祭)

 7月25日   天神夏祭

 10月10日  秋例大祭

 11月15日  七五三

延喜元年(901年)菅公筑紫左遷の砌当地に御休息され海上の平穏と萬民の幸福を祈願され記念に松樹を植えられました。後世の人、公の徳を追慕し長和元年(1012年)小祠を建てお祀りしたのが起源で、文安元年(1444年)8月30日社殿を建立し特に学問の神としてお祀りしています。
昭和48年9月より大改築を行い昭和50年3月現代の社殿が完成しました。
学業成就、縁結び、家業繁栄、交通安全の神様と仰がれています。

上の文は下記サイトの由緒文を借用しました。

 浜宮天神社 - くにたまの会 (kunitama.jp)

 

初代鹿児之浜濱跡地

上の3枚の写真は初代の鹿児之浜松のあった場所に建つ石碑と現地説明板

社務所と手水舎

 

能舞台

神門

 

神輿殿

神輿殿は昭和56年(1981)に新築されたようです。

境内摂社

上の写真は春日社

上の写真は戎神社

上の写真は琴平神社

上の写真は八幡神社

上の写真は稲荷社

上の写真は住吉神社

名前を付けていないものはどの神様が祀られているか不明

 

大鳥居

上の写真は浜の宮公園側に建てられた大鳥居と竣工記念の石碑

平成10年(1998)に竣工したことが判ります。

参道の石灯籠は下の写真の石碑より平成24年(2012)に整備されたことが判ります

御旅神社

浜の宮公園内のお旅所の祠

玉垣

 

 

案内板

上の写真は山陽電車の浜の宮駅前に建つ案内板です。

浜宮天神社まで駅から徒歩5分ですとの案内

わがまち加古川60選にも選ばれています。

加古川60選の冊子にはNo.15(Page10)に浜の宮公園と共に紹介されています。

黒松が群生する15.9haの公園と説明されています。

浜の宮公園内の戦争遺跡については下のブログで纏めています。

 加古川市 浜の宮公園内の旧陸軍航空通信学校尾上教育隊跡の碑と遺構 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

加古川市が製作したYoutube動画をGooで共有して筆を置きます。

15 浜の宮公園・浜宮天神社

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加古川市 浜の宮公園内の旧陸軍航空通信学校尾上教育隊跡の碑と遺構

2022年07月11日 04時31分43秒 | 神戸市以外の兵庫県

本日は表題の戦争遺構について書いていきます。

こちらは散策中に偶然、出会ったもので不十分な記載になることをご容赦願います。

写真の撮影日は2021年4月2日です。

まず、加古川市浜の宮公園の住所は加古川市尾上町口里817です。

浜の宮公園のGoogle地図を添付しておきます。

上の2枚の写真は陸軍航空第百十四教育飛行連隊発祥之地と書かれた石碑と現地説明板

陸軍航空第百十四教育飛行連隊発祥之地の裏面には次の文章が刻まれています。

昭和18年(1943)8月31日戦闘第101飛行隊を基幹として編成

昭和18年9月19日 北支南苑に到着

同地に於いて戦闘機基本戦技操縦教育を実施

昭和19年(1944)3月7日、第114教育隊と改称 部隊長 陸軍中佐 浦川八郎。

昭和20年(1945)6月3日、特攻第111振武隊を沖縄西方海上に出撃散華せり。

上の2枚の写真は鎮魂碑

陸軍航空第百十四教育飛行連隊発祥之地と鎮魂碑は浜の宮天神社の御旅所(下の写真)の周辺にあります。

上の写真は陸軍航空通信学校尾上教育隊配置図

出典:尾上公民館デジタル資料館

 

これからは陸軍航空通信学校尾上教育隊の遺構の写真です。

上の写真は浜の宮公園に残る陸軍航空通信学校 尾上教育隊の建物基礎

上の2枚の写真は浜の宮公園にのこる尾上教育隊の門柱の跡

上の写真も尾上教育隊の遺構

 

下記サイトには戦争遺構の全体像を上手く纏められていますのでリンクさせていただきました。

 陸軍航空通信學校 尾上教育隊 - 大日本者神國也 (fc2.com)

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三菱製紙高砂工場の煙突と加古川飛行場

2022年07月08日 04時45分49秒 | 神戸市以外の兵庫県

本日は表題のテーマで書いていきます。

三菱製紙高砂工場には2つの煙突があります。(下の写真)

