今日は8月6日。原爆の日・原爆記念日です。
スペインからやってきた一行は、今日広島に行って来ました。
若者達は朝が弱いそうで(笑)式典には参列しなかったのですが、平和公園付近を見学していると、外国人という事で、色んな人に話しかけられたそうです。
折鶴を折ったり、色んな話をしたりして交流し、とても有意義だったみたいです。
資料館では、あまりの惨さに展示を見ていられなくなったりしたそうです。
宮島にも行くつもりだったけど、平和公園一帯だけで一日つぶれてしまったとか。
一方私は、テレビのニュースで、アメリカでの原爆についての教育の現状を知りました。
やっぱり、「原爆を落とさなければ、アメリカにも日本にも、もっとたくさんの犠牲者が出た。原爆を落として良かったのだ」と教えているのだそうです。
実際の被害状況は、ほとんど教えられていません。
単なる大型爆弾程度のイメージなのかもしれません。
広島の街は復興してすっかり綺麗になっているし、完全に過去の事で、まさか今現在に至るまで、酷いケロイドを身体に残し、様々な原爆症に苦しむ人々が絶えないことなんて、知ることもできないのでしょう。
伯母達が聞いてきた「平和の火」についての話と繋がりました。
あの時広島の瓦礫にくすぶっていた火を、叔父を探しに来た人が故郷に持ち帰りました。
その人は、そのことを亡くなる直前まで誰にも話さず、ただ絶やさないように燃やし続けていたそうです。
その火が、広島にも移されました。
平和の火 62年ぶり広島に 被爆1カ月後の残り火(産経新聞) - goo ニュース
その人は、最初は、原爆を落としたアメリカへの怒り・怨念を忘れないよう、火に託して燃やし続けていたのだそうです。だから誰にも話さなかったのかな。
私は、原爆について教育を受けるうちに、アメリカについて憎しみの感情を持ったことがあります。
もちろん、アメリカ人だからってみんな嫌いなわけじゃなくて、漠然と“アメリカというもの”について、負の感情を持っていました。いや、正直今もあります。
原爆について学んでいなかったら、たぶん無かった感情です。
だから、正当化されると悔しいし(例の「しょうがない」発言もね)、平和の火を持ち帰った人の怒りも分かる。
でも、憎むだけじゃいけないんだというのも分かっているつもりです。
アメリカの人達だって、実際に体験した人の苦しみ、実状を、身近に感じることができれば、きっと「落として良かった」なんて絶対言わないでしょう。
それぐらいは分かっています。
知らないから、教わっていないから、肯定する。
知っているから、教わったから、憎んでしまう。
この関係は、日本とアメリカ以外にも当てはまるかもしれません。
教育や環境のせいにして逃げることは良くないけど、少しでも疑問を持ったら、考えることを忘れないでほしいし、そうありたいです。
「なぜヒロシマの後、ナガサキにも落としたの?」
アメリカの先生が、そう生徒に質問されて言葉に詰まった、と言っていました。
一番悔しいのは、知っていながら、正当化する一部の人々のこと。
「夕凪の国 桜の街」で一番心にズシッと来た言葉。
「13年も経ったけど、原爆を落とした人は、“やった、また一人殺せた”とちゃんと思うてくれとる?」
彼らは、そう思っているのだろうか。責任持って、受け止めて欲しい。
正しいことは何か?自分達は間違っていないか?
考えよう。想像しよう。