「恩寵」の結果である「神話」というものは、前にも言ったが誰にでも持てるものではない。時代という恩恵もあろうが、個人の資質・才能そして高邁な努力によって得られるのだ。一部真摯な「建設」もあって形成される。
近代だと誰だろう。孫正義か。いや彼には悪評も多い。産業界だと松下幸之助や本田宗一郎だろう。彼らが居なくなったら、とくにPANASONICは惨めな墜落ぶりだ。今、ほとんど居ないんじゃないか。
かろうじて、大本教の出口王仁三郎氏だろう。後は同じ松下でも松下松蔵か。しかし俺は松下松蔵は最近知ったばかりで「神話」は俺迄は世間に浸透していなかった。
天皇の「天照」神話は敗戦で消失した。
つまり、今の日本で「神話」を有する人間は無いのである。「恩寵」の残骸はどれだけ残っているのか。
「神話」を残せるということは常人ではまずできないことなのである。
国単位ならば「神話」を捨てた時点で本来はその国は終わるのである。
但し「屍」となった「神話」をいつまでも生きているんだと言い張っている独裁国や類縁国もあるので注意。大衆の心にいまなお息づいていることが大事なのである。
大衆という土地”に芽吹かない「神話」は、どんなに美しくても死体である。
「偶像崇拝」についてだが、目くじらを立てて大罪とするのは、俺から見たらどうかしとると言いたいもんだ。何度も言うが、それはその人の知覚・想像認識力の限界を示しているだけなのである。そもそも人間自体も「固定化」されているというのは前稿でも言及済であり、もし「踏絵」を強制されたとしても、私なら「絵ごときは妄想、真の姿にあらず」と遠慮なく「踏絵」するだろう。(現在の教育では「踏絵」でなくて「絵踏」というらしいね。知らなかったぜ。)
〇神話が単なる昔話・おとぎ話でない理由」
神話が「単なる昔話」や「おとぎ話」とは決定的に異なるのは、
それが“今を生きる者の精神的構造”として機能しているかどうか"にある。
それが“今を生きる者の精神的構造”として機能しているかどうか"にある。
物語や伝承は過去の出来事として語られて終わるが、
神話は“今もその構造に我々が住んでいる”という実感を伴う。
神話は“今もその構造に我々が住んでいる”という実感を伴う。
たとえ時代が変わろうと、
- 苦難の意味を与え
- 努力の価値を裏付け
- 社会の正当性を保証し
- 個の生き様に方向性を与える
──そうした役割を担っていなければ、神話は「死体」なのである。
逆に、語り手が消えても、神話が機能している限り、そこには霊的現役性が残っている。
つまり、神話とは“思考と社会と霊性をつなぐ生きた橋”であり、
それが失われた民族は、思考の基盤そのものを喪失する。
つまり、神話とは“思考と社会と霊性をつなぐ生きた橋”であり、
それが失われた民族は、思考の基盤そのものを喪失する。
(16に続く)
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