本日の主題の煙突は上の写真の後方に写っている古い煙突です。

撮影:2022-7-6 山陽電車より撮影

この三菱製紙の高砂工場内の、途中で少しくびれた形のコンクリートの煙突は戦前よりあります。

この煙突は、元は60メートルあったそうですが、加古川飛行場が建設された時に風向きの関係で、

この煙突が離陸時に邪魔になったため、軍の要請でほぼ半分に伐ってしまったようです。

戦後、飛行場がなくなったので煙突を延長することになり、現在のような姿になったそうです。

加古川飛行場については加古川市の尾上公民館に加古川飛行場資料館があり、デジタル資料館として公表されています。(下記サイト)

 デジタル資料館 加古川飛行場 (kakogawa-airfield.work)

ここでは、簡単な加古川飛行場の紹介に留めておきます。

当時の陸軍大臣の「関西の最重要地区に防空の飛行隊を設置する」との命により、加古川の地が選ばれ、

戦前の昭和12年(1937)1月に建設着手、12月に加古川河口近くの旧尾上村に開設されました。

面積約150ヘクタールの土地に700m×110m級の舗装された滑走路3つと1,300m×300m級の滑走路2つが備えられました。

別名は尾上飛行場。滑走路が三角に交叉しているので「三角飛行場」とも呼ばれていました。

飛行場を中心として航空分廠、航空通信学校、陸軍病院、高射砲隊、憲兵隊、爆弾貯蔵施設などがあった。

配備された戦闘機は当初、95式戦闘機(キ-10、川崎)その後、97式(キ-27、中島飛行機)が主力であった。

ここで編成された飛行13戦隊、第246戦隊は関西地方の防空はもとより南方方面にも派遣された。

飛行機の整備や少年飛行兵の教育などの役割も担っていました。

戦争末期の1945年頃になると、関東・中部地方から知覧基地(鹿児島県)に向かう特別攻撃隊の中継・出撃基地にも使われました。

詳しくは別途、纏めて記事を書こうと思っています。

上の写真は昭和35年(1960)に撮影された加古川飛行場跡

出典:尾上公民館の加古川飛行場資料館の展示 撮影:2021-11-25

上の写真は加古川飛行場の施設平面図

出典:尾上公民館の加古川飛行場資料館の展示 撮影:2021-11-25

上の写真は陸軍が記録した加古川飛行場の施設概要

出典:尾上公民館の加古川飛行場資料館の展示 撮影:2021-11-25

加古川飛行場跡を歩いて調査したサイトが参考となるのでリンクさせていただきます。

 【戦争遺跡】加古川飛行場と高射砲道路を歩く | 楽しいむ〜さん一家 (blog-sanyo-railway.com)

加古川飛行場跡の碑などの写真(撮影:2021-11-25)を添付して筆を置きます。

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きょうは何の日 7月7日 時候及び五節句

2022年07月07日 17時01分33秒 | 神戸市以外の兵庫県

NHKラジオ5時台の「きょうは何の日 7月7日」を聴取しましたので内容を紹介します。

・1953年(昭和28年)坂東妻三郎が没

・1985年(昭和60年)ウィンブルドンテニス大会でボリス・ベッカーが17歳の最年少V

・1998年(平成10年)画像センサーによる無人ドッキング試験で、おりひめとひこぼしは

   分離後2mまで離れてからドッキングを実施し成功した。

・2016年(平成28年)永六輔さんが没

 

次に7月7日前後の時候について書いていきます。

7月1日から7月6日までは日本の七十二候第三十候「半夏生ず(はんげしょうず)」でした。

一方、本日(7月7日)から7月11日は第三十一候「温風至る(あつかぜいたる)」です。

七夕を迎え、夜空の星に気持ちが向かいます。既に夏至を過ぎ、日は短くなる方向で

夏本番はこれからです。今年は既に6月下旬から酷暑で既に真夏が来ている感覚です。

7月7日の七夕について、七夕は五節句の一つでした。

五節句の制度は明治6年(1873)に廃止されましたが、今でも季節の変わり目の
諸行事が行われ我々の生活の中の風習として根付いています。

五節句は次の通りです。

1月7日 人日(じんじつ)七草粥
3月3日 上巳(じょうみ)ひな祭り
5月5日 端午(たんご)子供の日、菖蒲の節句
7月7日 七夕(たなばた)星祭り
9月9日 重陽(ちょうよう)菊の節句

 

昨日(7月6日)の10ch tenで五節句と七夕について簡潔な纏めのパネルを紹介されていましたので

添付しておきます。(下に2枚の写真)

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明石市立文化博物館の企画展「明石の木造船」が間もなく閉幕します

2022年06月25日 05時21分04秒 | 神戸市以外の兵庫県

明石市立文化博物館の企画展「明石の木造船」が下記要項で開催中です。

6月26日(日)に閉幕します興味のある方は是非ご観覧ください

私は6月15日(水)に観覧しました。

企画展 「明石の木造船」の基本情報

開催期間:2022年6月2日(木)~2022年6月26日(日) 場所:明石市立文化博物館

開館時間:9:30~18:30(入館は18:00まで) 休館日:月曜日 年末年始(12/29~1/3)

入場料:大人200円 大学・高校生150円 中学生以下は無料

公式サイト:明石市立文化博物館 (akashibunpaku.com)

企画展のリーフレット:

企画展の中身は城内撮影禁止のため写真紹介できませんが展示の構成は以下のとおり

1.古代~中世の船

1)日本での最古の船は千葉県市川市の雷下遺跡から出土の縄文時代の「くり船」 

2)古墳時代の船のイメージ(企画展の展示内容ではありません)を添付

1997年7月14日、天理市教育委員会は天理市中山町の3世紀末~4世紀初頭の前方後円墳

東殿塚古墳で舳先に鳥が止まった船の線刻画が見つかったと発表しました。

線刻画は鰭付き円筒埴輪に描かれています。1号から3号まで3つの船画があります。

上の写真は天理市の東殿塚古墳1号船画です。

この船画が描かれた背景について考察していきたいと思います。

東殿塚古墳の発掘調査を担当した天理市教育委員会技師の青木勘時さんは次のように

語っておられます。

「壮大な船画を描いた埴輪を墓前に樹立させてしまうほどの被葬者は、まさに大王としての

威厳をもった人物と思う。古墳祭祀のスタイルを確立しようとした東殿塚古墳の造営の

思想的背景に、海の向こうのあの世に渡るという葬送観があったことを示している。」

 

 3)古代~中世の船

  

上の写真は遣唐使船 遣唐使は630年の第1回から第20回の894年まで実施

出典:2022年5月31日Pm10時から NHK Eテレで放送の「知恵泉」

その後、日宋貿易、日明貿易で使用された船へと進化していきます。

2.近世の船

 江戸時代は鎖国の影響と幕府の方針で大きな船は建造されず北前船や弁財船、樽廻船あたりが規模の大きい船であった。

 

3.明石型生船

 明石型生船は水産会社の大洋漁業(現マルハニチロ)を創業した中部幾次郎が明治時代、

 人力に限界を感じ、第5回内国勧業博覧会でアメリカ製を見て思い立った活魚運搬船。

 動力としては「焼き玉エンジン」が使用された。

 焼き玉エンジンの明石での製造所としては木下鉄工(現在の阪神内燃機工業)などがあった。

 焼き玉エンジンは明治38年(1905)から昭和40年代(1965-1975)の前半まで使用

 明石型生船の選手側に魚を入れる生簀(いけす)があり、常に新鮮な海水を取り込むための穴が設けられていました。

 

4.漁船と船大工道具

 明石型漁船の模型展示、船大工道具の展示

5.おしゃたか舟

 おしゃたか舟の模型展示と岩屋神社の「おしゃたか舟神事」写真パネルなど

7月 第3日曜日 明石岩屋神社で「おしゃたか舟神事」が行われます

上の写真は2013年7月21日の明石岩屋神社「おしゃたか舟神事」

詳細は下記ブログで書いています。

 おしゃたか舟神事 in 明石岩屋神社 on 2013-7-21 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

次回の展示は夏季特別展示「あんびるやすこ作品展」で7月16日から始まります。

リーフレットを添付しておきます。

 

最後に写真撮影が可能であった漁船(ケンサキミヨシ)と明石型生船の部材(舳先)の展示と

説明板を添付して筆を置きます。

上の写真は漁船(ケンサキミヨシ)の展示

上の写真は明石型生船部材(舳先)の展示(手前の展示)と漁船(ケンサキミヨシ)の展示

上の2枚の写真は漁船(ケンサキミヨシ)と明石型生船の部材(舳先)の説明パネル

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聖徳太子関連の事績と遣隋使の派遣

2022年05月30日 06時49分13秒 | 神戸市以外の兵庫県

2022年5月17日(火)22:00からNHKEテレの知恵泉「遣隋使 格上相手とどうつきあう?」

が放送され視聴しました。

番組の映像を利用しながら、「聖徳太子関連の事績と遣隋使の派遣」をテーマに纏めてみました。

今回のブログは遣隋使がメインテーマであることから遣隋使が乗り込んだ船のイメージ図を

をまず添付しておきまし。(下の写真)

 

年表

538年 仏教伝来(一説では552年)
540年 大伴金村、任那問題で失脚
552年 蘇我稲目と物部尾輿が崇仏論争
562年 新羅が任那を滅ぼす
574年 聖徳太子生誕
      574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)出生地は橘寺     
577年 百済より経論、律師、禅師、仏工、寺工渡来

581年 文帝が隋を建国 都は大興城(長安)
585年 物部守屋等 仏寺、仏像などを焼き捨てる
     聖徳太子の父・橘豊日皇子が即位(用明天皇)
587年 崇仏派の蘇我馬子が物部氏を滅ぼす
588年 蘇我馬子が飛鳥寺の造営を開始
592年 蘇我馬子が崇峻天皇を謀殺。推古天皇即位。
     
593年 聖徳太子が摂政となる、四天王寺建立開始
594年 三宝(仏教)興隆の詔
600年 第1回の遣隋使を派遣
601年 斑鳩宮を造営

602年 百済僧の観勒が暦本、天文地理などの書を伝える
603年 冠位十二階を定めた。小墾田宮へ遷宮

604年 十七条憲法を制定、隋で第2代皇帝の煬帝(楊広)が即位

605年 諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む

607年 第2回の遣隋使派遣 小野妹子を派遣 斑鳩に法隆寺を創建

608年 小野妹子、答礼使裵世清とともに帰国。第3回の遣隋使派遣 小野妹子を派遣

610年 第4回 遣隋使。高句麗僧曇徴が紙、墨、絵の具の製法を伝える

614年 第5回 遣隋使 犬上御田鍬・矢田部造らを派遣

615年 仏教を篤く信仰し「三経義疏」を著す

618年 隋が滅びる 唐が抬頭
622年 聖徳太子死去
      622年4月8日(推古天皇30年2月22日)

628年 推古天皇死去 舒明天皇が即位

630年 第1回 遣唐使の派遣

 

それでは5回の遣隋使について詳しく見ていきます。

第一回(600年)の遣隋使
第一回 開皇20年(600年)の遣隋使は、720年に編纂された『日本書紀』に記載は無い。

しかし、東アジア諸国では末尾の遣使だった。『隋書』「東夷傳倭國傳」は高祖文帝の

問いに遣使が答えた様子を載せている。日本の教科書では日本書記への記述が無いことで

推古天皇15年(607)を第1回の遣隋使派遣としている。

この頃まだ倭國は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(『隋書』倭國伝)

上の写真は上述の番組で開皇二十年(600年)に大王と号する倭王アメ タラシヒコが

隋の都に使者を派遣したという『隋書』の文章の抜粋

「開皇二十年 倭王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言倭王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

開皇二十年、倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥(おおきみ)と号(ごう)し、使いを遣わして闕(みかど)に詣(まい)らしむ。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時に、出でて政(まつりごと)を聴くに跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて、我が弟に委(ゆだ)ぬと云う。高祖曰く、此れ太(はなはだ)義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。

上の写真は当時の皇帝「文帝(揚堅) 在位は581年~604年」が倭国の風俗を尋ねる

文章の抜粋。

開皇二十年に、大王(おおきみ)と号する倭王アメノタラシヒコは、使者を遣わして帝に詣らせた。高祖が役人を通じて倭国の風俗を尋ねさせたところ、使者は「倭王は、天が兄であり、日が弟です。まだ天が明けない時に出て、跏趺して坐りながら、政(まつりごと)を聴きます。日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねます。」と答えた。高祖は「それは甚だ不合理(あるいは不義理)であるから改めるよう」訓令した。

上の写真は使者が文帝に対して答えた内容の文章抜粋場面。

上の写真は文帝が使者の返答に対して発した言葉。

倭王(通説では俀は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した彦(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミで、大王とされる。『新唐書』では、用明天皇(在位585年-587年)が多利思比孤であるとしているが合わない[4]。開皇20年は、推古天皇8年(600)にあたる。この大王が誰かについては、推古天皇、厩戸王、蘇我馬子など意見が分かれている[5]。

この時派遣された使者に対し、高祖は所司(役人)を通じて倭國の風俗を尋ねさせた。使者は倭王を 姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩雞彌」で、「天をもって兄とし、日をもって弟とする。いまだ夜が明ける前に出て跏趺して政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる」と述べている。ところが、高祖からみると、倭國の政治のあり方が道理に外れたものだと納得できず、改めるよう訓令したというのである。

これが国辱的な出来事だとして、日本書紀から隋使の事実そのものが、除外されたという。だが、その後603年(推古11年)冠位十二階や、604年十七条憲法の制定など隋風の政治改革が行われ、603年小墾田宮も外交使節の歓待を意識して新造されて、次の遣隋使派遣がされる[5]。

上の写真は冠位十二階の具体的な内容

上の写真は604年、十七条憲法の制定のイメージ

上の2枚の写真は日本書紀に書かれた十七条憲法の内容

聖徳太子は隋の皇帝による支配の仕組みを取り入れ天皇を頂点とする身分秩序に

地方豪族を組み入れ支配するシステムを確立しようとした。(上の写真)

以上の文章はWikipediaからの引用(一部加筆)です。

 

第二回(607年)の遣隋使
第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が隋(大唐国)に国書を持って派遣されたと記されている。

日本の王から煬帝(ようだい)に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳倭國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。これを見た隋帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという[6]。

隋帝は最初、国書を上のように解釈し立腹した。

なお、煬帝が立腹したのは、天子は中華思想では1人で、それなのに辺境の地の首長が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である[7][8]。冒頭に、「海の西の菩薩天子が仏教を興隆させているので学ばせてほしい」と国書を提出していて、仏教を崇拝し菩薩戒を受けた文帝への仏教重視での対等の扱いを目指した表現で、譲位された煬帝相手のものではなかった[9]。

小野妹子(中国名:蘇因高[10])は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の勅使として裴世清(はいせいせい)が派遣されるという厚遇で一緒に帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している[11]。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも推測されている。

裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にある。

「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」

「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境?安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』

これは皇帝が蕃夷の首長に対し下す形式の国書であった。しかし、なぜか倭皇となっており、「倭皇」を後の日本書記編纂での改竄とする見解がある。『日本書紀』によるこれに対する返書の書き出しは「東の天皇が敬(つつし)みて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とあり、前回とは違う身分が上の貴人に差し出すへりくだった形式となっていて外交姿勢を改めたことになる[12]。「東天皇」は後の編纂時に改定されたもので「大王」か「天王」だったという説と、そのまま天皇号の始まりとする両説がある[13]。

なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかと考えられる。 小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される[14]。

だが、姿勢に変化はあるものの、冊封は受けないとする倭国側の姿勢は貫かれ、隋は高句麗との緊張関係の中、冊封を巡る朝鮮三国への厳しい態度と違い、高句麗の背後に位置する倭国を重視して、冊封なき朝貢を受忍したと思われる[15]。

 

 以上の文章はWikipediaからの引用(一部加筆)です。

上の写真は「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であると悟った煬帝は煬帝の勅使として裴世清(はいせいせい)を派遣さるという裁断を下しています。

上の写真は日本書記の記述

「日出処の天子……」の国書を持参した小野妹子は裴世清らとともに住吉津に着き、帰国する。(『日本書紀』、『隋書』倭國伝)

上の写真は当時の隋の状況図で高句麗との戦いで隋は疲弊していた背景があり、倭とは

仲良くしておきたかったと推測されています。


第三回(608年)の遣隋使
裴世清を送って小野妹子・吉士雄成などが再度派遣された。この時、学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)・学問僧として僧旻(そうびん)・南淵請安(みなみぶちしょうあん)・志賀漢人慧隠(しがのあやひとえおん)ら8人、隋へ留学する。

彼らは618年の隋の滅亡と唐建国を体験し、帰国後に7世紀後半の倭国の改革に貢献する[16]。

 以上の文章はWikipediaからの引用(一部加筆)です。

南淵請安については下記ブログで触れていますのでよかったら参照してください。

 南淵請安先生の墓 in 明日香村稲渕 on 2017-1-9 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

第四回(610年)の遣隋使

推古18年(610)-? 第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)日本書紀には記載なし

 以上の文章はWikipediaからの引用です。

第五回(614年)の遣隋使

614年(推古22年) - 615年(推古23年)第5回遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(『日本書紀』)

 以上の文章はWikipediaからの引用です。

隋の建国(581年)から滅亡(618年)

上の写真は隋の建国から滅亡までの年表です。

出典:グローバルワイド最新世界史図表 五訂版 第一学習社(2022)Page116

上の写真は隋の第2代皇帝の煬帝(ようだい)

612年から614年にかけて隋は高句麗に出兵するが、1回目で大敗し、戦費兵役負担から、次の2回にわたる遠征の最中に隋国内で反乱が起こり、618年に煬帝は殺害され隋は滅亡し唐が成立した[17]。

 以上の文章はWikipediaからの引用です。

上の写真は6世紀の隋と倭の状況を示した地図です。

遣隋使の航路も緑線で示されています。

出典:グローバルワイド最新世界史図表 五訂版 第一学習社(2022)Page25

 

番組の締めとして大阪大学の河上麻由子准教授は聖徳太子のブレーンとして

恵慈がいたことを紹介されていました。

高句麗の僧侶恵慈は推古3年(595)に来日して,聖徳太子の師となり,百済から来日した

聡(慧聡)と共に「三宝の棟梁」と称された。 その事績は伝説的だが,聖徳太子と親交があり

太子の『三経義疏』制作事業に協力し,『法華経』について問答したり,帰国時に

『三経義疏』を持ち帰ったという。

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高木珈琲 TAKAGI COFFEEでのモーニング on 2022-5-28

2022年05月29日 05時58分55秒 | 神戸市以外の兵庫県

2022年5月28日、ヤナダストアが入るテラスマにある高木珈琲でモーニング

頂きましたので写真紹介します。初訪問です

高木珈琲 須磨離宮公園前店の基本情報

住所:神戸市須磨区高倉台1丁目1-6 TEL:078-731-1151

営業時間:8:00~21:00  モーニングは8:00~11:00 

定休日:無休

オープン日:2022年3月15日

公式サイト:高木珈琲 (takagicoffee.com)

上の写真は私が選択した「こだわりフレンチトースト」820円(税込)

まずまずのお味でした。ホットコーヒー単独では410円(税込)

上の写真は奥様が選択したミルフィーユパンケーキ2枚(280円)+ホットコーヒー(410円)

合計 690円(税込)でした。ホットコーヒーが写っていないのでホットコーヒーの写真を添付

(下の写真)パンケーキは中まで火がとおっていない為、ヌルヌル状態でぶつぶつ言いながらも

食べていました。

上の写真はモーニングのメニュー表です。

上の写真はドリンクのメニュー表です。

上の2枚の写真は高木珈琲 須磨離宮公園前店の外観

右手にテラス席が写っています。

 

今回のキーワードの一つであるモーニングについて過去に訪問して記事を書いた

ブログにリンクしておきます。

 おらが山(高倉山)のおらが茶屋でのモーニング on 2008-6-7

 志津屋 烏丸御池店(SIZUYA BAKERY)でのモーニング on 2017-4-13

 萩原珈琲店の直営店「Cafeat Hug(カフィート・ハグ)」でのモーニング on 2015-3-7

 ドット カフェ(Dot Cafe)でのモーニング on 2014-10-11

 星乃珈琲 垂水海岸通り店 でのモーニング on 2014-9-9

 景色が素晴らしい スターバックス神戸西舞子店でのモーニング on 2020-6-19

 スターバックス 神戸垂水桃山台店でのモーニング on 2018-6-28

 神戸市垂水区桃山台のカフェ 森のベンチでのモーニング on 2018-6-9

 ポータルカフェ スバコ JR京都伊勢丹店でのモーニングビュッフェ on 2018-1-24

 荻原珈琲店 カフィート・ハグでのモーニング on 2018-6-16

 喫茶かたやま のモーニング on 2008年3月

 神戸で2番目に美味しい 喫茶ツザキでのモーニング on 2008-4-14

 神戸新開地のレトロ喫茶 エデンでのモーニング on 2008-4-28

 阪急三番街のCascadeでのモーニング on 2008-6-30 

 洋食レストラン 陣でのモーニング on 2008-7-5

 新梅田食堂街「奴」での朝食 on 2008-11-11

 パレス神戸1階パルティール(Partir)でのモーニング on 2009-4-14

 JR垂水駅前にある華(はな)でモーニング on 2009-6-6

   現在はこの位置(王将の隣)には餅屋さんが入っています。

 コート デュ ヴァン (Cote du Vent)での モーニング on 2009-7-23

 神戸市垂水の喫茶店クリアでモーニング on 2009-10-27

 ホテル オークラ 山里でのモーニング on 2010-4-4

 UCCカフェプラザ神戸交通センタービル店で モーニング on 2010-7-22

 神戸市須磨区 神戸珈琲物語 名谷店でのモーニング on 2020-6-20 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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